気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

ユゴーの文体と『人間革命』の文体。






いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は小説『人間革命』(旧版、全12巻)の文体についてです。


以前からこのブログでも、また他のブログの方も多く指摘されていることですが、この旧・小説『人間革命』は大部分が篠原善太郎氏による代筆であると言われています。
事実、創価学会は直筆の原稿全てを公開していませんし、版を重ねる度に改竄・削除等がなされており、本来の原稿を重視しているとはとても思えません。


加えて、ここで指摘しておきたいことは、篠原善太郎氏の文体です。
私は現在新しく出ている小説『新・人間革命』よりも、この旧版『人間革命』の方がはるかに読み物としては面白くできていると思います。


篠原善太郎の『人間革命』では、ストーリーの描写の後、社会情勢や歴史的背景などが突然入り込んできます。いわば読者はストーリーに一見関係がないと思える歴史や政治、社会等について読まなければならないことになるのです。
余談ですが、私がまだ大学校生時代、『人間革命』全12巻の読了が課題であった頃、これらの社会情勢の部分を読みにくいとして、なかなか読み進められないでいた部員さんが周りに多かったのを思い出します。私がよく勧めたのは「全部飛ばしちゃえばいいんじゃない」という荒業でしたが(爆)。



ところで、この「ストーリーとストーリーとの間に社会情勢や歴史・政治の客観的な描写を挟む」というスタイルは誰のスタイルなのでしょうか。
これはズバリ、もうヴィクトル・ユゴーだと思っています。
つまり小説『人間革命』は、その文体がユゴーの『レ・ミゼラブル』によく似ているのです。


例えばジャン・ヴァルジャンが革命の戦火からマリウスを助け出して下水管に逃げ込む直前に、『レ・ミゼラブル』では突然パリの下水道の歴史について描かれます。ストーリーと何の関係もないと思っていると、実はパリの下水道がいかに広大で複雑にできているかということがわかり、ジャン・ヴァルジャンの歩いた苦労がじわりとわかる仕掛けになっています。


篠原善太郎代筆とされる、この『人間革命』も、戸田城聖出獄後の創価学会再建が語られながら、戦後の日本の混乱や社会情勢が交互に描かれ、その文体はユゴーほど成功していないとはいえ、とてもユゴーのスタイルに似ています。


創価大学の高村忠成氏はユゴーの文学について次のように述べています。


「しかし、19世紀に入ると、人間が主体となり世界像を構築するようになるといえます。じつに世界を思い描く主体は人間であるという考え方が確立してくるのです。こうした人間観を代表するのがユゴーでした。(中略)こうした人間観に立つユゴーが強調したのは、最後は人間革命でした。彼は文学、社会、政治の改革を志向しますが、しかし、その究極は人間革命であると主張するのです。」
(高村忠成『ヴィクトル・ユゴーとフランス文学』創価大学通信教育部論集第15号より)



私は篠原善太郎氏が『人間革命』の代筆をする際に、相当程度にユゴーの文体を意識したことが十分にあり得ることだと考えています。仮定の話ですが、御大池田氏、そして信濃町は人間革命思想の現代的な展開のために、ユゴーの文体や思想をある程度咀嚼し、それをヒントにして教団の思想を構成していったのではないかと推察しています。






参考文献:
高村忠成『ヴィクトル・ユゴーとフランス文学』創価大学通信教育部論集、第15号所収、2012年8月