気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日寛との決別を。







いつもみなさん、ありがとうございます。



さて創価学会が2018年現在、頒布している曼荼羅本尊は、大石寺26世日寛の書写本尊になります。


しかし創価学会側は日寛の教義について、時代的に即応する部分とそうでない部分を分け、教団にとって都合の良いところを換骨奪胎している印象を受けます。


更に創価学会として、2014年の会則改定で大石寺の弘安2年造立説の戒壇本尊を「受持の対象とはしない」ことを宣言しました。


日寛の教学を昔から学んできた者にとって、これらは矛盾としか思えないんですね。


なぜかというと日寛という人は、戒壇本尊を根本とし、更に「唯授一人」の血脈相承と一体化して自山の権威とその絶対性を喧伝した人物だからです。
実際『観心本尊抄文段』には「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」と書かれています。


つまり日寛を評価するということは、その根本教義は弘安2年戒壇本尊と大石寺唯授一人の血脈相承を絶対的な根本とすることが基本になるはずです。
実際、諸文段や六巻抄にもそう書かれていますし、その基本を否定するなら、それは日寛の教義ではないということです。


つまり創価学会が「世界広宣流布」という目標を掲げて布教を展開するためには、そもそも日寛との完全な決別と総括が必要です。
それを誤魔化して、適当にお茶を濁すだけでは、教義的には大石寺法主の権威を認めることになってしまうでしょう。
日寛ほど、大石寺の唯授一人の血脈相承の絶対性を強調した人もいません。



日蓮書写曼荼羅ではなく、一寺の管長が書写したに過ぎない本尊を根本として拝んでいることが、そもそも日蓮門流としてはあり得ないことです。それが正しいとするなら、その淵源は大石寺の「分身散体の義」を実質的に認めることになるでしょう。



そういったことを語らず、お茶を濁して、玉虫色の結論に終始して信徒に布教を強いるなら、会の教義に不審を抱く会員が増えるだけでしょうし、また大石寺へ懐古の念を抱く高齢・古参の会員さんを増やすことになるでしょう。