気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日興と五老僧との関係について。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は日蓮の弟子である「六老僧」で日興と他の5人は本当に対立していたのかという検証です。
日興は確かに民部日向と対立したことは諸文献から間違いないのですが、実は他の4人の老僧たちとは全く対立していないのです。
 
 
 
日向を除く四老僧たちが日興と敵対関係にない根拠はいくつか存在します。順番にあげてみましょう。
 
 
1、大石寺4世日道『三師御伝土代』で、富士の日興のもとを日朗が訪問しており、日朗が日興を褒め称えたことが記録されている。
 
 
これは画像を見てもらいましょう。以下の画像は大石寺4世日道の『三師御伝土代』です(日蓮正宗歴代法主全書1-270ページ)。

 
正中年間(1324〜1326年)に六老僧の日朗が富士の日興のもとを訪ね、日興のことを「御弟子にてまします」「たつとむべし」として称賛しているのです。しかも日道はここで日朗を「日朗上人」とまで書いています。これで日興と日朗が対立していると言えるのでしょうか?
 
 
2、富木常忍の実子・寂仙房日澄は五老僧・日頂の弟にあたり、日澄は日向と義絶した後、日興の門に入って重須談所の学頭に就任している。
 
 
先の1項で挙げた『三師御伝土代』の続きにはきちんと「日頂上人舎弟寂仙房日澄」が富士山の日興のもとに帰伏し、富士に住むようになったことが書かれています。日澄は富木常忍の子で、日頂は富木常忍の義息として育てられます。
その後、日澄は北山の初代学頭になり、兄である六老僧の日頂は養父の富木常忍から勘当されて後、日興のもとを訪れ、1303年に重須に正林寺を創建しています。
これらは正林寺の記録や寺伝に残されているようで、日蓮正宗も日頂が日興に帰伏し、重須にいたことを認めています。以下は阿部日顕監修『日興上人・日目上人正伝』(日蓮正宗、昭和57年)から176ページの画像です。きちんと日蓮正宗側も六老僧の日頂が日興に帰依したことを認めています。

 
 
3、五老僧が日興を批判する文献は一つも存在しない。
 
 
実はこれが最も大きいのですが、六老僧のうち、日興以外の5人が日興を直接批判した文献は存在しないのです。むしろ文献から見えてくる日興像は、師の教えに厳格であった純粋な日興の姿であり、他の老僧たちも日興の純粋さを褒め称えているのです。
 
 
4、日朗『身延離出書』では、日興とともに他の四老僧もまた日向を師敵対としており、日興に対する敵対心は文中に全く見られない。
 
 
以下は日朗の『身延離出書』(日蓮宗宗学全書1-13〜14ページ)として知られる文献ですが、マーカーされた部分を読むとよくわかります。

久遠寺の波木井殿に三つの謗法がこれあるによって、日昭、日朗、日興、日頂、日持の五人は同心に彼の山を出ること一定なり」とまで述べています。これが正しいとすれば、日興は確かに民部日向以外の5人とは何ら対立関係になかったことになります。
同書の後半は日朗による日向批判が書かれており、「日向は日蓮の御弘通の本意を背き」「大謗法の波木井の施を受て彼の山に留り給ふこと師敵対なり」とまで書かれているのです。末文で日朗は日向に対し「師敵対なれば堕地獄は一定せり」とさえ断じています。
もちろんこの文献も日朗の真蹟ではない、後世の偽作の可能性もあるでしょう。
ただそうなると、誰がこの文献を作ったのかという問題になります。仮に日朗門流が偽作したと仮定するなら、朗門は富士門流と同様に日向を批判する立場にあったことになります。しかしながらここには日興を批判するようなものはありません。むしろここで批判されているのは身延の民部日向なのです。
 
 
以上の理由から、日興と対立していたのは日向なのであり、他の四老僧とは対立していなかったことは明白だろうと思います。
 
 
 
「五一の相対を考える」