気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

集合住宅の会員宅でのかつての座談会。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、私が小さな子どもの頃の記憶ですが、創価学会の会合はほとんど拠点の会員宅か、日蓮正宗の寺院で行われていました。
各方面に会館が整備されるのは正本堂建立以降ですから、昭和50年代過ぎに少しずつ方面会館が建つようになります。



ではその頃、そんな不便を感じたかと言えば、さほど感じませんでした。
私は子どもの頃、都内の集合住宅に住んでいて、自宅は地区の拠点でした。
また同住宅内に別ブロックの座談会があればそこに行くだけなので、近くて便利でした。
お寺に会合で行く時には皆で行きました。日蓮正宗寺院が辺鄙な場所にあることもあって、不便なこともありましたが、お寺という特別なところに来たという実感をもって会合に参加したことを思い出します。



さて昨今は、どこの市町村にもたいてい創価学会の会館が一つはあるものです。
正本堂建立以降、会員信徒のためと称して各地に多くの会館を創価学会は建ててきました。
その結果、何が起こったでしょうか。



活動家の激減に伴い、牙城会着任者が激減し、会館を毎晩運営できなくなりました。仕方がないので、かつて青年部だった壮年部で「王城会」が結成され、アラームをかける始末です。最近ではそれでさえ着任者が追いつかず、地方によっては会館の休館日さえ設けている現状です。
私が青年部の頃、牙城会は毎晩必ず18:30には着任し、方面の中心会館に無事故の着任報告をしなければなりませんでした。365日一日たりと牙城会が休んだ日はなかった筈です。
加えて牙城会はセコムのアラームをかけて最後に退館する役割ですが、昔の方は宿直もあった筈です。朝まで会館に寝泊まりし、そこから会館長に引き継いで出勤するなど普通のことだったのです。信濃町の世界青年会館では今でも宿直が行われているのかもしれませんね。



さて、そんな状況下、これ以上、会館で会合を開いて何の意味があるのでしょう。
返って地方組織の負担感が増すだけなのでは無いでしょうか。
会館運営は、会館長による事務的な仕事のみならず、組織の信徒にさまざまな負担を要求します。例えば「守る会」などです。
周辺の側溝の泥を掃除したり、エアコンの掃除をしたり、畳を一枚一枚きれいにしたり、結構な人数で隅々まで清掃活動を行います。



そんな大変なことを信徒に課すくらいなら、かつての昔のように信徒各家庭の拠点で座談会なり何なりやる、かつての井戸端会議みたいな座談会形式に戻せばよいのだと思います。
わざわざ遠くまで会館に足を運ぶこともない、今なら各家庭でモバイルSTBで動画も視聴できるのですから、会員の負担を減らして「牙城会廃止」「王城会廃止」「守る会廃止」くらいのことくらいやってみてもよいと思います。実際、白蓮グループはなくなったわけですし。信濃町の幹部と会館長、本部職員で会館の清掃などできる筈でしょう。



私の子どもの頃の記憶ですが、あの自宅の団地の一室で皆が寄り集まって、大笑いしながら座談会後に梨を食べたり、お煎餅を食べたりしてお茶を飲み飲み談笑する姿がとても印象的でした。
今の座談会にあの頃のアットホームな雰囲気は存在しません。形式主義に凝り固まってしまった、単なる選挙集会に成り下がってしまいましたから。








最初から結論ありきで書かない姿勢。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、私はこのブログで、創価学会大石寺の批判をしますが、非難中傷ではなく、なるべく冷静に書こうと努力しているつもりです。
それがなぜかといえば、私はかつて原理主義的とも言うほど池田大作に心酔し、活動に打ち込み、また日蓮思想の普遍性をどうにか池田大作氏から読み込もうとしてきた過去があるからです。
活動家の頃は調べれば調べるほど、疑問がわき、悩み、その度に幹部に指導を受けたりもしましたが、「それは信心で受け止めるんだよ」とか「君の疑問は折伏の結果で結論を出す時なんだよ」とか、訳の分からない論理に誘導されてしまい、全く答えにならなかったことを思い出します。



