いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私は以前のブログ記事にて「分身散体」について少し述べたことがあります。
「日寛との決別を」
ところが、ところが、
Twitterで大木道惠氏の指摘によりますと、
「大石寺では本来『分身散体』という教義を用いてはいなかった」
「元々は『分身散体』ではなく『分身散影』(ふんじんさんよう)だったはず」
とのことです。
このご指摘には驚きました。ありがとうございます。
しかし、いつどこで変わったのでしょう?
これが私にはわからないでいます。
「善能、分身散体、遍十方国土、抜済一切二十五有極苦衆生、悉令解脱。」
(『無量義経』十功徳品第3)
『無量義経』の十功徳品は、この経に十の不思議があり、それを釈迦が菩薩に説いていくものです。その9番目で「分身散体」が説かれることになります。
しかしよく読めば、ここでは経を持つ「善男子、善女人」が得る不思議な功徳力の一つとして「分身散体」を述べていまして、これを根本本尊と法主書写本尊、家庭安置の本尊との関係として説明することは牽強付会と言えるでしょう。
これは自分でいろいろと調べてみたのですが、よくわかりませんでした。どうも「分身散影」の語は天台智顗の『法華玄義』、妙楽湛然の『法華文句記』等で扱われていたようです。
『上行菩薩結要付属口伝』(真蹟無)では『法華文句記』の引用がありますが、この中で「分身散影」(ふんじんさんよう)という語が出てきます。
「記に云く『問う諸の菩薩は共に未熟を熟す何の彼此有らん分身散影して普く十方に遍す而るを己任及び廃彼と言うや」
ところが、ある時を境になぜか「分身散影」ではなく、無量義経由来の「分身散体」が用いられるようになってしまい、現在では大石寺の僧侶でさえも「分身散影」ではなく「分身散体」だと思っている方が少なくないとのことです。
この問題、大石寺の教義の変遷に関してとても不思議に思います。恐らくは創価学会の出現以降、戸田城聖氏あたりから「分身散体」という言葉が普通に使われ出したのかと思いますが、それが無量義経由来だとしても、古来の大石寺に伝えられていた「分身散影」がどこから変わったのでしょう。
何か情報がありましたら、読者の皆様、ぜひ教えてくださいませ。