気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

遺文紙背文書に見る庶民生活の実態。





いつもみなさん、ありがとうございます。
今日のテーマは「日蓮遺文紙背文書」についてです。




千葉の中山法華経寺には数多くの日蓮の真蹟が保管され、現存していますが、この日蓮の自筆文書の裏面に多くの文書が書かれていることが昭和37年に知られるようになります。


当時、紙は大変に貴重品であり、富木常忍は仕事で使った文書のうち、特に保管する必要がない反故紙について、日蓮の執筆のために提供したと考えられています。富木常忍は千葉介頼胤に仕えた家臣で、主に文書官僚でした。



その結果、偶然にも130通に及ぶ歴史的な史料が残ることになりました。これらは総称して「日蓮遺文紙背文書」と呼ばれます。



これらの紙背文書は、下総国守護千葉介を中心とし、それを取り巻く全国の所領内住人や家臣との往復文書であり、当時の社会情勢を知ることのできる、大変貴重な史料です。



紙背文書の中には「法橋長専」なる人物が富木常忍に与えた文書が数多く残されており、この人物が千葉氏の鎌倉屋敷に住み込んでおり、鎌倉幕府との折衝役を勤めていたことがわかっています。幕府から千葉氏に下る命令に対し、どう処理するかについて長専が心を砕いていることが伺われます。



幕府から千葉介に賦課された負担はその多くが、千葉一族や家臣、また彼らの居住する地域社会へ転嫁されることになります。紙背文書の中には富木常忍宛の手紙があり、その中で幕府御所で働く女性の衣装の費用が転嫁されたが、度々の富木常忍からの催促にも関わらず、それを払えない理由として旱魃と水害で田が荒れ果ててしまっていることが述べられています。


また紙背文書からは過酷な庶民の生活実態を看取することができます。文永6年とされる紙背文書によりますと、年貢を納められなかった人物が、自分の兄の娘を質に入れ、借金で負担し、それでも払えなかったので、その娘自身が売り飛ばされてしまったことなどが書かれています。書状はその窮状を富木常忍に訴えたものなのですが、当時の民衆の実態として人身売買が横行していたことがわかります。当然その背景には自然災害や飢饉があったことは想像に難くありません。



鎌倉時代は流通や交易が発展した時代でもありましたが、同時に奴隷や打ち捨てられた人たちが多く生まれた時代でもあったと考えられます。社会の発展が地域社会の生活向上には寄与しなかったと言えるでしょう。



日蓮もまたこうした現実を見て知っていたと思います。日蓮の方法は『立正安国論』を幕府に提出し、日蓮法華経を用いるように諌めることです。日蓮が民衆のために何か具体的に行ったような記述は遺文には少しも見られません。



仮にもし幕府が『立正安国論』を認め、日蓮が幕府に受け入れられたとしたら、その時は日蓮を何をしたでしょう?
私が推測するのは、国家の安寧を願って祈祷調伏をする日蓮の姿です。特になんらかの具体策があったとは私には思えません。日蓮は民衆を組織したこともありませんし、具体的な施設を作ったこともありません。






追記:
富木常忍は千葉介頼胤の家臣で文書官僚の執務に携わり、文書保管のノウハウ等を持っていたことは間違いなく、この点について文書保管の体制については日蓮と意見を一にしていたことは以前ブログでも書きました。


富木常忍と文書の管理体制」


参考文献:
中尾堯『日蓮真蹟遺文と寺院文書』吉川弘文館、2002年。







土民のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、日蓮武家や弟子たちと交流したり、また『立正安国論』を最明寺時頼に提出したりしていますが、日蓮本人が実際には民衆と交流した形跡が遺文には全く見られないことは何度となく指摘してきました。






さらには「民衆」という言葉の日蓮の用例は『守護国家論』の1箇所のみです(創価学会版御書36ページ)。
民衆が嘆いている、だからこそ国主にはするべきことがあるはずだ、とるべき教えがあるはずだという視点が日蓮にはありますが、民衆中心の仏法であるとは言い難いと私は思います。日蓮が考えていたのは徹頭徹尾、国家と武家社会の問題であり、民衆など相手にはしていないのです。


加えて今回指摘したいのは「土民」という用例です。


「如何に国王と云うとも言には障り無し己が舌の和かなるままに云うとも其の身は即土民の卑しく嫌われたる身なり」
(『諸宗問答抄』創価学会版御書380ページ)


『諸宗問答抄』は真蹟不存ですが、西山日代の写本(1391年)が現存します。
これを読むと、日蓮が「土民」の意味を「卑しく嫌われたる身」と考えていたことがわかります。



他にも「土民」の用例は私の知る限り『開目抄』『立正安国論』『法華取要抄』『滝泉寺申状』『曽谷入道殿御書』に見られます。『開目抄』のみ身延曽存ですが、残りは全て真蹟現存の御書です。


「故に上国王から下土民に至るまで皆経は浄土三部の外の経無く仏は弥陀三尊の外の仏無しと謂えり。」
(『立正安国論』同23ページ)


「所詮天下泰平国土安穏は君臣の楽う所土民の思う所なり」
(『立正安国論』同26ページ)


「夏の傑・殷の紂と申すは万乗の主・土民の帰依なり」
(『開目抄』同204ページ)


「其の上各各に経律論に依り更互に証拠有り随つて王臣国を傾け土民之を仰ぐ」
(『法華取要抄』同331ページ)