池田大作氏が会長を辞任した昭和54年頃、私はまだ小さな子どもでした。
私は幼稚園3歳児の頃から朝に五座、夕に三座の勤行をしていました。仏壇には池田大作氏の写真が飾られていて、勤行を終わる時は必ず写真に頭を下げて「池田先生、おはようございます」と言い、寝る前は「池田先生、おやすみなさい」と言ってから休みました。
いつも通り私が夜の勤行で「池田先生、おやすみなさい」と言って寝ようとすると、父親が寄ってきてこういうのです。


「池田先生はもう会長じゃないんだ。だから池田先生ではないんだよ」


私は答えました。
「じゃあ、池田先生は会長じゃなくて何なの?」


「名誉会長になったんだよ」


「でも名誉会長って、きっと会長より偉いんでしょ?」



そう言って父親を困らせるような息子が私でした。
そんな訳で、男子部の活動家になった後も私には池田大作氏は絶対的な存在でした。




広宣部に所属し、他宗派との対論をする中で、教義上の疑念、また創価学会の史実の相違、大石寺教義の欺瞞などが徐々に見えてくるようになりました。
その度に幹部に質問をしました。しかしながら今に至るまでただの一度も納得のいく説明が為されたことはありませんでした。



私はその疑問を、文献から探して自分で考えて答えを見つけようとしました。もちろん池田大作氏に感じた疑念については、きちんと池田大作氏の著作(と少なくとも呼ばれているもの)を読み、書かれているものの中から答えを出そうとしてみました。
その結果、得たものこそ、このブログで書かれているようなことです。
このブログは、私が長い年月をかけて疑問を解消しようと努力し、文献を読んだ結果なのです。
だからこそ私は頭ごなしに非難中傷をすることはしません。なるべく客観的に史料を提示して、その上で私と同じように読者にも考えて頂けたらよいと思ったのです。
だから私のブログは最初から否定の結論ありきで書いたものではありません。自身の疑念を自身で検証してきた結果なのです。
私のことを「嘘つき」と呼ぶ人もいますが、私は嘘をついているのではなく、自分の中でただ信じたかったことを検証してきた結果、信じるに値しなくなってしまったことを淡々と書いているだけのことです。最初から全否定の結論ありきでブログを書いているわけではありませんし、結論を最後に読者にも委ねようとする姿勢は堅持しようと考えています。そのことは心あるブログ読者ならお読み頂いてご理解頂けると思います。




簡単に言ってしまえば、かつての私は最後まで池田大作という人を信じていたかったのです。そういう未練があったのだと思います。創価学会大石寺の信仰についても同様です。
その疑念と検証をしてきた果てに、私も非活になり、やがて母も父も亡くなります。
取り残された一人の部屋で、気楽に考えてきたことを書き残そうと始めたのがこのブログです。
冷静になって、事実を突き詰めれば突き詰めるほど、大石寺創価学会の欺瞞、教義上の破綻等が見えてきます。そしてそのことを幹部等に聞いたところで「信心で受け止めるんだよ」というすり替えの答えしか返って来ないのです。
もしもそれが違って「お前のブログは嘘だ。本当の事実は違う」と言うのであれば、納得の行くように客観的な史料に則って証明すれば良いだけのことです。その結果、私のブログに普遍性がないのであれば、いずれ批判が増え、ブログは忘れ去られるだけでしょう。ただ現状として、毎週1万件前後のアクセスがブログにあり、その度に共感のメールや連絡が常に私に入っています。



私がこのブログで提示しているのは、原則として史料と史実の検証です。
それを頭ごなしに否定する人たちの論理には、今まで散々に辟易させられました。
史料の冷静な提示から見えてくる真実は、遺された史料の質によって限定的なものもあるでしょう。しかしながら客観的な史実は史実でしかない。それ以上のことを私はここで述べようとは基本考えていません。











南原繁の「人間革命」の借用。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて「人間革命」という言葉は本来、東京大学南原繁氏によって唱えられたものなのですが、戸田城聖氏はこれを借用して用いることになります。
戸田城聖氏の巻頭言集には以下のように書かれています。



「かつて、東大の南原総長は、人間革命の必要を説いて、世人の注目をあびたのであったが、われわれも、また、人間革命の必要を痛感する。ただし、その内容と方法とにおいては、大いに異なっているのである。」
戸田城聖『巻頭言集』5ページ、創価学会昭和35年

