いつもみなさん、ありがとうございます。
いろんな方からたくさんの好評価、応援のメッセージ等、頂いていまして感謝しかありません。
ただごく一部ですが、私のブログに対して執拗に怨嫉し、激しい憎悪や敵意をむき出しにして、誹謗中傷行為を繰り返す人たちも少なくありません。
個人的にはなぜこんな個人のブログの更新を気にして、嫌がらせ行為を繰り返すのか、理解ができません。
そもそもそんな誹謗中傷行為や迷惑行為をすればするほど、創価学会や日蓮正宗と言った教団の信者がたかだか個人に過ぎない私のブログの内容に信仰の動揺を来たし、そのことに対してお門違いの憎悪を持っている彼らの姿勢が露呈してしまうだけですよね。
巨大な宗教法人が個人に過ぎない私のブログ記事に信仰の動揺を来しているなら、教団の教学の脆弱さがわかってしまうだけなのですが。
ちなみに私には日蓮正宗という宗派は別に必要ありません。
彼らの言う「どんな祈りも叶う信仰」は私は必要ありません。
祈りを叶えるための信仰など、そんなものは釈迦の初期仏典からの本来の教えではあり得ません。
私は「成仏する」気はありません。
成仏などしなくて結構です。
私は人間各人に「仏性」が存在して、それを開眼して仏性を示すことが、人生の目的とは全く思えません。
そもそも仏性などと言う概念を改めて持ち出さずとも、人間の尊厳はどんな宗教でも述べていることなのではありませんか。
私には成仏など必要ありません。
成仏という概念がなぜ必要なのかも全くわかりません。
楠木で作られた大きな板本尊を日蓮造立と偽って、客寄せパンダのように「ご利益」とか「功徳」とか「正しい信心」とか言う宗派ほど信頼できないものはありません。
そもそもこちらの記事にも書いたように、戒壇本尊が後世の偽作とされる理由は枚挙に暇がありません。
「戒壇本尊が偽物である理由を列挙してみる」
しかも日蓮正宗の信者さんはこれらの質問に何一つ答えることができません。
彼らはかつての創価学会と同じで、やたらに功徳とか正統性ばかりを口にします。
私は別に功徳も要らないし、正統性なんてどうでもよいし、別に成仏しなくてもいいんですけど?
大切なことは真摯に学び、迷妄を払って、まやかしの信仰から抜け出すことです。
そう言った迷妄から抜け出して、真に自身の信仰を取り戻すには、かつての信仰の先入観を検証して洗い出すしかないのだと私は考えています。
私はそれをこのブログでやってみました。その結果、私は自由な思考と自由な精神性を手に入れることができました。
思考を縛り付け、自身を盲目にする最大のものこそ、実は無知なのだと考えています。
信仰とは教団の提示する正統性や本尊を頭から信じることではありません。それなら単なるドグマでしかありません。
どうか、このブログがカルト的な思考法に染まった人たちの思考を解きほぐし、真に一人の人間として生きていく一助になることを願うばかりです。