みなさん、いつもありがとうございます。
しかしながら、これが実在したことは間違いないことです。
「伝法本尊の大きさ」
「戒壇本尊に紙幅の原本は存在しない」
「伝法本尊」にしても「臨滅度時本尊」にしても、また「佐渡始顕本尊」にしても、由来や由緒が明白で、きちんと伝わってきたことが各文書から読み取れます。が、大石寺に相伝されたとされる「戒壇本尊」に関しては、上古の史料や記録が全く存在しないんですね。
かつて創価学会は、そんな「戒壇本尊」を絶対視し、それを元にして「佐渡始顕本尊」を非難中傷してきた小樽問答のような過去があります。そのような過去をきちんと訂正して謝罪することこそ、誠意ある行動だと私は思います。
さて「佐渡始顕本尊」は、上述のように明治8年の火災により焼失しましたが、身延山久遠寺33世遠沾院日亨(1646〜1722)の著作『本尊鑑』など、正確な臨写が複数残されており、ほぼその原型がわかっています。冒頭にその遠沾院日亨の臨写画像を掲載しました。
この本尊について日蓮自身が次のようにその意義を書いています。
日蓮が佐渡に連行される、その責任を負ったのは佐渡の守護代である本間氏でした。厳重な警護の中、日蓮は依知の本間館に9月13日に到着します。15日に富木常忍の使者がここにやってきています。日蓮はこの本間館に10月10日まで滞留することになるのですが、この時の10月9日に日蓮は初めての本尊を著すことになります。竹の楊枝の先を砕いて筆を作り、著したことから「楊枝本尊」と呼ばれています。
日蓮は文永10年、佐渡流罪から自身の体験と宗教的確信を得て、本尊に関する述作を意図し、下総の富木常忍に5本の筆を調達するように要請します。太筆、中筆、小筆等諸々の筆が日蓮の元に届いたのは文永10年の4月下旬と推測されています。この時の中筆を用いて書かれた著作が『観心本尊抄』であり、そして太筆を用いて著されたのが『佐渡始顕本尊』です。
佐渡始顕本尊
縦176.3cm、横79.0cm
臨滅度時本尊
縦161.5cm、横102.7cm
伝法本尊
縦197.6cm、横108.8cm
戒壇本尊
縦143.9cm、横65.1cm
このように、佐渡始顕本尊も絹本に浄書された、大きな由緒ある本尊であったということです。そしてそれが書かれた契機こそ、佐渡流罪によって得た宗教的確信であり、日蓮が『観心本尊抄』で描こうとして信仰世界の姿こそが、この『佐渡始顕本尊』であったということが言えるでしょう。
それにも関わらず、大石寺の戒壇本尊にはその由緒も存在しない。また『日興跡條條事』には文字を故意に欠損した跡や後世の加筆があることを大石寺の59世の堀日亨自身が認めてしまっています。さらには上古の史料や記録もない。大石寺14世日主(1555〜1617)の代になって突然「戒壇御本尊」と言う言葉が記録に出てくるだけです。しかも日蓮が重要な本尊に付けていた年号の「干支」の記録が戒壇本尊には存在しません。
そんな状態でありながら、そんな「戒壇本尊」を絶対視して、小樽問答等で身延山日蓮宗の佐渡始顕本尊を非難してきた創価学会の責任は非常に重いと言うべきであり、今後、創価学会が教義改正して、戒壇本尊を根本から否定するなら、きちんと過去を精算して日蓮宗に対して創価学会が謝罪すべきであると私は考えています。
参考文献