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上記発言は昭和24年8月の大白蓮華のものですので、既に戸田城聖氏は南原繁氏が「人間革命」という語を主張したことを受けて「その内容と方法とで異なる」ものを同じ名称で提唱したことになります。

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このような用例は借用であり、当然ながらどのような内実を持つのかを考えなければ後世に伝えていくことができないでしょう。
その意味でも下記記事に書きましたが、池田大作氏の思想における「人間革命」もまた後世に忘れ去られていく、借用の用例でしかないのだと私は考えています。


「忘れ去られる池田思想」





四菩薩を伴った久遠実成如来の仏像造立。





いつもみなさん、ありがとうございます。




さて、先日、白蓮阿闍梨日興の文献である『原殿御返事』によれば、日興が師である日蓮の「出世の本懐」を「南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成如来の画像」と述べています。



日蓮出世の本懐は『南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成如来の画像』である。」



ではここの「画像」(えぞう)とは何でしょう。
つまり図のことであり、それは絵曼荼羅や仏像のことなのです。




日興の『原殿御返事』の概略を簡単に述べますと、以下のようになります。



「六老僧の日朗が日蓮滅後に一体仏の像を安置したのを見て、波木井実長(南部六郎実長)もまた釈迦仏を造立しようとした。日興はこれに対して、何の脇士も立てていない一体仏の仏像造立は単なる始成の仏に過ぎないので不可とした。将来、力のある諸子孫が出て上行等の四菩薩を伴った仏像の造立が叶う時が来るまでは、日蓮が文字に書いた曼荼羅を仏像の代わりに安置しても問題ない。」



ということです。
つまり日蓮曼荼羅安置は、日興にあっては将来四菩薩を伴った「画像」としての仏像を建立するまでの暫定的な措置であり、本来の日蓮の出世の本懐は「四菩薩を伴う久遠実成如来の仏像」だったと日興が考えていたことになります。




もういい加減、戒壇本尊が日蓮出世の本懐であるなどという馬鹿げた考えは捨てた方がよいと私は思います。
日蓮曼荼羅には法華経に説かれていない、不動や愛染も書かれ、また天照大神八幡大菩薩も勧請されています。そのような全てを包含した自身の理想を「画像」を文字で表したのであり、それは将来仏像として実現し、もって比叡山再興と祭政一致国家の樹立を願っていたのが日蓮の思想だと言うことです。










地区幹部不在の状況。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、地方の創価学会組織の現状の声をあちこちから聞くにつけ、その如実な衰退ぶりに驚くことが多いです。
何せ支部長が転居して不在になったり、全地区の地区女性部長が不在だったり、白ゆり長(ブロックの女性部長のこと)が不在や派遣だったりするというのですから、信じられません。
日蓮正宗はそもそも創価学会と母数が違いますから、比較的活動家減少の危機感は抱かれていないようですが、創価学会の切り崩ししか有効な布教方法を見出せない日蓮正宗もまた、活動家の減少に向き合わなければならなくなるでしょう。事実既に大石寺役員の高齢化は大変なものです。



ところで、現在「地区女性部長」と呼ばれている役職、私が子どもの頃は「地区担当員」略して「地区担さん」と呼ばれていました。
ちなみに現在の「白ゆり長」さんは、かつて「ブロック担当員」略して「ビー担さん」なんて呼ばれていたのです。



とりわけ「地区担さん」は、なにくれとなく私たちの家庭に気を遣ってくれる、仲の良い家族のような関係でした。夕飯を作ったら差し入れをしたり、困ったことがあったら相談し合ったり、座談会の後で皆で地区担さんの家でお菓子とお茶で長話をしたり……そんな関係でした。
つまり創価学会は、地方から都市部に出てきた多く身寄りのない世帯が互いに助け合うような、相互扶助組織としての役割を戦後果たしてきたのです。
もしかすると、戦後にそのような役割を果たし得たのは旧日本社会党日本共産党だったのかもしれません。ところが、その役割を果たしたのは皮肉にも創価学会という宗教法人だったのです。



そんな中で、私が子どもの頃から見てきた「地区担さん」は、子どもの視点からは「何でも相談できる人」「美味しいものをご馳走してくれる人」「いつも人のために動き回っている忙しい人」というイメージでした。



