いつもみなさん、ありがとうございます。
さて戦後の創価学会について、団体社会に移行する日本社会にあって、都市部への人の流入に伴い、共同体意識を喪失していた人たちが、自分たちで作り上げた互助組織、セーフティーネットのような役割を担っていたのだと私は考えています。
「存在意義の終焉」
「歴史的に必要のなくなった組織」
「団地社会における創価学会の役割」
そんな苦労してきた創価学会員さんは多くが魅力的でした。なにくれとなく気を使ってくれたり、食事をご馳走になったり、お互いに助け合う心がありました。
私も貧しい幼少時代があり、唱題をしていると地域の地区担当員(当時は「地区担」さんと呼んでいました。今の地区女性部長ですね)が涙を流しながら家庭訪問をし、温かい料理を差し入れてくれたり、たくさん頂き物を貰ったりしてきました。
貧しい生活をしてきたからこそ、幹部たちも貧困の辛さを知っている、だからこそ放っておけなかった。そういう仲間意識が少なくとも当時の創価学会の地区組織にはあったのです。「それが創価の欺瞞だ」とか「それこそ創価の詐欺的手法だ」等と批判することもできると思いますが、私は少なくとも貧しい幼少時に創価学会とは貧しい人たちを助けるものだと思って育ちました。
会合の中に創価学会の真実があるとは全く思いませんでした。
私と私の母が感じてきた創価学会の真実とは、会合を離れた後に残る人と人との助け合い、互助組織としての側面にあったのです。
もしかすると私たちがかつて経験した貧困とか病気とか社会的孤立といった苦労を、彼らは実感として理解されないのかもしれません。
かつての地域組織の支部長さんや大B長さんは、苦労人が多かったです。
今、そういう人はほとんどいなくなりました。
かつては貧しい人たちを結びつける互助組織、地域の共同体だったものが、歴史的に変貌して用済みになってしまったのでしょう。
自分たちの苦労を何も知らない人たちに、わざわざ人は自分の悩みを吐露したりなどしないものです。
日蓮正宗の一部の信徒の方々は、それは「創価学会が功徳をなくしたからだ」と言うようなことを主張してきます。ただ大石寺信徒さんには申し訳ないのですが、現在の法華講のような組織が現代において必要であるとは個人的に全く思えません。歴史的な役割を終えていずれ減衰していくのは創価学会や顕正会等と変わらないのです。事実、正信会はもはや分裂状態で一つの教団とは言えない状態になっています。いずれ法華講にせよ創価学会にせよ、そうなります。
互助組織として功徳を主張して回る、大石寺系教団のそのような取り組みがもはや現代の日本では無効であることに、宗教幹部たちはいい加減、気づいた方がよいかと私は思います。
もしかしたら創価学会の一部幹部は少し気付き出しているのかもしれません。最近は現世利益の主張が鳴りを潜め、自己啓発的な宗教へと変貌している印象を受けます。教義も非常にファジーになり、もはやどの宗祖の教団なのかわからないほどです。
ただそのような小手先の変革だけで、今後信徒数が爆発的に増えるとは到底思えません。ニーズを失った教団は高齢化とともに少しずつ減衰するだけです。
もはや私たちの多くは宗教を必要としていない、という現実をきちんと見なければ、教団は滅び去るだけかと思います。神社本庁でさえ信徒数が激減している現実に、私たちはもっと目を向けた方がよいのではないでしょうか。
追記
私たちが助け合って生きてきたことは否定できないのかもしれません。
けれど、それらはもはや過去の過ぎ去ってしまったもので、もはや今の創価学会の歴史的役割が終わっている現在、望むべくもないのでしょう。
いい加減、夢を見るのをやめて、現実に生きることを私たちは選んだほうがよいと私などは思います。
それが違うと主張されるのも自由ですが、それならその方たちで新しいコミュニティを一から築き上げてみればよいのです。
私にはそんなコミュニティなどもはや必要ありませんがね。