いつもみなさん、ありがとうございます。
しかし創価学会側は日寛の教義について、時代的に即応する部分とそうでない部分を分け、教団にとって都合の良いところを換骨奪胎している印象を受けます。
日寛の教学を昔から学んできた者にとって、これらは矛盾としか思えないんですね。
なぜかというと日寛という人は、戒壇本尊を根本とし、更に「唯授一人」の血脈相承と一体化して自山の権威とその絶対性を喧伝した人物だからです。
実際、諸文段や六巻抄にもそう書かれていますし、その基本を否定するなら、それは日寛の教義ではないということです。
日寛ほど、大石寺の唯授一人の血脈相承の絶対性を強調した人もいません。
日蓮書写曼荼羅ではなく、一寺の管長が書写したに過ぎない本尊を根本として拝んでいることが、そもそも日蓮門流としてはあり得ないことです。それが正しいとするなら、その淵源は大石寺の「分身散体の義」を実質的に認めることになるでしょう。
そういったことを語らず、お茶を濁して、玉虫色の結論に終始して信徒に布教を強いるなら、会の教義に不審を抱く会員が増えるだけでしょうし、また大石寺へ懐古の念を抱く高齢・古参の会員さんを増やすことになるでしょう。