気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

批判と非難。





いつもみなさん、ありがとうございます。




さて、私は「批判」と「非難」は全く異なるものだと考えています。
私はこのブログで創価学会大石寺を「非難」「中傷」しているのではありません。文献的な検証等を通して「批判」をしているのです。
私は池田大作戸田城聖に関しても「批判」をしますが、「非難」をしているわけではありません。


また私はこのブログで日蓮思想や法華経について「批判」をしていますが、それが単なる「非難」や「中傷」にならないように気をつけているつもりです。



私がこのブログを一時閉鎖しようと考えた理由は、いろいろとありますが、自身がTwitter等での議論の最中、あまりに教条主義的な日蓮正宗信徒や創価学会信徒に辟易してしまったというのがあります。
私の中で日蓮そのものに可能性を見出せなくなり、日蓮そのものに対して否定的な見解、時には非難中傷のようなコメントをしたこともあります。そのことに関して今の私は強く反省しています。



だからこそ、ブログを再開するにあたって、それが単なる非難中傷にならないよう、文献的な批判・検証を通じて語れる事実や史実を描き出すようにしています。



それでも時には私も間違いを起こすかもしれません。その時は積極的に批判を受け入れ、自身の発言を撤回する柔軟性を持たないといけないでしょう。
ただ文献的な批判や検証を受け入れつつ、個々人にはそんな日蓮を信じる自由も、また信じない自由も両方にある筈です。



大切なことは頭ごなしに否定するのではなく、きちんと文献的・史料的な批判を受け入れ、その上で自身の信仰として考えていく姿勢なのではないでしょうか。
そのような自己反省ができないからこそ、教条主義的で原理主義的な教団の伸張を許すことになりかねません。そうなれば「悪貨は良貨を駆逐する」事態となり、決して宗教の世界に良い結果をもたらさないのだと思います。



先日の記事で引用した花野充道氏も、論文中できちんと日蓮国家主義的な思想性を認めていました。彼はきちんと文献的な検証をした上で、日蓮にそのような思想のベクトルがあることを受け入れています。



そして大切なことは、その「批判」が単なる「非難」にならないように、あくまで客観的に思想性を提起する姿勢なのではないでしょうか。
日本という国には思想や信条の自由が保障されています。しかしそれは他者の思想や信条を頭ごなしに否定して良いという自由ではない筈です。それは単なる自由のはき違いであり、自由の乱用にすぎません。
そのように他者の思想の自由を認めない故に私が批判するのが、創価学会等の大石寺系教団です。しかしながら、その批判が単なる「非難」にならないように、私自身が気をつけなければならないといつも考えています。それができないなら、結局その思想性は他者の思想性を認めない大石寺系教団と変わらなくなってしまうからです。