気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

「分身散体」か「分身散影」か。






いつもみなさん、ありがとうございます。




さて私は以前のブログ記事にて「分身散体」について少し述べたことがあります。


「日寛との決別を」


「分身散体」(ぶんしんさんたい)とは、大石寺に言われる教義で「戒壇本尊と各家庭の法主書写本尊との間で信じる心があればその功徳に違いはない」というくらいの意味で私は理解していました。


ところが、ところが、


Twitterで大木道惠氏の指摘によりますと、


大石寺では本来『分身散体』という教義を用いてはいなかった」

「元々は『分身散体』ではなく『分身散影』(ふんじんさんよう)だったはず」


とのことです。
このご指摘には驚きました。ありがとうございます。
しかし、いつどこで変わったのでしょう?
これが私にはわからないでいます。


まず「分身散体」の根拠ですが、これは戸田城聖氏もかつて質問会で述べていまして、「分身散体の法」とか「分身散体の義」などと述べていました。この根拠は無量義経の十功徳品第3に述べられているところです。


「善能、分身散体、遍十方国土、抜済一切二十五有極苦衆生、悉令解脱。」
(『無量義経』十功徳品第3)


無量義経』の十功徳品は、この経に十の不思議があり、それを釈迦が菩薩に説いていくものです。その9番目で「分身散体」が説かれることになります。
しかしよく読めば、ここでは経を持つ「善男子、善女人」が得る不思議な功徳力の一つとして「分身散体」を述べていまして、これを根本本尊と法主書写本尊、家庭安置の本尊との関係として説明することは牽強付会と言えるでしょう。


ところで、「分身散体」が後からできたもので、その由来が無量義経だとすると、本来大石寺の教義であったはずの「分身散影」はどこから来たものなのでしょう。
これは自分でいろいろと調べてみたのですが、よくわかりませんでした。どうも「分身散影」の語は天台智顗の『法華玄義』、妙楽湛然の『法華文句記』等で扱われていたようです。
上行菩薩結要付属口伝』(真蹟無)では『法華文句記』の引用がありますが、この中で「分身散影」(ふんじんさんよう)という語が出てきます。


「記に云く『問う諸の菩薩は共に未熟を熟す何の彼此有らん分身散影して普く十方に遍す而るを己任及び廃彼と言うや」
(『上行菩薩結要付属口伝』創価学会版御書、540ページ)


驚いたのは真言宗醍醐寺派でも説かれる教義とのこと。善無畏の『大日経疏』にも「蓋此加持身即自性法身之分身散影」と説かれているようです。ですからこの語は天台や真言で用いられていたものなのでしょう。


つまり本来、天台教学や密教で扱われていた「分身散影」の語が大石寺の教義として古来から伝わっていたということなのでしょう。
ところが、ある時を境になぜか「分身散影」ではなく、無量義経由来の「分身散体」が用いられるようになってしまい、現在では大石寺の僧侶でさえも「分身散影」ではなく「分身散体」だと思っている方が少なくないとのことです。


この問題、大石寺の教義の変遷に関してとても不思議に思います。恐らくは創価学会の出現以降、戸田城聖氏あたりから「分身散体」という言葉が普通に使われ出したのかと思いますが、それが無量義経由来だとしても、古来の大石寺に伝えられていた「分身散影」がどこから変わったのでしょう。
何か情報がありましたら、読者の皆様、ぜひ教えてくださいませ。








本門の釈尊の脇士と為り。





いつもみなさん、ありがとうございます。




さて『観心本尊抄』には以下のような一文があります。創価学会版御書全集から引用してみましょう。



「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」
創価学会版御書全集254ページ)


観心本尊抄』は原漢文で書かれていまして、この部分の原文は「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士、一閻浮提第一本尊可此国」となっています。
この漢文を大石寺系教団では「本門の釈尊を脇士と為す」と訓じているのですが、実はこの訓読の仕方には批判が為されておりまして、他の刊本には上のようには書かれていません。
では一般的にはどのように書かれているのか、平楽寺書店版の昭和新修から同文を引用してみましょう。


「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為り、一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし」
(昭和新修日蓮聖人遺文全集、上965ページ)


一読しておわかりのように、地涌の菩薩が本門の釈尊の脇士となるという意味になり、大石寺系の訓読とは意味が全く異なってきます。
つまり漢文の訓読の仕方も大石寺系は独自の解釈を施されていまして、それが正しいのかどうかということについては、よく考えてみないといけないということです。


