気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

興亜聖業とは。

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いつもみなさん、ありがとうございます。



さて冒頭の画像は、2018年10月20日のブログ記事にて紹介した日本小学館発行の『小国民日本』昭和16年6月号の広告のページです。


※前回の記事はこちらをどうぞ。
戸田城聖氏の帝国海軍への賛辞」



冒頭画像に挙げた広告のページにおいて、戸田城聖(当時の名は戸田城外)氏が当時ベストセラーとなったと言われる『推理式指導算術』等、著作の紹介をしているのは、会社の設立者、また当該雑誌の主幹として自然なことかと思いますが、非常に気になったのはページ上部に書かれた一文です。
次のような一文が書かれています。



「さあ真剣に勉強して興亜聖業達成の大業を翼賛致しましょう!」

 

ここで書かれている「興亜聖業」とは、当時の日本で使われていた言葉で、日本が東アジア政策として掲げていた大東亜新秩序の建設事業のことを指します。


昭和16年6月と言えば、日中戦争の最中でしてちょうどこの頃に江北作戦、中原会戦も行われていた時期です。またこの昭和16年の12月に日本は大東亜戦争に入っていくことになります。


つまりこの一文は昭和16年6月当時、戸田城聖氏は日中戦争について、それが「興亜聖業」であることを認め、日中戦争そのものが東アジア新秩序建設の「聖業」であるという認識に立っていたことになります。


現在の多くの創価学会員の認識では戸田城聖氏は牧口氏とともに、15年戦争そのものに反対していた反戦平和主義者のように考えられていますが、少なくともこの広告の一文を読む限り、昭和16年6月当時、戸田城聖氏は日中戦争を「興亜聖業」として認め、「大東亜新秩序建設のために勉強をしよう」と子どもたちに少年誌で語りかけていたことになろうかと思います。
















決して癒されない悲しみ。

 

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
ところで、このブログで私は大石寺系教義の欺瞞や、創価学会の史実の問題等、いろんなことを書いていますが、読者から「気楽非活さんは何時頃からそのことに気づいていたのですか?」と質問されたことがあります。
 
 
正直に言うと活動家の頃です。
 
 
私が創価学会のバリバリの活動家で、夜も寝ないで活動していた頃、創価班・広宣部の活動からさまざまな文献を集めて読んでいた時期がありました。対妙観講・対顕正会対策で『慧妙』(大石寺の機関紙)や『顕正新聞』をわざわざ組織に内緒で購読していた男子部員までいたほどです。私は分県や総県の広宣部のメンバーとともに勉強会のための資料として、さまざまな文献集めを自主的に買って出てやっていました。
 
 
例えば小説『人間革命』の各版で修正や改竄があることがわかったのもこの頃でした。また改訂前の戸田城聖氏の『人間革命』で牧口常三郎戸田城聖氏が戦争を肯定する発言をしていたこともこの頃知りました。
 
 
座談会で研究発表等することも考えましたが、当時、活動家だった私としてはこのことを明らかにすることを躊躇しました。平和の団体などと言っている創価学会がかつて戦争を肯定していたなんて組織が言っていることと正反対の事実だったからです。
 
 
ですから私はその時、言うのをやめました。
どうせ組織の人に言っても伝わらないし、組織を撹乱するだけになると考えたからです。
 
 
そうこうするうちに、創価学会の活動に私自身が疲弊していきました。
私は自分が犠牲になって病身の母を守ろうと考えていました。母と一緒になってお題目を何時間も唱えたことを思い出します。
当時の私はある種のストイックな殉教者意識であったかと思います。今になってみればそれは単なる自分勝手な正義感だったのかもしれませんね。
 
 
やがて私は身体も壊して、仕事も多忙になり、創価学会の活動をすることが現実問題として難しくなりました。母も同様でした。入退院を繰り返しながらどうにか頑張ってきましたが、それも限界に近づきつつありました。
まず私が非活になりました。その次に母が少しずつ組織から遠ざかっていきました。
私が非活にならなければ誰が母の看病や介護をしたらよいのでしょう? 全ては母のためでもありましたし、現実として自身も多忙だったというのもありました。
 
