いつもみなさん、ありがとうございます。
今回は浅井円道氏の『「無作三身」考』(『印度学仏教学研究』第18巻1号所収、1969年)から、中古天台の教義の成立について考えてみたいと思います。
まず日蓮本人の立場ですが、日蓮は『四信五品抄』(真蹟は中山現存、日興写本現存)で「中古の天台宗」の「慈覚・智証の両大師」が智顗や最澄の系譜から違背したことを指摘しています。以下の画像は創価学会旧版御書全集から『四信五品抄』の該当箇所の引用で、339〜340ページになります。
さて浅井円道氏の先述の論文から少し引用してみましょう。
「その法門的価値は、法華経を本迹二門に分ければ、迹門の観心を「一心三観」で口伝するに対して、本門の観心を「無作三身」の名の許に伝授しようとする試みであって、中古天台口伝法門中最も大切な研究題目であると言えよう。
その意味は「無作」に観点を据えれば、十界の依正つまり凡夫も草木国土もその当位を改めず、そのままが無作本有の覚体であると観念する思想であり、また最澄の「無作三身は覚前の実仏」であると観ずる思想であるから、これは理本覚思想を支える大黒柱の一つである。
然しこの無作三身という術語はシナ天台の初祖のものにも六祖のものにも見当らない。文句寿量品釈などを披くと、修得三身に対する「性得三身」、或は「本地三仏」「実教三身」等とは言うが、無作三身とは呼んでいないから、最澄が守護章で始めて使用した名目であると考えられる。従ってこれはシナ天台に対する日本天台の特色を示す法門であると言うことが出来る。しかし最澄のいう「無作三身」は中古天台のいわゆる無作三身観とは似ても似つかぬ意味内容であり、また上古の日本天台では全く無作三身の名目を採用していない。従ってその成立は、円仁・円珍・安然等によって錬磨された密教的仏陀観と、本覚的凡夫論とを、良源以後に勢力を挽回した法華教学に接収するに際して、法華教学者がこれに「無作三身」なる名目を与えたとき、いわゆる無作三身観が成立したのではないかと推定する。」
(前掲書103ページ)
ここからもわかる通り、無作三身の教義内容は中国天台宗の智顗や湛然には見られず、最澄の『守護国界章』における「無作三身」の用例に具体的な内実を円仁や円珍、安然以降によって付与され、後世に成立した教説ということになります。
そもそも「無作三身」の初出は最澄の『守護国界章』ですが、同抄は法相宗の徳一との論争の書です(ちなみに最澄の著作はその多くが法相宗・徳一との論争のために書かれています)。法相宗の徳一は法華経における天台教学の無差別常住義を批判するのですが、それに最澄が答える形で提示した概念が「無作三身」です。ここでは真如随縁の真如観と倶体倶用の仏陀論の観点から天台宗を弁護する意味で使われているだけで、「凡夫が実仏であるか否か」という観点で「無作三身」は使われていないのです。
それこそが実は円仁・円珍で、日本天台宗に最澄の命を受けて真言を学んだのはこの円仁と円珍の二人でした。浅井円道氏の言葉を借りれば「円仁が最澄の天台思想・華厳思想によって金剛頂経の金剛界曼荼羅海会の教理を解釈し、金剛界曼荼羅によって法界縁起の世界観を画いてみせたに対して、円珍は逆に金胎不二の曼荼羅思想によって法華経を潤色し、曼荼羅思想を法華経に注入し、『上ハ如来ヨリ下は蠢動マデ是ノ如キ二種体(金胎不二の法華曼荼羅)を俱ス』と説いたところに、法華経の領分である無作三身観の成立に貢献するところが大であったといえよう。」(同106ページ)とあり、中古天台以降における「無作三身」の内実を決定したのはまさに円仁と円珍の教説以降であったことになります。
ところが不思議なことに円仁や円珍には「無作三身」の用例が存在しません。確かに円仁と円珍の教説により「凡夫即仏」説とされるような無作三身観が成立したことは間違いなく、事実、円仁の『三身義私記』や円珍の『法華論記』の『三種仏菩提釈』や『涅槃無上釈』では最澄が説かなかった報仏智常論が説かれます。しかしながら円仁や円珍は師匠の最澄の教えを「凡夫即仏論」に展開したと言えるのですが、師の「無作三身」は使っていないのです。
上述の点から推察される点が浅井円道氏の論文には書かれていますが、以下は私なりにわかりやすく書いた結論です。
1、日蓮は『四信五品抄』からもわかる通り「中古天台」としての円仁と円珍を否定している。また日蓮の真蹟には「無作三身」の用例が存在しない。したがって中古天台の「凡夫即仏」説としての「無作三身」は日蓮の教説ではない。
2、「無作三身」の初出は最澄の『守護国界章』だが、同抄は法相宗の徳一との論争中で書かれ、天台宗における仏陀観を擁護する観点から質問に答える形で「無作三身」が示されている。したがって最澄の「無作三身」には「凡夫即仏」の概念は存在しない。
4、したがって日本の歴史において「無作三身」が「凡夫即仏」の意味で用いられるようになるのは日蓮死後のことであり、室町時代以降、中古天台教学が再評価されるに至って最澄の用例を円仁や円珍、安然以降の教説から解釈するようになったのではないか。またこの室町時代以降「無作三身=凡夫即仏」と解釈される偽書や真偽未決書が真蹟不存・録外以降に多く見られることからもそれは推察できる。
以上のような推論が成り立つかと思います。