気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日蓮が書いていないものを学んでも、日蓮を学んだことにならない。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて私はこのブログで日蓮の遺文について、後世の偽作の可能性が高いものを取り上げ、その根拠を示しています。それらは例えば『御義口伝』『生死一大事血脈抄』『船守弥三郎許御書』『阿仏坊御書』『諸法実相抄』『日女御前御返事』『三大秘法抄』等、多岐に渡ります。
 
ではなぜ偽書であることを明確にしなければならないのでしょう。
これは日蓮門流が日蓮死後に分裂、発展していく史的過程の中で明らかに自門流の正統性を主張するために門流間で遺文の略奪、また偽書の作成が行われたことが諸史料から確認できるからです。
 
例えば『身延山御書』という遺文があります。この御書は大変に美しい文章として知られるものですが、身延山を神聖視し、身延への参拝を推奨するような文が見られます。確かに日蓮が晩年に隠棲したのは身延山なのですが、『身延山御書』にあるように特定の身延山という山を特別扱いして神聖視するのが日蓮の本意とは考えにくいでしょう。それならば身延山を中心とする日蓮門流の誰かがこれを偽作したとするのが自然ではないでしょうか。
 
 
例えば中古天台に見られるような凡夫即仏、無作三身、自受用身等の語が見られる遺文も、日蓮の著作とは言えない筈です。そもそも日蓮は『四信五品抄』(真蹟中山現存、日興写本現存)で「恐らくは中古の天台宗の慈覚・智証の両大師も天台・伝教の善知識に違背して心・無畏・不空等の悪友に遷れり」(創価学会旧版御書全集339〜340ページ)と述べています。
円仁、円珍らが確立させた中古天台の概念は日蓮自身により批判されています。そして「無作三身」や「血脈」「自受用身」等の語は日蓮真蹟には全く存在しません。それらの遺文は中古天台から換骨奪胎し、新たな教義を画策した後世の門徒らによって偽作された可能性が高いのです。しかし日蓮が書いていないものをいくら学んでも、日蓮を学んだことにならないはずです。
日蓮『諫暁八幡抄』(真蹟大石寺現存、異本真蹟は身延曽存)でも「円仁慈覚大師は名は伝教大師の御弟子なれども心は弘法の弟子」(同580ページ)と述べ、明確に中古天台の円仁らを批判しているのです。
 
 
台密は円仁・円珍らによって完成された」https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2023/09/11/000000
 
要は自分たちの開祖が誰なのか、誰の教えを学ぶのか、それは日蓮なのか、日蓮から派生した後世の創作教義なのか、誰が中心なのかということです。
日蓮を宗祖とするなら、純粋に日蓮の著作を学び、後世の解釈や偽作遺文を排除して自門流の教義を確定しなければならないでしょう。
 
 
こういう話をすると、創価学会日蓮正宗の信徒さんは、今まで信じてきたものが否定されてしまうことを恐れ、頭ごなしに否定することしかできなくなってしまいます。多くは論理的な話し合いにならないし、認めることもできないのです。そのような先入観の強さこそ、彼らが「カルト的」と批判される原因なのだということを自覚されるべきではないかと私は思います。