気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

失われた数珠相伝。






いつもみなさん、ありがとうございます。




さて数珠というと、創価学会員さんは大石寺を離れてから、後世の化儀故に別に何でもいいと思っているのではないでしょうか。
私個人的にも数珠なんて別に何でも自由で構わないとは思うのですが、大石寺というところでは、数珠にも一応「開眼」というものをやって、それから使うということになっているそうです。


まあ、実際に数珠自体に「開眼」なんてやっている現場なんて本当のところは見たこともないので知りませんが、少なくとも表向きには「開眼」された数珠を大石寺の信徒は使うということになっているかと思います。


ですから大石寺の教義からすれば「数珠なんて何でも良い」という訳ではないことになります。そうでないなら身延山日蓮宗創価学会等で販売している数珠を使ってもOKということになってしまいますよね。


で、数珠の形式については、以前ブログでも少し書いたことがあります。


「数珠のこと」


ところで、上のブログ記事で引用したところの、大石寺31世日因の『袈裟数珠の事』(富士宗学要集第1巻所収)では、この「数珠相伝」について書かれていまして、この中に少し気になる一節があります。
そのまま引用してみましょう。


「又当山念珠の御相伝三通之レ有り、目師御筆、道師御目録之レ有り、然る処に十八代日精上人御代之レを失ふと見へたり日舜上人精師在府の砌リ、仰セ越され候へば長持の中に之有るべき由仰セ越シ候へども之レ無しと見へたり、たとへ之レ有るも日典上人御代ニ大坊焼失の砌リ焼け失せたる者か、故に今御目録十七条のみ之レ有り御相伝悉皆失ふ故、日忍上人日俊上人已来数珠相伝に当山の相伝之レを失ふ故に要法寺日大上人叡山相伝之レ有り、喜ハシい哉、悲イ哉、大衆方正法を守ると云へども近代上人方は皆正法を失ひ天台真言の邪義に附する故に今日因之を改め近代上人方の附邪の法を疑ふのみ、一には日主上人の立行関東奥方に残り伝はる故、二には当山古老僧之レを伝ふる故、三には当山日目上人の相伝悉ク房州保田に有る故、四には要法寺二代日大叡山相伝当山に伝ふ、故に知ンぬ近代上人方、要法寺日大の邪伝に附するのみ。」
(日因『袈裟数珠の事』富士宗学要集1-377〜378ページ)



上の引用文を簡単に噛み砕くと以下のようになるかと思います。
大石寺には「数珠相伝」が過去伝わっていた筈なのですが、18世日精の代に失われたということです。19世日舜から伝わるところによれば相伝は「長持」の中に入っていたはずなのに確認したところ存在していなかったと言います。これは20世日典の代に大坊が火災にあい、焼失したのだそうです。その結果21世日忍、22世日俊の代以降、大石寺に伝わっていた筈の「数珠相伝」は失われてしまい、その結果、要法寺日大の叡山相伝が伝わる結果となってしまったとのこと。
注目されるべきは後段で日因が「当山日目上人の相伝悉ク房州保田に有る故」と書いているということです。


つまり大石寺に本来存在した筈の「数珠相伝」は18世日精の時代には既に大石寺では失われていたことになり、このことに関する日目の相伝は悉く保田の妙本寺に全て伝わっているということになります。


大石寺保田妙本寺とは一時、合同していた時期もありますが、その後、妙本寺は大石寺から離れて単一の寺となっています。
その合同していた時に保田に伝わっている日目由来の「数珠相伝」が仮に大石寺に伝わったとして、現在の大石寺はその保田の相伝を継承しているのか、それとも31世日因が遺した『袈裟数珠の事』由来の数珠相伝というものを用いているのか、それとも別のものがあるのか、その辺のきちんとした説明というものが大石寺側にないように私には思います。











天照大神は東条の郷に住まう。






いつもみなさん、ありがとうございます。



さて新年明けてから、いくつか神道日蓮の関係について書いていますが、これ、調べれば調べるほど、日蓮自身が天照大神八幡大菩薩を認めていることがわかります。


例えば日蓮の『新尼御前御返事』(身延曽存)を紹介してみましょう。


「而るを安房の国・東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし、其の故は天照太神・跡を垂れ給へり、昔は伊勢の国に跡を垂れさせ給いてこそありしかども、国王は八幡・加茂等を御帰依深くありて天照太神の御帰依浅かりしかば、太神・りおぼせし時・源右将軍と申せし人御起請文をもつて・あをか(会加)の小大夫に仰せつけて頂戴し・伊勢の外宮にしのび・をさめしかば太神の御心に叶はせ給いけるかの故に・日本を手に握る将軍となり給いぬ、此の人東条の郡を天照太神の御栖と定めさせ給う、されば此の太神は伊勢の国にはをはしまさず安房の国東条の郡にすませ給うか、例えば八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども、中比は山城の国・男山に移り給い、今は相州・鎌倉・鶴が岡に栖み給うこれも・かくのごとし。」
(『新尼御前御返事』創価学会版御書全集、906ページ)