 
母はやがて亡くなりました。
両親も亡くなり、気がつくと私は親戚関係全てが断絶され、誰も親類がいないことに気づきました。
創価学会として生きてきて、両親は親類から全て縁を切られていました。そして調べてみると、創価学会員や大石寺信徒さんだった親類も亡くなったり行方知れずになっていました。
 
 
私は胸にぽっかり穴が空いたような喪失感をしばらく味わっていました。もちろん仕事はしていたので忙しかったことがある意味有り難かったです。しかし家に帰って母の遺影を見るとなんとも言えない喪失感と空虚さを感じました。
今までの自分の半生はなんだったのかを考え始めるようになりました。
 
 
座談会で言えなかったこと、大石寺の教義や創価学会の教義の問題について、語るに足る人はもはや私の周りにはいませんでした。
父も母もこの世から居なくなっていました。
 
 
私はブログを書くことを思いつきました。
けれど私には学術的な研究をした経験はなく、ただただ広宣部時代にいろんな文献や日蓮の御書を読んできただけでした。
 
 
心の世界には決して癒されない悲しみがあることを私は知りました。
自身が生きてきた恥の多い半生を曝け出すにはある種の勇気も必要でしたが、一番大切だった両親を失った今、もはや失くすものも自分にはないのだと気づきました。もしかしたら亡くなった母が私の背中を少しだけ押してくれたのかもしれません。
 
 
私の母も父も創価学会の活動をしてきて、人生の最後に親類からも縁遠くなり、静かに亡くなっていきました。そして私も気づくとそうなっていました。
また多くの大石寺系信徒さん、創価学会員さんが孤立し、静かに亡くなっていく姿を私は活動家の頃から幾度となく見てきました。今度は自分の番だと思うようにさえなりました。
 
 
抜け殻のようになった私の人生に何の意味があるのかと考えました。
恐らく意味などないのでしょう。けれども私のような不幸な人生はせめて私の代で終わってほしいと思うようになりました。
私は尊敬されるような人間ではありません。自分の人間性なんて最低かと思いますし、宗教者とも言えないかもしれません。
それなら私の恥の多い半生、創価学会の活動家として生きた半生も、せめて反面教師として誰かの役に立つことくらいはできるかもしれないと思うようになりました。
 
 
私は非活になり、今までの人生を取り戻すかのように、いろんな人と会い、信頼を失った友人に謝罪をし、たくさん働いて貯金をし、外に友だちを作って遊ぶようになりました。会員との狭い交友関係に縛られるのではなく積極的にいろんな人と話すようにしました。もともと私は人と話すのが好きでした。
次第に私も健康を回復し、元気になりました。かつての私はストレスを心なしか抱えていたのかもしれませんね。
楽しく暮らすことで、きっと亡き母も喜んでくれると思い、塞ぎ込んだ心を捨て、たくさん面白いことをして笑って暮らすように心がけました。
 
 
今でも私は毎朝、母の遺影に水をお供えし、手を合わせてから出勤します。
母がいつもそばにいてくれる気がしています。
それが単なる幻に過ぎない、記号に過ぎないということも私はわかっているつもりです。
けれども人には決して癒されない悲しみがあることも今の私にはわかりますし、忘れないで覚えていたい記憶があることもわかります。
人間の言葉や記憶は記号という虚偽でしかないとは思いますが、それでも人は記号の世界でしか生きられないものなのだと思います。
時間は本当は存在しない。けれども時間が存在すると信じるからこそ、今、生きていることの有難さもわかる気がします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

自由な活動を。








いつもみなさん、ありがとうございます。



さてTwitterでも書いたことですが、活動家時代の私は自分の持つ組織を「人間的な血の通う楽しい組織」にしたいと思っていました。


今、私は非活になって、どこかの教団に別に所属などしなくても、友人たちと楽しく遊んで「人間的な血の通う楽しい組織」は自分の手で作っていけることがよくわかってきた気がします。


あるいはもしかしたら池田名誉会長の指導通りにやれば「人間的な血の通う楽しい組織」を作ることが可能なのかもしれません。


そう思う人がいるのは自由ですが、もしもそれが正しいなら、すでに池田氏は膨大な著作(どこまで代筆かは知りませんが)を残していますし、別に現今の創価学会組織に無理に残らなくても「池田氏の思想」とやらを学んで独自に組織を立ち上げれば済む話かと思います。
また本部幹部会で池田氏のスピーチを聞いたことのある方なんて全国に山ほどいるはずですから、彼らが自分たちの知る池田氏の思想から、自分たちの求める組織を構築していけばそれでよいのではないでしょうか。