ところが、昨今、地区全てに「地区女性部長」を立てることができなかったり、「地区女性部長」が未活や非活になってしまったり、長らく不在になっている地方の惨状を見るにつけ、もはや創価学会の衰退は既定路線なのだと確信するようになりました。
組織に夢を見ることは早々とやめてしまった私ですが、青年部の地区リーダーや部長を立てられない以前に、地区女性部長がいないなどということは、かつての創価学会組織を知るものとしてはあり得ないことです。
それだけ地区幹部の負担が大きいことが知れ渡ってしまっているのであり、嫌気がさして非活になってしまったのでしょう。私もかつて当事者でしたから、気持ちがわかる気がします。



選挙でのF数の報告、布教数の報告、家庭訪問数の報告、座談会結集数の報告、新聞営業成績数の報告、党員への呼びかけ、未来部の連絡、各書籍の地区割り当て分の販売、民音チケットの購入……それをやりながら、地区女性部長は座談会企画や地区協議会の主催、地区部長との連携、地区部長会への参加、各種会合への参加をしなければいけません。選挙情勢が進んで来れば、各種公明党実績宣伝のパンフレット販売や期日前確約の報告、各選挙区と比例区のF数やZ数の報告も入ってくるでしょう。
目が回るような忙しさです。



組織の活動家さんで、もしもこのブログを読んでいる方、特に地区やブロックの女性部長さんがいらっしゃいましたら、本当に早めに組織から離脱してください!
もはや後継は立ちません。青年層がいないのは、地区の状況を知る「地区女性部長」ならよくおわかりのことでしょう。
昔、かつて「地区担さん」をしていた人たち……多くが今や圏区幹部をしていることかと思いますが、70歳超えの団塊の世代の方たちをもう一度地区やブロック幹部として呼び戻すくらいしか方法がなくなっています。
しかし彼女たちは、昔と違います。お身体もかつてのように動かないことも多いでしょう。それを使命感だけで受け入れて燃え尽き、非活になる方が続出しているのです。
どうか早めに離脱してほしいと思います。



なお日蓮正宗の信徒がそんな悩んだ創価学会員にハイエナのように近づいてきます。もはや日蓮正宗は、創価学会顕正会の切り崩しをメインにするしか有効な布教方法を見出せないでいます。彼らもいずれ高齢化の波にさらわれます。
どこかに正統の宗派があるという考えときっぱり決裂して、自身の足で生きることを選んでほしいと願っています。














同穴の貉。




いつもみなさん、ありがとうございます。



最近、おもしろかったことなんですが、



日蓮正宗法華講信徒さんで、創価学会批判をさんざんやっている方がたまたま私のブログを見つけ、「これはいい」とばかりにいろんな人に紹介したら……私のブログを読んで日蓮正宗大石寺の教義の嘘を知ってしまい……なんと逆に日蓮正宗から離檀・離宗してしまったという……ギャグみたいなお話がありました(笑)。


日蓮正宗法華講信徒の方は、私のブログをちゃんと読んでない方も多いようで、私はこのブログで大石寺の教義の偽善性も書かせて頂いております。
評価はよく読まれてから、判断された方がいいかもしれませんよ。老婆心ながらお伝えしておきます。
個人的には創価学会日蓮正宗顕正会も正信会も「大石寺系教団」として、単なる偽善ばかりの教団だと考え、批判させて頂いていますので、そのような原理主義的な教団の桎梏から一人でも多くの方が離れるのはとても大事なことだと思っています。



私のブログの読者には、確かに現役の法華講信徒さん、また創価学会信徒さんもいますが、ほとんどは教団の教義を冷ややかに見て非活退会や離宗を時期が来たら考えているような方ばかりです。
また日蓮正宗を既に抜け、日蓮宗日蓮本宗などに行かれた方も多くいらっしゃいます。




要するに、法華講信徒さんたちが、自分たち日蓮正宗の宗派の正統性を一般の方に訴える魅力に乏しく、結局創価学会顕正会のような同穴の狢を批判することで相対的に自教団の価値を認めるしか方法がなくなっている現状があるのです。日蓮正宗の教義はこのブログで多く批判しているように、後世の後付け教義ばかりでしかないんですね。
そんな人たちが創価学会を否定することでしか自分たちの正統性を語ることができないとすれば、目糞が鼻糞を笑うようなものでしかないということです。



















