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日道『三師御伝土代』を読む。





大石寺第4世の日道(1283〜1341)によって書かれた『三師御伝土代』という文献があることはよく知られています。この日道自身による真蹟も大石寺に現存しています。

これは日蓮、日興、日目の三師について書かれた最古の文献の一つでして(元弘3年/正慶2年・1333年。この年は日興と日目の没年)、特に日蓮自身の誕生日を「貞応元年2月16日」と記録している、日蓮門下中最古の文書です。


『三師御伝土代』の冒頭はこう始まります。

日蓮聖人は本地是レ地涌千界上行菩薩の後身なり、垂迹は即安房の国長狭の郡東条片海の郷、海人の子なり」
(『富士宗学要集』第5巻宗史部1ページ)

日目より相承を受けたとされる日道ですが、ここで彼は日蓮の「本地」を「上行菩薩の後身」としています。
つまり日道の頃にはまだ日蓮を本仏とする説は存在しなかったと考えるのが自然でしょう。


少し読み進めて後半に行きましょう。


「文永十一年きのへいぬ十月蒙古国寄す合戦。
同十二年きのとのい正月下旬蒙古国人三人鎌倉へ下ル後又五人下ル。
同九月六日蒙古人九人竜の口に於て頸斬れ畢んぬ。
建治元年きのとのい六月一日大日蝕、文永十二年三月廿七日あらたむ。
弘安元年つちのへとら建治四年二月二十九日改元
弘安五年みつのへうま十月十三日辰の時聖人御遷化、」
(同6ページ)


日蓮正宗にとって最も大事な弘安2年10月12日、戒壇本尊建立の記述は存在しません。
ここから考えるに、日道の時代(1283年〜1341年)にはまだ「弘安2年戒壇本尊」は存在しなかったと考えるのが自然でしょう。


もう少し読み進んでみましょう。


「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大漫荼羅なりと図シ給フ御本尊に背ク意は罪ヲ無間に開く云云、何ソ三身即一の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな。」
(同12ページ)


戒壇本尊は「仏滅後二千二百二十余年」ですから、ここでも記述が相違しています。
ちょっと整理すると

戒壇本尊:仏滅後二千二百二十余年
七箇相承:仏滅度後二千二百三十余年
御伝土代:仏滅後二千二百三十余年

一貫しているとは言い難いですね。
また「三身即一」の仏はここでは「日蓮」ではなく「三身即一の釈尊」とされていますから、日道の考えでは「本仏」は「釈迦」であることがここからわかります。

ここから推察できることは以下の点になります。


①日道の時代(1283年〜1341年)には、日蓮の本地を「上行菩薩」としており、まだ日蓮を本仏とする思想は存在していなかった。

②日道の時代(1283年〜1341年)には、弘安2年造立とされる戒壇本尊は存在していなかった。


以上2点が自然な推察であると考えます。