気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

存在意義の終焉。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて創価学会は昭和30年〜50年代頃までに起こった一つの社会的なムーヴメントであったと私は思っています。


小説『人間革命』などを読むとわかりますが、当時は支部や地区で何十、何百という世帯の入会数がありました。当時は『折伏教典』を使って、来てくれた新来者を何人もの学会員で取り囲んで入会を迫るような手法です。
で、これらの入会を迫る弘教の手法は、今の創価学会も大して変化がなく、セミナーとか絵画展とか座談会とかに連れ出して、あとは幹部連中で囲むという(笑)。ほとんどやり方が昔と変わってない。



で、今、現在では若い世代の青年部が壊滅の危機に晒されています。特に地方では女子部は絶滅危惧種扱いです(笑)。
正直に言ってしまうと、もうすでに現在ではこのような「囲み折伏」とか「ご利益強調」とか「人間味で泣き落とす」みたいな弘教の手法が時代錯誤になってしまっているんだと思います。



「歴史的役割の終わり」

「上部構造としての創価学会



日本が戦後、経済成長に向かう中で、現世利益を強調する創価学会の主張には、貧しい人が多かった戦後の日本では大衆宗教としてなんらかの有効性が存在しました。創価学会は草の根に支持を広げ、地域にネットワークを張り、独特の互助組織を作り上げて来たのです。


虐げられた者たち、貧しかった者たちが、自分たちの手で平和楽土建設を願い、戦ってきたのが創価学会のかつての実態でした。
学会員のやや強引な弘教の方法論は否定されて然るべきですが、少なくとも私たちは(過去の私と私の家族も含めて)純粋に善意で拡大戦をやっていたのです。


振り返って、現在の日本はどういう状況でしょうか。
株価が連日高値をつけながらも、それが一般庶民にトリクルダウンしてくる気配もない。
貧しい生活を強いられながら、派遣や非正規雇用で働く、若い方々にとって生きづらい社会になっていることを危惧します。


そんな中で若い方たちに現世利益を主張することに何の意味があるのでしょう。
御本尊に祈る意味など、若い世代の方たちには響かないことが明白です。
私から言わせれば、もはや創価学会の主張など過去の遺物に近く、誰も池田大作のことなど知らないし、興味もない。思想的な深さもない。誰も教学を知らない。いるのは年寄りばかり。たまに座談会に出れば、やれ新聞をとれだの、書籍を買って欲しいだの、そんなことしか言われない。


もはや創価学会の歴史的役割は終わってしまったのだと思います。青年層の爆発的な拡大など今後は決してあり得ません。それができるというのならやってみれば良いのです。創価学会は戸田会長時代から「一人立つ精神」なんて言ってきましたから(笑)、青年部を増やそうという気概に燃えて戦ってみたらいかがでしょう? 間違いなく徒労に終わるかと思います。
もはや青年層は創価学会の信仰を必要としていないのです。



もしも創価学会内部で組織の再生を本気で考えている方がいるのだとしたら、その方たちは「創価学会の歴史的意義の終焉」という痛切な総括の上で、新しいことを始めないといけないでしょうね。しかしその総括や反省をしようとする意識は、とりわけ信濃町の本部執行部、そして池田名誉会長らには根本的に欠落していると私は考えています。