初座で鈴を打たない理由。





いつもみなさん、ありがとうございます。



ところで、みなさんは「五座三座の勤行」って覚えているでしょうか。
大石寺法華講信徒さんは今もやられている方がいると思いますが、創価学会の信徒さんの方は多くが忘れているでしょう。
法華経方便品十如是と寿量品を朝は5回、夕は3回やるのが「五座三座」の勤行でした。
朝は5回やるので、創価学会の超快速勤行でも25分くらいはかかったものです。



ところで、この朝の勤行の「初座」、ちょうど本尊から離れて東天に向きを変えて行う勤行ですが、鈴(「りん」、鐘のこと)を打たなかったことを覚えているでしょうか。
「初座」は鈴を打たずに勤行を行い、「二座」に入って本尊に正対して初めて「ゴゴンゴ〜ン」と鈴を鳴らしたものです。
ところで、みなさんは「初座」で「鈴を打たない」理由ってご存知ですか?



私はてっきり「初座」は、諸天供養で東向きになるため鈴に手が届かないから単純に鈴を打たないのだと思っていました。
実はこのことに関して大石寺9世日有が、述べている文献があります。
それは『日拾聞書』というもので、『日蓮正宗歴代法主全書』に収録されています。大石寺には31世日因の写本が現存しています。



「天ノ御経ノ時鐘ヲ不打事ハ垂迹垂迹ト沙汰シテ候ナリ、其ノ故ハ神代ノ時ハ本地トシテ仏ヲ垂迹ト沙汰シ、又仏出世シ玉ヒテヨリ以来ハ仏ハ本地、神ハ垂迹ニテ候也、今ハ天ナントヲハ垂迹垂迹ト沙汰申シ候、サテ鐘ヲ不打也。」
(日有『日拾聞書』日蓮正宗歴代法主全書1-406ページ)

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つまり諸天供養の初座の勤行は日有の言うところに従うなら、「鐘を打たないことは垂迹垂迹と沙汰すること」なのだそうです。かつての神代の昔は神が本地として仏を垂迹としたが、仏が世に出世して後は仏が本地であり、神が垂迹とする、だから神を垂迹とするが故に「鈴を打たない」のだそうです。



一点、疑問が湧くのですが、なぜこのことを大石寺宗門も創価学会も教えてこなかったのでしょう。
邪推やもしれませんが、これを敷衍すると神と仏が同じになってしまい、戸田城聖氏が小笠原慈聞氏を糾弾した「狸祭り事件」が自己矛盾になってしまうからなのかと思います。
またこれらを認めるなら、大石寺宗門がかつて神仏習合で富士山信仰と密接に繋がっていたことが信徒によくわかってしまうからだと思います。



「狸祭り事件」

創価学会青年部から小笠原慈聞氏への示威行為」

「神社建立・本尊奉納は大石寺本来の教義」



私が子どもの頃に唱えていた「初座」の御観念文は以下のようなものでした。


「生身妙覚自行の御利益・大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・大明星天王等惣じて法華守護の諸天善神・諸天昼夜常為法故而衛護之の御利益法味倍増の御為に」


ところが、かつて戸田城聖氏の時代に教えていた「初座」御観念文は少し違うのです。以下と読み比べてみてください。出典は戸田城聖日蓮正宗方便品寿量品精解』(精文館、昭和33年)です。


「生身妙覚自行の御利益・大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・大明星天王・天照大神・正八幡大菩薩惣じて法華守護の諸天善神・諸天昼夜常為法故而衛護之の御利益法味倍増の御為に」


昔の日蓮正宗「初座」の御観念文にはきちんと「天照大神」と「八幡大菩薩」が入っているのです。
つまりここからもわかるように、大石寺の本来の教義には、富士山信仰と一体になった神道の影響が色濃くあったのです。このことは神社への本尊奉納等の史実からも、また『本尊三度相伝』等の大石寺文書からも伺うことができます。
そのような神道の影響が大石寺の教義には存在していまして、大石寺9世日有は当時からそれを踏まえた上で「諸天への勤行では鐘を打たないことの意義」を「垂迹」として、ちゃんと述べていたということになります。