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「釈尊を本仏とする文証」
「釈迦一仏にかぎりたてまつる」
「釈迦如来のたましい我が身に入り」
そこで傍証として、遺文から日蓮が釈迦を本仏として認識していた文を他にもいろいろあることを紹介してみたいと思います。
「法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり、然れば日蓮賤身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来れり、此れを一言もそしらん人人は罪を無間に開き一字一句も供養せん人は無数の仏を供養するにも・すぎたりと見えたり。教主釈尊は一代の教主・一切衆生の導師なり」
「教と申すは師親のをしへ詔と申すは主上の詔勅なるべし、仏は閻浮第一の賢主・聖師・賢父なり、されば四十余年の経経につきて法華経へうつらず、又うつれる人人も彼の経経をすてて・うつらざるは三徳備えたる親父の仰を用いざる人・天地の中に住むべき者にはあらず」
(日蓮『法門申さるべき様の事』同1266ページ)
「此の釈迦如来は三の故ましまして他仏にかはらせ給ひて娑婆世界の一切衆生の有縁の仏となり給ふ、一には此の娑婆世界の一切衆生の世尊にておはします、阿弥陀仏は此の国の大王にはあらず釈迦仏は譬えば我が国の主上のごとし(中略)二には釈迦如来は娑婆世界の一切衆生の父母なり(中略)三には此の仏は娑婆世界の一切衆生の本師なり」
「大学世尊入滅後、経歴二千二百二十余年、雖尓月漢日三ケ国之間、未有此大本尊、或知不弘之、或不知之、我慈父以仏智隠留之、為末代残之、後五百歳之時、上行菩薩出現於世、始弘宣之」