気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

母の考えた本質とは。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、私はブログで以前から、今は亡き自分の母について何度か書いています。



「在りし日の母を思って。」

「母の言葉を。」



私が行動する時、いつも基準は「母ならどう思うだろうか」という点です。
私も私の母もかつては創価学会の活動家でしたが、活動に行きたくなくなった時も、会合をサボった時も母に叱られたことは一度もありません。



母は形式に拘らない人でした。
「行きたくない会合は行かなければよい」
「つまらないことはやらなければよい」
母はそういう人でした。
どうせ活動するなら、楽しくやろうという人でした。
母は人と人との絆、人間関係を大切にする人でした。創価学会の地区の会員たちは自分の家族のように思っていました。だから母はしょっちゅう家庭訪問と称して遊びに行っては話を聞いたりしていました。幹部以外の会員で母の悪口を言う人を見たことがありません。母のことを悪く言うのは大抵支部幹部から本部幹部以上でした。それも地区のメンバーたちはみんな母の味方でしたから、おいそれと母を敵に回すことが出来なかったのです。



身体の弱い方がいれば、買い物を代わりにしたり、料理を作っては届けたり、遊んだり、長電話したり、そんなことばかり母はしていました。



母の家系は短命の方が多く、母の兄弟たちも母より先に亡くなりました。
母は次第に身体を壊し、臆病になり、精神的に不安定になっていきました。
創価学会の信仰が正しいと信じてやってきましたが、「活動に疲れた」と正直に私に言うようになりました。



母は大石寺譲りの御本尊信仰の桎梏からは、逃れることができなかったように思います。が、母は信仰の本質を自分の心の問題と考えていました。別に会合に出なくても聖教新聞の営業をしなくても、無理に布教活動に挺身しなくても構わないと考えていました。



母は人が好きでした。
人と会うのが好きでした。
打算や利害、数値目標だけで人に会うのを母は嫌いました。
だから次第に創価学会の活動をするうちに疲れてしまったのでしょう。創価学会の元活動家ならお分かりのことかと思いますが、創価学会はやたら数値目標を掲げ、結果を追い求める宗教団体です。日蓮正宗には本来そういうところはなかったはずなのですが、最近の大石寺は末寺に対して布教数の数値目標を決めさせて発破をかけることが多くなっているようです。



創価学会の活動は多岐に渡ります。
写真展の結集だったり、民音チケットの購入だったり、聖教新聞の営業(創価学会信徒はよく「新聞啓蒙」と言います)だったり、布教活動だったり、セミナーへ友人を呼ぶことだったり、家庭訪問や選挙支援、本当にいろんなことがあります。
最近の創価学会はやたら選挙選挙ばかりで、最近は選挙に突出した組織に成り果ててきました。昔は教学の研鑽もあったのですが、今ではほとんど日蓮の御書など読まれません。単に切り文を数行読んで「がんばろう」とお茶を濁すのが今や席の山です。



そういった多岐にわたる宗教活動について、母はいつも「本質」を見ていたように思います。
母の考える「本質」とは「人と繋がること」「仲良くすること」「楽しく暮らすこと」等です。



母が活動家だった時代、創価学会の活動と母の考える「本質」はイコールで合致する部分が多かったようです。まあ、それでも母は当時からよく幹部とケンカしていましたが(笑)。
それが次第にイコールでなくなった、母の考える本質が創価学会の組織から見えなくなった、表面的な数値目標に踊らされる組織に辟易してきた、それが母の創価学会の活動から遠ざかることになった最大の要因だったように思います。



こんなブログを書いている私などからすると、創価学会にも大石寺にも本来の正統性など何もなかったと今はわかるのですが、当時の母の本音から考えると、昭和の互助組織としてのセーフティーネットの役割を創価学会が地域社会において果たしていて、その中に私の母は自分の生きる意味を見出していたのだと思います。



「存在意義の終焉。」



そんな存在意義も終わり、歴史的な役割を終えてしまった創価学会、そしてそこに延命をしようとしている創価学会大石寺
思うに、もはや教団というものが必要なくなった時代なのかもしれませんね。
私には創価学会大石寺顕正会も正信会も必要ありません。
母の菩提を弔うのに、教団も必要ないと言うのが今の私の考えです。
母は生前、私に「死ぬ時はお前がいてくれればいい」と言っていました。
今や母の遺影と暮らす日々ですが、この毎日が私にとっての本質であり、母との絆こそが私の執筆意欲の源泉でもあります。



母さん、いつもありがとう。