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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

大石寺24世日永の代に天王垂迹堂は再建されていた。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて先日、北山本門寺の棟札から「本門寺根源」の坊地の寄進の話を書きましたが、この中で「三堂一時に造立」とされている一つに「法華垂迹天照大神宮」があります。



そしてこの棟札に倣い、大石寺でもかつて八幡大菩薩天照大神を祀った「天王堂」「垂迹堂」が存在していたことがわかっています。



「法華垂迹天照大神宮のこと」



大石寺9世の日有は「日興上人の時、八幡の社壇を重須に建立あり内には本尊を懸けらる、是レは本門寺の朽木書と云云、今の義にあらず、天下一同の法花経信仰の時は当宗の鎮守は八幡にて在す(まします)べし云云」(『有師化儀抄』富士宗学要集1-74)と述べていますが、将来の広宣流布の時に至って「当宗の鎮守」が「八幡大菩薩」になることを明確に述べています。
日亨もまた「近時まで在りし吾本山の天王堂垂迹堂の例」(同1-58)と述べており、大石寺にもまた近年まで「天王堂」「垂迹堂」が存在していたことがわかります。



では現在は廃堂になっている、この「天王堂」「垂迹堂」は大石寺にはいつまで存在したのでしょうか。
探してみると、大石寺48世日量『続家中抄』の「日永伝」の項目にその記述がありました。



「日永伝(中略) 元禄五壬申年四十三歳夏六月七日、啓師の付属を承ケて当山に入院し正的第廿四世なり、師幹事に克く本堂及ヒ諸伽藍を修理し更に天王垂迹堂を再建す、同く十年丁丑春新に輪蔵を建て宋本の一切経全部を納む」
(日量『続家中抄』富士宗学要集5-274〜275ページ)



この記述によりますと、大石寺日永は元禄5年(1692年)6月7日に23世日啓から付属を受け、24世法主として登座します。上記の『続家中抄』の記述では天王垂迹堂を日永が再建した後、元禄10年(1697年)に経蔵を創建して一切経を収めたとありますから、日永が「天王垂迹堂」を再建したのは元禄5年〜10年の間、すなわち1692年〜1697年の間のことと考えられます。
また日永は大石寺26世日寛の師匠筋にあたる人物です。18世日精が下谷常在寺を天和3年(1683年)夏、日永に付属した際にその年の12月下旬に日寛は日永の室に入っています。
26世日寛が師匠筋に当たる24世日永の再建した堂宇を廃堂に処するとは考えられませんから、1697年以降、少なくとも日寛の時代とその前後まで大石寺に「天王垂迹堂」はきちんと存在していたことになろうかと思います。



参考のために

「本地久遠実成釈尊垂迹富士浅間宮」

天照大神は東条の郷に住まう」

「神社建立・本尊奉納は大石寺の本来の教義」

「三大秘法と三種の神器