気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

人間的な繋がりを失いかけている組織。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、創価学会は今もまだ布教活動を続けているのかと思います。
創価学会に勧誘されて、晴れて会館等で御本尊授与を受けた方の多くから、最近よく聞く不満は「結局入ったら入ったで、選挙か会合でしか電話してこない」というものです。
実はそれ、私が青年部の頃から(というか最も前からかもしれませんが)ずっと言われていることのように思います。



私が男子部の部長の頃、本部長は派遣で3人目の派遣で来ました。とは言えヤング男子部時代に他の本部でよく知っていたので「本部長」「部長」という肩書きは吹っ飛ばして、くだらない冗談なんかを言ってよく遊びに行ったものです。



青年部幹部会の結集の戦いの後、部のメンバーと皆で食事に行く約束をしました。
入場券の確認や四者への報告と確認、最終的な参加人数の確定、報告の後、翌日の夜は皆でご飯食べて話そうと思っていました。部員さんからも「あれっすよね! 明日19:00からですよね?」「そうそう!遅れそうなら連絡して!」そんな声を掛け合いました。



疲れて家に帰ろうかなと言う時に、本部長から集合の連絡がありました。行ってみると急遽明日男子部幹部の大きな会合が入るとのこと。
私は部のメンバーと皆で食事に行く約束をしていました。すでに前もってそのことを本部長に連絡もしていました。彼は察して「ああ、そうだよね、わかった。こっちからさ、指導したということにしておくからさ、部で楽しくやんなよ」そういう柔軟な発想ができる本部長でした。
ありがたかったです。正直そこでケンカになっても私は会合など振り切って部のメンバーと遊びにいくつもりでした。
結局、皆でワイワイと翌日は打ち上げをして遊んで暮らしました。今振り返ってもよい思い出です。




その本部長は、私の母をとても尊敬していました。
母と私と、その本部長さんに共通していた感覚というのは、「創価学会の知り合い、繋がり、会合における関係だけでは本当の味方は得られないのだ」ということでした。
だからこそ、会合に誘う以上に、友人たちと友人として遊ぶ必要があると思っていました。
友人というのは、一緒に遊ぶものなのではないんですかね。
だから私たちは、皆で映画も見に行ったし、ソフトボール大会もやったし、ファミレスでワイワイと食事会もしました。母など会合と関係なく、春になれば勝手にみんな連れて花見に行くし、野球観戦にも行くし、ラケット持ってテニスやりに行ったものです。先日、私が家のアルバム写真を整理していたら、生前の母が花見でバカ騒ぎしている写真が出てきて、家で一人で失笑してしまいました。



そういう風に遊んでいる人間ほど、人生は輝いて見えるものです。
私たちはどこかの宗教法人の会合のために生きているわけではないですし、自分らしく楽しく生きているからこそ、誘うきっかけができるものなんじゃないかなぁと言うことです。
「今日、お好み焼きパーティーやるから来ない?」とか「みんなでBBQやるからおいでよ」とか言われたら、やっぱり嬉しいんじゃないかなぁと思うんです。
逆に連絡が入ると決まって「選挙の報告があって」とか「座談会の連絡で」とか、そんな事務的なことばかりだったら、「なんでこの人は私のことを入会させたんだろう? 私は友人ではなかったのか?」と疑惑を抱くことでしょう。



とある他本部の男子部の幹部(彼とも仲良しでした)は、家に行きたいと連絡が入り、「御書を教わりたい」と私に質問してきたものです。
当時、広宣部だったため、男子部の一部幹部には「御書を教わるならこの人だ」という風に思われていたみたいです。
そんな教えられるような人間でもないのですが、まずは何の御抄を読みたいのかと確認し、その意図を聞いて、内容を伝える。その後は質問会でした。彼はちゃんと教義的な疑念に答えてくれる私の存在がありがたかったのかもしれませんね。
今、彼は公明党の地方議員をやっています。
もう何年も連絡はとっていません。



人間性の自然な発露から、友情は自然に生まれるものだと思います。
会合連絡やら選挙報告やら不自然なシステムで関係を構築しようとすると、人間性が見失われます。
この人は焼肉が好きだとか、忙しいので家で飲むのが好きだとか、バイクが趣味だとか、PCで作曲をするミュージシャンだとか、そう言った情報が行間に詰まって溢れていて、初めて真の「統監」なんじゃないかなと思うんですね。