気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

歴史的に必要のなくなった組織。




いつもみなさん、ありがとうございます。



実は少子化、青年部の減少により、後継者不在の創価学会の地域組織の現状には、信濃町創価学会本部の幹部たちも相応の危機感を抱いています。
ただそのための方法論がもはや「一人一人への励まし」とか「丁寧な家庭訪問」とか「壮年婦人一体となった励まし」とか、今までの方法論の延長線上でしか語れなくなっているのです。
つまり創価学会本部には、今後大量に創価学会が信徒を獲得する拡大のための方法論が存在しないということです。打つ手がもはやないのです。



かつての「折伏大行進」と言われた時代は非常識なこともたくさんしましたし、他宗派批判も創価学会は散々やってきました。批判というより非難中傷、侮蔑と言っても良いほどのものです。
しかし創価学会も大きくなったから、そんな方法論は取れないと、幹部の誰もがわかっているのです。



私から言わせれば、それならなぜ過去の非常識な行為を反省して謝罪を表明しないのでしょう。そのことをきちんと公式に述べないことは過去を誤魔化すことと変わりません。
きちんと「創価学会はかつて間違ったことをしました」と、きちんと身延山日蓮宗立正佼成会伊勢神宮等、神社本庁やその他多くの宗教法人に公式に謝罪すべきです。
それがない限り、創価学会に対する世間の目は厳しいまま変わらないと思います。
創価学会という教団が本気で変わろうとする、その姿勢を示さなければ、新しい信徒の獲得などできる筈もありません。



過去の過ちを認めることは勇気の必要なことです。しかしそれをしなければいけない。過去の否定の上で新しいものを生み出さないのであれば、歴史的に用済みになっていくだけです。



トマス・クーンは『科学革命の構造』の中で、歴史にパラダイムという概念を導入しました。歴史には歴史的な文脈が存在し、そこには歴史の枠組みと言うべきパラダイムが存在します。パラダイムに則ったものが、その時の歴史においてもてはやされますが、歴史が過ぎ去ってしまって、過去のパラダイムになってしまえば消え去っていくものです。
例えばファッション、流行りの服などがわかりやすい例かもしれません。何十年も前の写真を見れば、その当時の流行りのスタイルを見ることができますが、今からすれば古臭い違和感のあるファッションにしか見えないでしょう。当時だから流行った、歴史的なパラダイムがそこにあるのです。



日本社会党が村山政権の際に、自民党やさきがけと連立したことをご記憶の方もいるでしょう。あの時、社会党は党名を「社会民主党」つまり社民党に変えました。
その結果、どうなったか。
社会党は今ではもはや風前の灯と言ってよいほどの弱小政党になりました。有権者の受け皿となるべき魅力を失ったのです。歴史的な役割を終えたのだと私は思っています。もはや社会党は歴史のパラダイムに合わないのです。



そして同様のことが創価学会日蓮正宗等の大石寺系教団にも言えるでしょう。
もはや創価学会は歴史的な役割を終えたのです。
昭和の相互扶助組織、セーフティネットとして地域に張り巡らされた創価学会の地方組織は、もはや現代には必要ありません。
そしてそのことに創価学会幹部たちはうすうす気付きながら、事実から目を背けているのだと私は思います。
だからこそ、過去の総括がないまま先に進もうとしても、あらゆる策は失敗すると思います。
繰り返しますが、創価学会の歴史的役割はすでに終わっているのです。
事態は深刻なものだと早めに知った方がよいでしょう。
活動家の方は、未活動や非活を選んでも良いので早めに組織から抜けてください。