いつもみなさん、ありがとうございます。
さて先日、都内某所で大木道惠さんとお会いして、たくさーんおしゃべりしてきました。
大木道惠さんのブログ
ブログを少し読めばわかるように、博識で丹念に文献を読まれている方なのですが、会ってみると実に気さくで謙虚な方。話も面白くてあっという間に何時間も夢中になって話してしまいました! ありがとうございました! とても楽しかったです!
さまざまな話をしたのですが、ここではあえて「金烏と玉兎」というテーマに絞って書いてみたいと思います。
「梵字『バン』について」
ところが、大木道惠さんの指摘は非常に鋭いものでした。確かに大木さんご自身も「なぜバン字なのか」ということに関してはわからないことを率直に認めておりました。
しかしその後の発言が非常に示唆的でした。
「『不動愛染感見記』から考えるに、例えば『金烏と玉兎』のことを考えてみなければいけない。そうでなければ『不動愛染感見記』の真意はわからないでしょう。」
というものでした。
私は『不動愛染感見記』(真蹟:保田妙本寺)の存在は知っていましたし、何が書かれているかも存じ上げておりましたが、そこに描かれた挿絵のことなどさして注目などしていませんでしたし、そこに描かれている2種類の生き物のことなど、なおのこと全く関心など持っておりませんでした。
冒頭の2枚の画像を見てほしいのですが、最初の画像は「愛染明王」を描いたものであり、愛染が太陽の化身であることを表現しており、そこには「金烏」(きんう)と呼ばれ三本足を持つとされる「八咫烏」(やたがらす)が描かれているんですね。
同時に「不動明王」に描かれているのは月の絵であり、月に住んでいるとされる「玉兎」(ぎよくと)と呼ばれるウサギが描かれています。
「玉兎」は「金烏」と対の概念とされるものであり、月を示しています。
つまり日蓮が不動と愛染で表したものは、例えば「金烏と玉兎」に見られるような日月の化身など多義的な要素を孕んでおり、それらのヒントが示されている『不動愛染感見記』の絵を考察しないことは、曼荼羅の義を考察するに関しては画竜点睛を欠くことになるというご指摘だったんですね。
このご指摘には思わず唸ってしまいました。
確かに本来曼荼羅というものは絵によって表されるものであり、それらの絵がきちんと遺されていることもきちんと考察しなければ、それは曼荼羅の義を一面的に見ることに確かに繋がるでしょう。なお大木さんはこの絵そのものも日蓮自身の筆によるものと考えておられました。