簡単に通解を載せてみましょう。


安房国・東条の郷は地図の上では辺境の国でありながら、実は日本国の中心とも言うべき場所である。なぜなら天照太神がお住まいになっている場所だからである。天照太神は昔、伊勢の国にお住まいになられていたのだが、国王が八幡や加茂の神ばかりを尊崇していて、天照太神への帰依の心が浅かった故に、太神は怒りを覚えておられた。その時、源右大将頼朝という人が御起請文を書き、会加の小大夫に命じて天照太神を奉戴し、伊勢の外宮に安置なされ、太神の御心に叶ったが故に、彼は日本を掌握する将軍となったのである。その頼朝が、安房国東条の郡を天照太神の御栖と定められたのである。したがって、この太神は今は伊勢の国には住まわれておらず、東条の郷に住まわれている筈である。例えば八幡大菩薩は、昔は筑前太宰府に住まわれていたが、中頃に山城の国・男山に移られて、今は相模の国、鎌倉の鶴が岡に住まわれている。天照太神もまた同様なのである。」


日蓮源頼朝が平家を破って将軍になった一つの勝因として、東条の御厨を天照太神に寄進したことを挙げていまして、それが神の御意に叶ったと考えていました。
例えば日蓮の御書で『法門申さるべき様の事』(『法門可被申様之事』真蹟:中山法華経寺蔵)をあげてみましょう。


「例せば国民たりし清盛入道・王法をかたぶけたてまつり結句は山王・大仏殿をやきはらいしかば天照大神・正八幡・山王等よりき(与力)せさせ給いて・源の頼義が末の頼朝に仰せ下して平家をほろぼされて国土安穏なりき」
(『法門申さるべき様の事』(法門可被申様之事、同1272ページ)


東条の御厨は源頼朝が寄進したものであり、日蓮はここから東条の郷に天照大神が住んでいると認識し、その正統意識を持っていたと言うことができるかと思います。


つまり大石寺が神社参拝を禁じるようになったのは、本来、日蓮由来の教義なのではなく、日興門弟たちに見られる偏った日蓮解釈によるところが大きいように私には感じられます。









御本尊の手。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、『清澄寺大衆中』(真蹟:身延曽存)という御書には本尊に関して不思議な一文が存在します。そのまま引用してみます。


日蓮敵をなして領家のかたうどとなり清澄・二間の二箇の寺・東条が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじやうの起請をかいて日蓮が御本尊の手にゆいつけていのりて一年がうちに両寺は東条が手をはなれ候いしなり」
(『清澄寺大衆中』創価学会版御書全集、894ページ)


日蓮が起請文の紙を「御本尊の手に結いつけて祈った」と書いているのですが、「御本尊の手」とは何でしょう?
そもそも曼荼羅本尊に手など生えてはいません(笑)。
これは例えば『神国王御書』(真蹟:京都妙顕寺蔵)の次の文を読むと、疑問が氷解すると思います。


「其の外小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし」
(『神国王御書』同1525ページ)


つまり日蓮にあっては、草庵に安置していた釈迦仏の像がそのまま「本尊」だったわけで、上述の「本尊の手に結いつけて」というのは、紙を釈迦仏像の手に結びつけて祈っていたということになります。


以前、多くの方からご指摘を頂いたことですが、日蓮曼荼羅で表した本尊は、仏像とで表現したことと同じ内容を表現していて、だからこそ三位日順が『本門心底抄』で「仏像を安置することは本尊の図の如し」と述べているのかと思います。








三時弘経次第における国家観。







いつもみなさん、ありがとうございます。



さて先日から多くの方とお会いしてご教示を受けたところでは、大石寺の本来の教義に神道の影響が色濃いことがだんだんわかってきました。


さてそう考えると、実は氷解する謎がありまして、日興の『三時弘経次第』にある以下の一節です。


天照大神勅曰    葦原千五百秋之瑞穂之国。是吾子孫可王之地也。宜爾就而治焉。行矣。寶祚之隆当與天壌無窮。」
(日興『三時弘経次第』日蓮正宗歴代法主全書1-43ページ)