追記:
もしかしたら「為」という字は「なす」と訓読されるべきで「なり」や「なる」と読むべきではないと考える方もおられるかもしれません。
しかしながら「為」を「なる」や「なり」等、「なす」以外に訓読することは他の諸御書にも見える表現でして、「為」を「なす」以外に読むことはなんら不自然なことではありません。
例えば全漢文で書かれている『立正安国論』でもそれは明らかでしょう。


「予少量為りと雖も忝くも大乗を学すに蒼蠅驥尾に付して万里を渡り碧蘿松頭に懸かりて千尋を延ぶ」
(『立正安国論創価学会版御書全集26ページ)

「又云く『如来国王に為りて菩薩の道を行ぜし時爾所の婆羅門の命を断絶す』と」
(『立正安国論』同27ページ)

「鳩化して鷹と為り雀変じて蛤と為る」
(『立正安国論』31ページ)


他の諸御書から見ても「為」の字を「なる」や「なり」と読み、「なす」と読まないことはなんら不自然なことではないということは明らかであると思います。










日蓮の葬儀を執り行った日昭と日朗。





いつもみなさん、ありがとうございます。



ところで、日蓮は弘安5年10月13日に亡くなりますが、その際、日蓮の葬儀の導師は誰が勤めたのかを考えてみたいと思います。


日興筆による『宗祖御遷化記録』(西山本門寺蔵)によると、次のように書かれています。


「一弟子六人事      不次第
一、蓮花阿闍梨      日持
一、伊與公             日頂
一、佐土公             日向
一、白蓮阿闍梨      日興
一、大國阿闍梨      日朗
一、辯阿闍梨          日昭
右六人者本弟子也、仍為向後所定如件。
弘安五年十月八日
同十三日辰時御滅御年六十一即時大地震動、
同十四日戌時御入棺、日朗日昭子時御葬也、」
(日興『宗祖御遷化記録』日蓮正宗歴代法主全書1-80〜81ページ)


ここから見てわかる通り、入棺と葬儀は日昭と日朗によって執り行われています。
つまり六老僧のメンバーは「不次第」なのですから、年長である日朗と日昭の二人が葬儀の導師を勤めることは自然なことです。
実際、その後の葬送次第でも、前陣は日朗、後陣は日昭が勤めています。日興は前陣日朗の左端にいたことが自身の手で記録されています。


ところで、日興の葬儀の際には日目が式長を勤めていたことは諸記録に見られます。
後代になると、例えば大石寺66世細井日達の葬儀は次代の阿部日顕の導師によって執り行われています。


以上のことから考えて、日蓮の晩年にもまた当時の六老僧にも日興だけをとりわけ「本門弘通の大導師」としたりするような、特別な扱いというのは特に存在せず、あくまで不次第の六人の中で年長であった日朗と日昭の二人が葬儀の中心となったということであろうと思います。



日蓮と釈迦の別仏説はどこから。






いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、私はこのブログで度々、大石寺の教義として日蓮本仏説を検証していますが、そもそも大石寺26世日寛の『末法相応抄』等で説かれる日蓮本仏説は「日蓮=釈迦の同仏説」であることを述べています。


「日寛の説く『日蓮=釈迦』の同仏説」

日蓮と釈迦は同体か別仏か」


ところが、現在の創価学会では明らかに日蓮と釈迦は別の存在として考えられていまして、現在の多くの創価学会員さんが考える本仏は日蓮本人であり、釈迦は仏になる前は下種益の題目を唱えていたという考え方すらあります。


どこからこのような考え方に変わってきてしまったのでしょう。
恐らくは創価学会の出現以降のことかと思います。


ところが、戸田城聖の方便品寿量品の講義等を読むと、戸田会長の頃は「教主釈尊」を「末法の本仏日蓮大聖人」と読み換える節が見られるのですが、よく読むとそれらは釈迦と日蓮の同仏説を主張していると読むことができそうです。


「大聖人は久遠元初の自受用報身如来であられます。それが第一番には五百塵点劫の釈迦と現れ、あらゆるところに、久遠元初の自受用報身の慈悲を垂れられた。」
戸田城聖日蓮正宗方便品寿量品精解』147ページ、精文館、昭和33年)