ところで以前、創価学会幹部の本尊観について書いたことがあります。


創価学会幹部の本尊理解」


この理解が正しいとすれば、「創価学会員である人が拝むからこそ御本尊に正しい血脈が通う」のだそうです。なんとも噴飯ものの本尊理解ですが、もしもこれが正しいというなら、創価学会を辞めずに活動を停止しても退会しない限り、自分で本尊を求めれば血脈が通うことになります。なぜなら本尊に血脈を通わせるのは現在の創価学会のロジックでは一人一人の創価学会員なのですからね。恐らくは三代の会長に繋がっていれば信心の血脈があるという教団論理なのでしょうね(私は全く信じませんけど)。


要するに、平成3年以降の池田氏のスピーチや著作を繙いても、また現在の創価学会の教団を仏格扱いする在家主義的教義を聞いても、「在家は在家で自由にやっていいんだ」的な論理でしかありませんから、それなら無理に教団に従うこともないのではないかと私などは思ったりします。


公明党を支援したくないなら支援しない自分たちの組織を構築すればよいでしょう。教義についてもどんどん自由に求めて構わないと思いますし、宮田幸一氏や霜田静志氏、またいろんな日蓮系教団や仏教思想に接近しても構わないのではないかと思います。私はこんなブログを書いていますが、私のブログの見解を支持するのも支持しないのも読者の自由だと思いますし、また、より普遍性の高い方のブログが支持されれば私のブログなど自然淘汰されて、次第に読まれなくなっていくだけかと思います。


私は教団に所属せず、個人で信仰を深めていますが、創価学会の財務をやめてから行っていることは例えば積極的な寄付活動等です。


例えば震災被害や台風被害に遭われた地域への寄付金などに積極的に参加するようにしています。
宗教が目的のない金集めになってしまえば、何に使われているかがわかりませんし、私は自分の目に見えてわかる形で何か社会に貢献したいというのは本来、宗教者が持つ自然な発露かと考えています。
もちろん個人ですから大したことなどできるわけでもありませんけど、自分の意志で少なくとも何かに寄与したいとは考えて行なっています。


さらに付言すれば、私は大石寺の信徒さんや創価学会員さん、また様々な宗教の方から連絡を頂き、会ってお話をする機会も増えてきました。
退会される方、しない方、離檀される方、しない方、また未活動や非活になる方、さまざまな宗教に入られる方、いろいろです。
大石寺の信仰圏にいると、活動をするかしないかで罰が出るというような脅迫のような指導を受けることもあります。精神的に不安になる方も多いのですが、私と話したり私のブログを読むと「落ち着く」という方もいらっしゃいます。
そこで最近は積極的にそういった方に会うことにしています。もちろん教団の単なるドグマを振りかざすだけの原理主義的な信徒には会おうと思いませんが、悩まれている方の力になれればそれはそれで良いことなのではないかと思うようになりました。元々私は俗っぽく、低い人間性の人物であり、他者から尊敬されるような者でもありませんが、読者のみなさんに支えられているおかげかと考えています。本当にありがとうございます。


教団の論理から離れた独自の活動なんて誰でも自由にどんどんやってよいのではないかと私は思います。恐らく創価学会本体として、会員が分派活動をすることに対して「創価学会仏と三代会長から離れる故に血脈を失う」くらいのロジックでしか反論できないはずです。











戸田城聖氏の帝国海軍への賛辞。

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いつもみなさん、ありがとうございます。



さて創価学会の第2代会長・戸田城聖氏は戦時中に15年戦争に対してどのような認識を持っていたのか、当時の史料から考えてみたいと思います。この当時の貴重な史料を提供してくださった方に感謝申し上げます。ありがとうございます。
冒頭画像に挙げたのは昭和16年発行の『小国民日本』第3号の巻頭言と目次、表紙です。この巻頭言を戸田城聖(当時は戸田城外)氏本人が書いています。


