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「故に法華経の第二に云く『今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり而も今此の処は諸の患難多し唯我一人のみ能く救護を為す復教詔すと雖も而も信受せず」等云云、此の文の心は釈迦如来は我等衆生には親なり師なり主なり、我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども親と師とには・ましまさず、ひとり三徳をかねて恩深き仏は釈迦一仏に・かぎりたてまつる、親も親にこそよれ釈尊ほどの親・師も師にこそよれ・主も主にこそよれ・釈尊ほどの師主はありがたくこそはべれ、この親と師と主との仰せをそむかんもの天神・地祇にすてられ・たてまつらざらんや、不孝第一の者なり故に雖復教詔而不信受等と説かれたり」
簡単に通解をとってみましょう。
「法華経第二巻の譬喩品第三には『今此の三界は、皆是れ我有なり。其中の衆生は悉く是れ吾が子なり。而して今、此の処は諸の患難多く、唯我一人のみ能く救護せん。復、教詔すと雖も、而して信受せず。』等とある。」
「この文の真意とは釈迦如来が私たち衆生には親であり師であり主であるということである。私たち衆生のためには阿弥陀仏や薬師仏等は主ではあっても親や師というわけではない。ただ一人、三徳を兼ね備えて恩深き仏とは釈迦一仏に限るのである。」
「親も親にこそよるべきである。釈尊ほどの親である。師も師によるべきであり、主も主にこそよるべきである。釈尊ほどの師主は有難い存在である。この親と師と主の仰せに背く者は天神・地祇にも棄てられてしまうであろう、不孝第一の者である。それ故に法華経には『復、教詔すと雖も、而して信受せず。』と説かれているのである。」
どうでしょうか。一読して日蓮が釈迦を本仏として崇めていたことは疑い得ないと思います。
真摯に日蓮遺文を読めば、日蓮が釈迦を本仏としていたことは明確に読み取ることができます。つまり日蓮本人を本仏とすることは、そもそも日蓮の考えに反していますし、また日蓮からすれば釈迦を本仏と崇められない人は「天神・地祇にすてられ・たてまつらざらんや、不孝第一の者なり」であるという論理になろうかと思います。
したがってこの御書の引用部の後に出てくる「法華経のかたきをだにも・せめざれば得道ありがたし」(同1494ページ)の文で、「法華経のかたき」とされているのは、すなわち「釈迦を本仏と仰ぐことのできない人たち」のことを指しているかと思います。