ということは、戸田城聖会長時代もまだ、創価学会は「日蓮=釈迦の同仏説」の日蓮本仏説を考えていたということになります。
以前、ブログでも書いたように、本来の日寛の教義で考えれば大石寺の伝統的な本仏説は「日蓮=釈迦の同仏説」です。戸田氏はこの説にあくまで準拠している印象を抱きます。


つまり創価学会日蓮を釈迦とは別の本仏と考えるようになるのは、池田大作氏が会長に就任して以降のことなのでしょう。



的場正順氏の身に起こったこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今回は昭和33年の大石寺大講堂落慶法要の際に、的場正順という僧侶に対して創価学会が何をしたのかという点を考えてみたいと思います。


このことに関して、小説『人間革命』第12巻では、的場正順氏が所化小僧を手下のように使い、それを創価学会青年部と山本伸一池田大作)がたしなめたという表現になっていますが、どうも事実は異なるようです。
的場氏が後に一僧侶に送った手記を元にして、溝口敦氏は以下のような記述をしています。当該の箇所をそのまま引用してみます。



「大講堂落慶法要の際、創価学会の青年部員三、四十名が大石寺の大坊に泊まりこんでいた。彼らは僧の卵ともいうべき所化を、タバコを買いにやらせるなどの私用に使い、チップがわりに菓子を与え、ソバ代を出すなどしていた。彼らには所化とはいえ、僧侶一般に対する畏敬の念はなかった。所化を指導する立場にあった的場はこれらのことを見聞きし、青年部責任者の土屋某に再三にわたって注意を促した。
三月二十二日の夜、的場は青年部員間で、『正宗の坊主も邪宗の坊主となんら変わりない。ものさえ与えれば、いうことを聞く』と話されているのを聞き、翌二十三日朝、大石寺内の一僧坊である六壺に所化と青年部員を集めて厳重な注意を与えた。
『大坊は一人前ではない僧が法主の指南で修行する場所であって、本来が青年部員の起居するところではない。教育にさわるような真似はやめてほしい』
的場は語をつぎ、前夜の青年部員の話を論難した。
邪宗の坊主と同じだというのは物を知らなすぎる。ではいうが、戸田は十六日、岸を迎えようとした際、宗教団体の王様は私だといったが、これはどういうことか』
宗門の立場からいえば、宗団の王者は、日蓮であり、また日蓮を体現する本尊、あるいは法主となろう。的場は創価学会の宗門支配を苦々しく思い、いわば法主にかわって、戸田の車駕による境内練り歩きなどを批判した。山門には下馬下乗とあって、法主でさえ山門を出るまでは乗り物を利用できない。
が、この三時間後、的場は池田に呼び出されて裸にされ、近くの御塔川原に放りこまれる。青年部員がかわるがわる的場に馬乗りになって的場の顔を水の中につけ、池田はポケットに手を入れて見下ろしながら、指揮したという。
的場は事件後、被害者にもかかわらず逆に約2週間の謹慎を命じられたうえ、北海道の新寺院に四年、その後、鳥取へと、地方回りの生活を余儀なくされた(『週刊文春』昭和五十二年九月一日号)。宗門は創価学会の組織と財力に制圧されつくして、的場の正義をバックアップすることも、その権利を回復することと長くできない状態にあった。」
(溝口敦『池田大作「権力者」の構造』183〜185ページ、講談社+α文庫、2005年)


私はこのブログで『狸祭り事件』についても書いていますが、狸祭り事件の本質は宗教法人格の取得のために創価学会大石寺宗門に対して企図した示威行為であり、これがきっかけで創価学会大石寺に対する影響力は高まったと考えています。


「狸祭り事件」

「小笠原慈聞氏の謝罪画像の新聞掲載」

創価学会青年部から小笠原慈聞氏への示威行為」


そして大講堂落慶の昭和33年3月16日もまた戸田は法主にさえ許されない「車駕」に乗って境内を練り歩き、宗教界の王者を宣言、そしてその数日後に上記のような私刑事件が大石寺内で起こっていたとすれば、看過しがたい問題であろうと思います。




自身で学ぶと言ってきたのに。






いつもみなさん、ありがとうございます。




さて、私は創価学会の活動家時代にいわゆる「広宣部」メンバーとして活動をしていた時期があります。


「広宣部と言論企画部」


当時そこでやっていたことは何かと言えば、まあ上の記事をお読み頂ければわかりますが、多くは顕正会妙観講さんとの対論の現場に出向くこと。また他宗対策として大石寺やその末寺に潜入したりすることなどでした。


