いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私はこのブログで日蓮の遺文について、後世の偽作の可能性が高いものを取り上げ、その根拠を示しています。それらは例えば『御義口伝』『生死一大事血脈抄』『船守弥三郎許御書』『阿仏坊御書』『諸法実相抄』『日女御前御返事』『三大秘法抄』等、多岐に渡ります。
ではなぜ偽書であることを明確にしなければならないのでしょう。
例えば『身延山御書』という遺文があります。この御書は大変に美しい文章として知られるものですが、身延山を神聖視し、身延への参拝を推奨するような文が見られます。確かに日蓮が晩年に隠棲したのは身延山なのですが、『身延山御書』にあるように特定の身延山という山を特別扱いして神聖視するのが日蓮の本意とは考えにくいでしょう。それならば身延山を中心とする日蓮門流の誰かがこれを偽作したとするのが自然ではないでしょうか。
例えば中古天台に見られるような凡夫即仏、無作三身、自受用身等の語が見られる遺文も、日蓮の著作とは言えない筈です。そもそも日蓮は『四信五品抄』(真蹟中山現存、日興写本現存)で「恐らくは中古の天台宗の慈覚・智証の両大師も天台・伝教の善知識に違背して心・無畏・不空等の悪友に遷れり」(創価学会旧版御書全集339〜340ページ)と述べています。
円仁、円珍らが確立させた中古天台の概念は日蓮自身により批判されています。そして「無作三身」や「血脈」「自受用身」等の語は日蓮真蹟には全く存在しません。それらの遺文は中古天台から換骨奪胎し、新たな教義を画策した後世の門徒らによって偽作された可能性が高いのです。しかし日蓮が書いていないものをいくら学んでも、日蓮を学んだことにならないはずです。
こういう話をすると、創価学会や日蓮正宗の信徒さんは、今まで信じてきたものが否定されてしまうことを恐れ、頭ごなしに否定することしかできなくなってしまいます。多くは論理的な話し合いにならないし、認めることもできないのです。そのような先入観の強さこそ、彼らが「カルト的」と批判される原因なのだということを自覚されるべきではないかと私は思います。