ここでの戸田氏の巻頭言全文を引用してみます。なお漢字の旧字体は適宜改めました。


「我が国土の成立ちをたづねると、天御中主神天瓊鉾(あめのぬぼこ)を霧中に振り給ふて、その刃先より滴りたる水滴が、大和島根の大八洲国を造ったと伝へ、また神武天皇建国創業の歴史も、南海より大和へ御東征の水師を進められたのに始まっている。
このやうに我が日本は、太古よりその母なる海に育まれ、海に親しんだ時代は進歩発達し、海に疎い時代は進展が歩みを止めつつ、今日まで成長してきたことを私達は歴史によって知っている。
海は我が国運進展の母体である。海は、太平洋は、我が生命線である。その太平洋いまや波高からんとする時、私達に心から安心を与へてくれるものは、沈黙の我が無敵海軍の厳たる姿である。朝に夕に、波濤を衝いて我等の祖国を護る輝く帝国海軍に、心からなる感謝を捧げようではないか。」
戸田城聖「巻頭言・海国日本の海軍」『小国民日本』第3号より、日本小学館昭和16年6月1日)


一読すればわかる通り、日本の帝国海軍を讃嘆し、「心から感謝を捧げよう」という内容です。ここから考えれば戸田城聖氏は15年戦争(当時は日中戦争)に明確に賛意を示していたということができるでしょう。
この年代は昭和16年であり、治安維持法及び明治神宮への不敬罪で牧口氏とともに逮捕される2年前のことであり、この時の戸田城聖氏は明確に戦争に賛意を示しており、なんら戦争反対の意志を示していなかったことはここからも明白であると思います。





追記:
今回の記事を書くにあたり、投稿者から日本小学館の当時の数少ない史料を提供して頂きました。本当にありがとうございます。











大蔵商事のこと。

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いつもみなさん、ありがとうございます。


さて今回は池田大作氏が若い頃、営業部長として勤めていた大蔵商事という会社のことを書いてみたいと思います。



昭和25年(1950年)6月に、戸田城聖氏の経営する東京建設信用組合の預金払い戻しが急増します。8月には大蔵省から営業停止を命じられ、戸田は告訴される事態にまで至っていました。このため、戸田は創価学会の理事長の職を辞めざるを得なくなりまして、後任を矢島周平に譲ります。戸田は出資者に詰め寄られ「嘘つき」と連日罵られたほどで、夏季講習会にも出られない程の立場となり、このため一時的に戸田城聖は自身の名を「戸田城正」と変え、雲隠れしてしまいます。


そしてこの頃、昭和25年(1950年)秋に戸田は小口金融、不動産、保険代理業などを営む「大蔵商事」を設立します。しかしながら上記のような事態から戸田は世間を憚って自身は顧問で控え、社長として和泉覚氏、専務理事に森重紀美子(戸田城聖氏の公認の愛人)氏を立てることとなります。


池田大作氏はこの頃、60万遍の唱題を決意して行っていましたが、この年の11月に大蔵商事の営業部長となります。実際、池田の『若き日の日記』でも昭和25年11月27日に「本日、営業部長に、昇格する。」という言葉が出てきます。しかしながらこの時期の彼は不遇で給料の遅配が続き、冬のオーバーを買うのを諦めなければならないほどだったと言われています。


大蔵商事は同年12月に新宿百人町に移転しますが、営業成績は一向に奮いませんでした。が、当時22歳の池田は生まれて初めて「長」とつく役職を与えられ、働いていました。


池田が唱題を始めてほぼ100日後、昭和26年(1951年)2月初旬、信用組合を解散しても良いという内意が伝えられ、3月11日に東京建設信用組合は解散します。これにより戸田氏は法的な制裁を免れることになります。どのような手段で法的制裁を免れたのかは全く不明ですが、これにより戸田は長らく空席のままになっていた会長に就任する意向を表明することになります。


昭和26年(1951年)6月、大蔵商事は新宿から市ヶ谷駅前の市ヶ谷ビルに移転します。戸田は翌年4月にこのビル内に創価学会の分室を設けますが、池田の会の活動には便利だったようです。
この昭和26年を境に大蔵商事の社業も好転していきます。昭和27年(1952年)春には戸田の当時7〜8000万円と言われた借財は、3割返済を含んでいたものの、皆済されるまでになります。