ここで日興によって書かれている「葦原千五百秋之瑞穂之国」とは『日本書紀』における「瑞穂の国」のことで、日本国の美称です。
つまりここで日興は『日本書紀』由来の葦原中国平定を史実として採用し、それを日本国の正史として捉えていることになります。


さてそう考えると、『三時弘経次第』における本門寺の垂迹神が「天照大神」「八幡大菩薩」であると説かれていることがよくわかる気がします。以前のブログで日蓮正宗歴代法主全書の当該ページの画像を載せましたので見て頂ければと思います。


「富士山・本門寺の久成釈迦仏」


とすれば、日興が日蓮から引き継いだ思想の一つに明らかに神道があり、それらの日本神話を日興は日蓮からの教えとして引き継いで展開し、それらが富士門流の教義として残ったということになるかと思います。そうなると元々の五座の勤行の初座の御観念文には天照大神、正八幡大菩薩が含まれていた理由もわかりますし、御本尊の表面に法華経の会座には登場しない筈の天照大神八幡大菩薩が常に曼荼羅の表面に書かれていることの理由もわかる気がします。


つまり元々の大石寺の教義には神道の影響が存在し、それは『本尊三度相伝』等で大石寺には教義として伝えられていた筈なのですが、それが昭和以降、神本仏迹説を唱えた小笠原慈聞氏が創価学会の狸祭り事件で吊るし上げられたように、徐々に創価学会によって侵食を受け、本来の教義が失われてきたというのが大石寺の歴史なのだろうと思います。大石寺の旧檀家さん、伝統講さんたちの持っている信仰観と、創価退会組によって多くが占められる新参講さんたちとの教義理解の齟齬は実はその辺に端を発していると言えそうです。







大石寺と神道のこと。

 

 
 
 
 
あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いします。
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて先日の懇親会で、犀角独歩さん、大木道惠さんに教わったことはあまりに多く、全てがここに書けないでいますが、少しずつ整理しながら書いていきたいと思います。
 
 
私は現在の大石寺の教義の多くが、昭和以降の創価学会から逆に影響を受けて変容してきたと考えています。
例えば本来「謗法厳誡」や「謗法払い」ということを主張したのは創価学会であったはずです。またそもそも大石寺には元来登山会という習慣はなく、戸田城聖の時代に本山のためにと始まったものです。
 
 
「登山会のこと」
 
「順逆ともに来たれ」
 
 
上記の「順逆ともに来たれ」で、私は大石寺の教義が他山や創価学会からの逆輸入によるものが多く、その中で自山のアイデンティティを形成してきたと述べ、本来の大石寺の独自性というものがなかったように臆断しています。
 
 
大木道惠氏に今回質問したことは、「では本来大石寺に存在していたはずの独自性とは一体何だったのか」という点です。
回答は明確でした。
 
 
「それは神道です」
 
 
一瞬、絶句してしまいました。
 
 
自身の中で未消化ですが、大木道惠さんら参加者の方から教わったことを箇条書き風に書いてみたいと思います。
 
 
1、日蓮の中に神道へのエレメントが存在しているが、それを端的に示しているのは『不動愛染感見記』の中の「金烏と玉兎」である。金烏は神武天皇を導いた3本足の八咫烏のことであり、太陽の化身である。
 
 
2、したがって『本尊三度相伝』に示されるような神本仏迹説は、本来大石寺に存在していた教義であり、その意味では神本仏迹説を唱えた小笠原慈聞の説は本来の純粋な大石寺教義であったということが言える。
 
 
3、大石寺に本来「分身散影」という教義があるが、これは神道に通ずる教義であり、具体的には三種の神器の教義と通ずる。例えば八咫鏡御神体伊勢神宮に存在し、その形代(レプリカ)が皇居に存在する。これらの教義は本来神道のものだった。
 
 
まだ私は上記の発言について、未消化の部分もあり、まだ全てを理解したとは言えません。
しかしながら、例えば北山本門寺には「法華垂迹天照大神宮」が存在し、また大石寺にもまた古来「天王堂」「垂迹堂」が実在したこと、そして『本尊三度相伝』が長く大石寺相伝として伝えられてきたことを考えれば、大石寺アイデンティティ神道があったことは否定し得ない気がします。
 
 
「法華垂迹天照大神宮のこと」
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

身延沢の墓所。





いつもみなさん、ありがとうございます。







かつて私はブログで日蓮墓所大石寺にはなかったことを取り上げました。


大石寺墓所は存在しなかった」

「日興は身延から何も持ち出していない」


大石寺の『日興跡條條事』では「大石寺者云御堂云墓所日目管領之加修理致勤行可待広宣流布也」(日蓮正宗歴代法主全書1-96)と書かれていますが、身延沢に日蓮自身の墓があり、日興自身がそれを持ち出していないのは明らかなので史実と噛み合いません。


