気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

『身延山御書』について。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さてこのブログでは何度となく指摘していることですが、創価学会版の日蓮御書全集には偽書の疑いの強い遺文が少なからず収録されています。また逆になぜか理由なく収録されない遺文も併存しています。
その編集姿勢は真蹟主義という訳でもなく、『生死一大事血脈抄』『新池御書』のような真蹟不存のものも収録されています。それなのになぜか『当体蓮華抄』『授職勧請口伝抄』のような遺文は未収録です。教団自体は「信仰に資する」観点から収録したりしなかったりを判断しているようですが、要するに教団運営上、都合が悪いので不採用としているように思えてなりません。
 
創価学会版御書全集に収録されない遺文について」
 
今回取り上げてみたいのは『身延山御書』です。『身延山御書』は確かに真蹟不存ですが、録内に収められ、比較的初期から知られる日蓮遺文です。美しい名文としても知られ、文体がやや日蓮の遺文としては異例です。

 
この『身延山御書』、実は池田大作氏が『若き日の日記』の中で引用したことがあります。具体的には昭和25年6月15日の日記で「たのしくして若干の財を布施すとも、信心よはくば仏に成らん事叶い難し。縦ひ貧なりとも信心強くして志深からんは仏に成らん事疑い有る可からず。(身延山御書)」と書かれているのです(『若き日の日記』(上)、『池田大作全集』第36巻所収)。
それにもかかわらず、この『身延山御書』は創価学会版御書全集には未収録です。旧全集にも新版御書にも同抄は収録されていません。真蹟不存で偽書の疑いがあるなら載せないというなら、他の『御義口伝』や『生死一大事血脈抄』等を載せていることはダブルスタンダードになってしまいます。だからこそ教団としては「信行に資する」という観点で採用するかしないかを判断したいのでしょう。では『身延山御書』を収録しない理由は具体的に何なのでしょう。
本当のところはわかりませんが、同抄を私が読んで「創価学会にとっては都合が悪い」と考えられるところを指摘してみたいと思います。
 
1、身延山を神聖視している。
 
冒頭には「誠に身延山の栖は、千早ふる神も恵みを垂れ、天下りましますらん」と書かれており、身延山自体の美しさを強調するような筆致で書かれています。確かに身延山日蓮宗を敵視してきた創価学会としては、この御書はあまり載せたくないのかもしれません。
 
2、弟子が師匠の過ちを指摘すること
 
身延山御書』には次のような一文があります。
 
「実に仏になる道は師に仕ふるに過ぎず。妙楽大師の『弘決』の四に云く、『若し弟子ありて師の過(あやまち)を見(あらは)さば、若しは不実にもあれ、其の心自から法の勝利を壊失す』云云。文の心は、若し弟子あつて師の過を見さば、若しは実にもあれ不実にもあれ、已に其の心あるは身自ら法の勝利を壊(やぶ)り失ふ者なり」
(『身延山御書』、『昭和新修日蓮聖人遺文全集』より2-1285ページ)

 
師匠と弟子の関係について書かれた部分ですが、ここでは「師匠の誤りを弟子が指摘しなければ、法の勝利を壊失する」ことが説かれています。師匠が過ちを犯すことがあることが前提とされていますから、これは確かに殊更に師弟を強調したい創価学会としては「都合が悪い」のかもしれません。
 
 
 
以上、簡単に読んだだけなので確かなことは言えません。が、少なくとも池田大作は『若き日の日記』で『身延山御書』を引用したことがあるのですから、池田大作氏を絶対視する教団として同抄を教団発行の御書全集に収録しないという姿勢はいささか矛盾しているように私には感じられます。