ところで、この広宣部の勉強会では、例えば「妙観講がこう言ってきたらこう言い返す」という、Q&A別に特化してさまざまな話題を扱っていたものです。


具体例を一つ挙げてみましょう。
例えば妙観講から次のような質問が創価学会に対してあがることがあります。


「君たちは誰の指南を受けて御書を読んでいるのか」

「君たちは法主上人以外に誰を師として仏法を習うのか」


この質問に対して、広宣部資料(波多地克利氏提供の資料が当時メインでした)では、多くは


「それは日蓮である」

日蓮を手本として師として自身で学ぶのだ」


等々、反論することを主張していました。
つまりわざわざ大石寺の御僧侶さんに教わることなど別にないのだと。当時の私たちも「創価ルネサンス」なんて言葉があったくらいで(今ほとんど死語ですが・笑)、自分たちで教義を考えて築いていくという在家集団としての思い込みに近い自負のようなものがあったと思います。



ところが、最近になって創価学会は教義的に自分たちで何かを考えたのかというと、何も考えられない人たちを再生産してしまったような感じがします。政治学習会と言えばなぜか『立正安国論』を勉強して、公明党を応援しようとなる(笑)のが、私には全く理解できませんし、教義の問題も本尊の問題も信濃町自体が迷走を続けていて、会員もそれに対して適切に批判できる人がいないというのが実態です。


かつて「日蓮を手本として自分たちで学ぶのだ」と言ってきた人たちなのに、10年以上の歳月が流れてみれば、日蓮の真蹟の知識もない、そもそも日蓮の遺文もろくに読んでいない、富士門流の文書も読んでいない、日興の著作などほとんど知らない、大石寺の歴代管長の文書も知らない、ろくに経文類も読んでいない、読める知識さえもない、活動に忙しくてその時間さえないという人たちを大量生産してしまっただけです。


ですから現在の創価学会の現役活動家さんの多くには、日蓮の実像を真摯に求める教学姿勢というものが欠落していると私は思います。


「自身で学ぶ」と言ってきたのに「自身で学ぶことができない」姿を露呈して、単に初代〜3代までの教団指導者を根本とするというなら、その団体が日蓮根本であるとは言えないのは至極当然でしょう。










日寛との決別を。







いつもみなさん、ありがとうございます。



さて創価学会が2018年現在、頒布している曼荼羅本尊は、大石寺26世日寛の書写本尊になります。


しかし創価学会側は日寛の教義について、時代的に即応する部分とそうでない部分を分け、教団にとって都合の良いところを換骨奪胎している印象を受けます。


更に創価学会として、2014年の会則改定で大石寺の弘安2年造立説の戒壇本尊を「受持の対象とはしない」ことを宣言しました。


日寛の教学を昔から学んできた者にとって、これらは矛盾としか思えないんですね。


なぜかというと日寛という人は、戒壇本尊を根本とし、更に「唯授一人」の血脈相承と一体化して自山の権威とその絶対性を喧伝した人物だからです。
実際『観心本尊抄文段』には「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」と書かれています。


つまり日寛を評価するということは、その根本教義は弘安2年戒壇本尊と大石寺唯授一人の血脈相承を絶対的な根本とすることが基本になるはずです。
実際、諸文段や六巻抄にもそう書かれていますし、その基本を否定するなら、それは日寛の教義ではないということです。


つまり創価学会が「世界広宣流布」という目標を掲げて布教を展開するためには、そもそも日寛との完全な決別と総括が必要です。
それを誤魔化して、適当にお茶を濁すだけでは、教義的には大石寺法主の権威を認めることになってしまうでしょう。
日寛ほど、大石寺の唯授一人の血脈相承の絶対性を強調した人もいません。



日蓮書写曼荼羅ではなく、一寺の管長が書写したに過ぎない本尊を根本として拝んでいることが、そもそも日蓮門流としてはあり得ないことです。それが正しいとするなら、その淵源は大石寺の「分身散体の義」を実質的に認めることになるでしょう。



そういったことを語らず、お茶を濁して、玉虫色の結論に終始して信徒に布教を強いるなら、会の教義に不審を抱く会員が増えるだけでしょうし、また大石寺へ懐古の念を抱く高齢・古参の会員さんを増やすことになるでしょう。