大蔵商事は、創価学会員の中でも小金を持っているものに日歩15銭で運用するといい、出資させた金を資金として、これまた会員に対する手形の割引を中心とした金融を行なっていました。実際に当時の聖教新聞には広告も載っていまして(冒頭画像は昭和27年11月1日の聖教新聞掲載の広告)、創価学会の会員を主たる顧客としていたのがわかります。


「割り引いてもらいたいものは創価学会支部長の紹介状をもらって朝九時までに大蔵商事に行く。商事では手形を預かり、三時にまた来いというわけだ。それから、目と鼻の先の三菱銀行市ヶ谷支店に運んで、銀行の手で振出し銀行に問い合わせ、ふるいにかけて二時に戻ってくる。割引率はふつう一割五分、三カ月手形なら四割五分を引く。会員からは日歩十五銭で運用してやると金を集めていた。」
我孫子支部参事・瀬尾正吉氏の発言)


池田はまた債務の取り立てで「病人の寝ている布団をはぐ」こともしたと言われ、後に池田自身「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どおしてこんないやな仕事をするのかと思った」(『社長会記録』昭和43年2月10日)と述懐しています。


この大蔵商事には池田大作の他に中西治雄、柏原ヤスら、学会の最高幹部も在籍していました。
ともかくも昭和26年春以降、大蔵商事の社業は上向き、池田も大きく安定した収入を得るようになります。


池田は昭和35年(1960年)会長就任後に、大蔵商事から離れます。同社の社長は戸田の愛人である森重紀美子、そしてその甥の森重章となります。
この間、昭和40年12月に大蔵商事は「大道商事」に名を変えますが、この頃、脱税の容疑で同社は国税局の手入れを受け、追徴金の支払いで経営が徐々に傾いていくことになります。
昭和47年(1972年)頃には、多数の学会員から集めた資金が3億円ほど焦げ付いて、その他にも数億の負債を背負う状態になっていました。このため、森重章は経営を投げ出します。


池田氏の指示で、中西治雄氏が大道商事の経営管理に乗り出し、相当額の穴埋めをしたようですが、それでも追いつかなかったと言われます。
実はこの穴埋めのために正本堂に多額の保険金がかけられていまして、当時、大石寺66世の細井日達氏はこれに不満を覚え、北条浩氏(当時副会長)に意見したことがわかっています。


「一昨年、二億出すからといったら四月に正本堂--それを市に貸せといったので市へ貸した。だから、それ以外に金はない。私は知らないから(正本堂基金のうち)六億のうち火災保険一億何千万、残り四億いくら、それが使えないというので他の方から積み立てた金が二億あるといったら市へ貸せというので貸してしまった……」
(昭和49年5月9日、大石寺大奥、宗務院記録)


大道商事は昭和49年12月3日、商号を「株式会社日章」と改め、住所も世田谷区北沢に移します。役員も森重章、森重紀美子、森重光生(戸田城聖と森重紀美子との間の子息)といった、戸田氏や池田氏と繋がる人物を外し、知名度があまり高くない学会幹部、また公明党の元議員である金井賢一、松尾俊人らに変えます。監査役には福島啓充が就任しましたが、経営の実質は中西治雄だったと言われています。


戸田城聖氏が仮に池田大作氏を「唯一の後継」と認識していたとして、果たして彼が池田氏にこのような金融業の営業部長を任せるものでしょうか。その意味でも戸田氏が池田氏を後継とは当時思っていなかったことは、この大蔵商事のことからも充分に推察し得ると思います。








参考文献:
溝口敦『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫、2005年
山崎正友『闇の帝王、池田大作をあばく』三一新書、1981年



追記:
昭和27年当時の聖教新聞について、資料の提供をして頂いた方に感謝します。ありがとうございます。











日寛の説く「日蓮=釈迦」の同仏説。






いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私はこのブログでたびたび大石寺系の日蓮本仏説について批判をしています。
そもそも日蓮遺文を読めば、日蓮自身は久遠の釈迦を本仏としていたことは明らかなことかと思います。



日蓮自身の釈迦本仏説の傍証として」


ところで、創価学会大石寺の主張する本仏説とは、日蓮が本来は釈迦の師匠であり、釈迦と日蓮が別の仏であるとする説になります。
実は日蓮本仏説を体系化した大石寺の人物こそ26世堅樹日寛なのですが、実は日寛をよく読むと日寛の本仏説は「日蓮≠釈迦の別仏説」ではなく、「日蓮=釈迦の同仏説」と説かれていることがわかります。