今回紹介したいのは『波木井殿御報』です。この中で日蓮が自身の墓について述べています。


「何処にて死に候とも、墓をば身延沢にせさせ候べく候」
(『波木井殿御報』昭和新修、2000ページ、創価学会版御書は1376ページ)


日蓮自身が墓を身延沢にしてほしいと述べています。



また興門流の文書である『五人所破抄』には次のような記述があります。


「抑身延一沢の余流未だ法水の清濁を分たず強いて御廟の参否を論ぜば汝等将に砕身の舎利を信ぜんとす何ぞ法華の持者と号せんや」
(『五人所破抄』創価学会版御書、1615ページ)


ここには「砕身の舎利」と書かれていまして、身延沢に日蓮の遺骨があったことはここからも疑い得ないと思います。
師の教えに厳格であった日興が、日蓮の遺言で身延沢に墓を建ててほしいと書かれていながら、その墓を暴いてまで富士に遺骨を持っていくことが可能性として考えられるでしょうか。私は有り得ないと思います。








選挙の勝利至上主義の淵源。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて創価学会は2019年に参議院議員選挙を控えていることもあって、政治学習会で『立正安国論』をあげて、公明党支援を推し進める活動をすでにこの時期から展開しています。


そもそも宗教活動の中に政党支援が含まれるのか、外から見れば一種奇異な印象を抱くのですが、その原点はどこにあるのかと言えば、真っ先に私が思いつくのは池田大作氏の『立正安国論講義』の中の次の言葉です。


「真に民衆が幸福生活を営んでいける理想社会を実現するためには、正法を広宣流布する以外にない。しかして正法を広宣流布するには、国家諫暁して謗法を禁じさせねばならない。そのためには、公場において対決し、仏法の正邪を明らかにする必要がある。古来、仏法の流布は常に国主の前における公場対決によって行なわれた。
これは、君主制なるがゆえに、必然的にとられた方法であって、主権在民の現代における公場対決とは、選挙にほかならない。すなわち、いかなる宗教をもった人が民衆を幸福にし、社会を繁栄させる力があるか、いかなる宗教をもった人が名聞名利の徒であり、私利私欲に明け暮れて政治を堕落させ、社会を不幸と混乱におとしいれているかを国民大衆の判定に待つのである。
日蓮大聖人の仏法を受持し、王仏冥合の理念を掲げた、わが同志が勝利を収めることは、民衆がこの仏法の正しさを認めたことの証左にほかならない。王仏冥合達成まで、すなわち、全民衆が偏見を脱して正法の正しさを認めるまで、われわれは選挙を公場対決の場として、勝利につぐ勝利をもって前進していこうではないか。
それによって、正法は宣揚され、かつ、正法賛嘆の功徳が国中に溢れて、民衆の幸福が増進されるのである。ゆえに、われらの戦いは創価学会公明党の利益のためでもなければ日蓮正宗のためでもない。況んや候補者のためでは断じてない。ひとえに、民衆の幸福と理想社会の実現のためであることを、強く訴えるものである。」
池田大作立正安国論講義』1135〜1136ページ、創価学会、昭和41年)


つまり立正安国論における公場対決の現代的な解釈こそがまさに選挙であり、創価学会の教義の正しさを認めさせることこそ、まさに選挙の結果であると考えていたということです。
このトーンが変化するのは昭和45年の言論出版妨害事件の総括の頃です。
昭和45年5月3日、東京・両国の日大講堂で行われた第33回創価学会総会で、池田大作会長(当時)は大要次のように発言しています。


創価学会公明党の支持母体としていく。当然、学会員の政党支持は、従来通り自由であり、学会として、政党支持について会員の自由意思に干渉するものではない。ただし、政治次元のことで学会をカク乱し信仰を濁らせるような動きに対しては、除名などのきびしい措置をとるのもやむをえない。」
朝日新聞、昭和45年5月4日付)


つまり言論出版妨害事件を受けて、創価学会及び池田大作会長は、信徒の政党支持の自由を明確にし、会員の自由意思に干渉するものではないとしました。
しかしながら、現在、創価学会の内部において行われている選挙の姿勢というものは、所詮「創価学会を世間に認めさせるもの」であり、その勝利至上主義の淵源は、池田氏のこの『立正安国論講義』にあると言わざるを得ないと思います。


実際、創価学会組織内部に蔓延する「勝利至上主義」は根深いものがあり、これが完全に払拭されない限り、真に言論出版妨害事件の総括になったとは言い難いでしょう。