日蓮と釈迦は同体か別仏か」


上のブログで書いたように、日寛の『末法相応抄』では「本門の教主釈尊とは蓮祖聖人の御事」とされ、「是即行位全く同き故なり名異体同の御相伝本因妙の教主日蓮之を思ひ合す可し」とまでされています。


今回はこれに加えて、日寛の『寛記雑々』を引用してみましょう。ここで日寛は明確に「日蓮=釈迦の同仏説」を主張しています。


「凡そ蓮祖大聖人は若し外用を論ぜば本化上行菩薩の再誕、諸抄の中には或は仏の御使と云ひ、或は霊山相伝等と云ふが如き是れなり。若し内証を論ずれば、久遠元初の本因妙の教主釈尊なり。」
(日寛『寛記雑々』富士宗学要集3-304ページ)


「只是れ久遠元初の釈尊の一身なり。故に蓮祖大聖を以て、或ひは上行の後身と云ひ或ひは本因妙の教主釈尊と云ふなり」
(同3-305ページ)


「蓮祖は即ち是れ釈尊の事」
(同3-313ページ)


どうでしょうか。六巻抄の『末法相応抄』同様、日寛はここでも明確に「日蓮=釈迦の同仏説」を主張していると思います。
この「日蓮=釈迦の同仏説」は、実は保田妙本寺14世日我が先行して説いた日蓮本仏説「末法の釈迦とは日蓮なり」と同じなんですね。


日蓮本仏説の萌芽」


とすれば、日寛の説いた日蓮本仏説は、保田妙本寺の影響を少なからず受けていることが可能性として考えられると思います。











法主も自ら学んだ。








いつもみなさん、ありがとうございます。




さて私はこのブログでいろいろと大石寺の教義の問題について、突っ込んで書いています。
すると大石寺の一部の法華講さんは、やたら感情的に反発してきます。


「君は誰の指南を受けて法華経を読んでいるのか」


とまあ、そんな感じです。
別に誰の指南も受けていませんが、彼らからすると「それ、見たことか。御法主上人の御指南に沿わなければ真に法華経を読むことはできないのだ」と言いたいだけなんです。


そもそも日蓮の遺文とか、経典とかって、権威のある正統の教団とか指導者に教わらないとわからないようなものなんでしょうかね。
彼らの論理は「池田先生についていかないと真実の師弟はわからない」と言い張る創価学会員と何も変わらないと思いますね。そしてそのことに彼らは気づくことさえできていないのですから、噴飯ものです。


例えば大石寺66世の細井日達は「日淳上人追憶談」の中で次のように述べています。


「第二番目の会長戸田城聖氏が私につくづくもらしたことがあります。それは戸田会長が(日淳)上人に『あなたはこのご法門をだれから聞いたか。あなたはよく法門がりっぱでよくおできですが、この血脈抄といって、百六箇抄とか、本因妙抄というのがある。それをよくあなたは知っていらっしゃるが、だれから聞いて教わったのですか』といった。そしたら上人は『いいえ、私は誰からも教わりません。本をもうなんべんもなんべんもくりかえし、くりかえし読んだ。そしてはじめて意がわかりました』と答えられました。(中略)
じつに上人が師匠もなく努力して、研究せられた。そしてじつにあのくらいのご法門家になられた。ほんとうにご自分で研究せられて、その意に達したということを考えることができるのでございます。」
細井日達「日淳上人追憶談」昭和34年12月3日、『日達上人御説法集』所収、鳳書院、1964年)


一読してわかるように大石寺65世の堀米日淳氏自身が師匠もなく、誰からも教わらず、なんべんも読んで学んだことで、血脈抄の意を理解したことが述べられています。


そもそも日蓮自身が経文を自ら学び、経文と天台の教判を根拠として正統性を主張したことは『善無畏三蔵抄』等、諸抄に明らかなことです。



教団のロジックで、自ら学ぶことを放棄し、どこかで思考停止させるような教義はもはや時代錯誤であり、過去の法主の発言とも相違するばかりか、そもそも日蓮の考え方とも相違してしまうと私は思います。