「而るを今年佐渡の国の土民は口々に云う」
(『法華取要抄』同336ページ)


「将た又尫弱なる土民の族・日秀等に雇い越されんや」
(『滝泉寺申状』同852ページ)


「当時壱岐対馬土民の如くになり候はんずるなり」
(『曾谷入道殿御書』同1024ページ)




「土民」とは文字通り「土着の民」という意味ですが、上の引用を読めばわかるように、ここで日蓮は「国王」とは身分の違う卑しい身として「土民」という語を使っていると考えられます。
当然日蓮自身の思想の時代的制約というものもあるとは思いますが、基本的に日蓮自身は民を「土民」と考えており、その身分を「卑しく嫌われたる身」と考えていたと私は思っています。
このことから考えても、日蓮の思想に「民衆仏法」のような要素があったとは言えないと私は思います。















『下山御消息』の遺文の状態。






いつもみなさん、ありがとうございます。




さて先日、日蓮の真蹟についての記事をあげてみましたが、真蹟の一覧をあげるだけと思っていたら、ことのほか大変な作業でその膨大さに改めて唖然とさせられました。
その意味ではもう一度、遺文を一つ一つ丹念に読むことの重要性も再認識したような気がします。問題提起、質問頂いた読者の方に感謝します。ありがとうございます。



さて今日はその真蹟の中でも特に気になっている遺文について考えてみたいと思います。その一つが『下山御消息』です。
多くの方もご存知のように、この『下山御消息』は十大部の一つとして知られています。



ところが、『下山御消息』の遺文の状態を見ると、大変な有様であることがわかります。
実は同抄は全体の70〜80%の遺文が失われており、残された遺文は32枚の紙片になり、その一つ一つが各地にバラバラに散在しているという状態なのです。


具体的に32枚の真蹟がどこにあるのか、一覧を挙げてみます。


1、小湊誕生寺
2、静岡光長寺
3、京都妙伝寺
5、静岡個人蔵
6、静岡光長寺
7、京都本満寺
8、京都本圀寺
9、京都本圀寺
10、大阪成正寺
11、静岡本興寺
12、千葉妙興寺
13、滋賀妙孝寺
14、東京個人蔵
15、大阪久本寺
16、大阪個人蔵
17、東京善立寺
18、京都個人蔵
19、大阪妙徳寺
20、京都本圀寺
21、京都妙満寺
22、京都妙満寺
23、佐賀個人蔵
24、山梨妙法寺
25、静岡個人蔵
27、千葉長福寺
28、山梨遠光寺
29、千葉成就寺
30、千葉妙興寺
31、京都本圀寺
32、千葉長福寺




中尾堯氏の研究によれば、日蓮滅後に門流間で当時正統性を巡って遺文や曼荼羅の奪い合いが起こっていたとされますが、『下山御消息』のこの遺文の状態は、さながら門流間の奪い合いがあったかのような様子を彷彿とさせる気がします。
それが仮に私の単なる妄想に過ぎなかったとしても、少なくとも遺文の状態が各地に散在し、その大部分が失われている今日では、『下山御消息』の全体の内容について、軽々に全文を安易に信ずることは留保することが自然なことのように思えます。







現場での過去の創価学会への認識のズレ。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて現場の活動家さんから以下の興味深い報告がありました。



その方の支部では新入会に至った20代の若い男子部がいるのだそうです。
なかなか青年層の入会という事例は聞かれないので、すごいなぁなんて思ったのですが、結構事態は深刻でした。



20代・新入会の彼は最近改訂された小説『人間革命』を読んでいるのですが、過去の創価学会組織に関する認識でズレが出てきてしまい、組織幹部が対応に苦慮しているのです。



まず戸田会長の御書講義についてです。
戸田会長が当時はタバコやお酒を嗜みながら講義をしていたことは周知のことなのですが、これが現今の小説『人間革命』では削除・改変されており、幹部が「戸田会長はお酒を飲みながら御書講義をしていたんだよ」と教えても「そんなことは嘘だ」の一点張り。



加えて昔の創価学会が軍隊風の「部隊長」とか「参謀室長」等の名称であったことも、彼は信じようとせず、全てなかったことになっています。例えば現在の『人間革命』では「池田参謀室長」は「池田室長」とされています。



つまり今の小説『人間革命』しか読んだことがない若い世代は、戦後間も無くの頃から今と同じ組織名称で活動していたのだと"誤解"する若い世代が急増しているのです。
そして現場の幹部がその対応に苦慮しており、どうしたらよいかわからない現状が出てきてしまっています。



こういった状況により、男子部の幹部さえ新入会の若いメンバーの指導を忌避する人が増えているとのことです。
つまり古い版の『人間革命』と、現行版『人間革命』で記事に削除・訂正・改変があり、それにより世代によって創価学会に対する認識に齟齬が出てきてしまっているのです。



ここ今になって、『人間革命』の削除・改変が、結果として現場組織の指導の混乱を生んでいます。新入会メンバーはただでさえ少ないはずなのに、それらのメンバーで過去の創価学会のことを知ろうとするメンバーは意図的に避けられているという現状が見られてきました。







日蓮の真蹟について。


最終更新:2018年9月29日



いつもみなさん、ありがとうございます。




さて創価学会員の元活動家の読者の方から以下の質問を頂きました。
日蓮の真蹟遺文だけを読んでみたいのですが、どれだけありますか?」


これ、結構、大変な作業です。
日蓮の遺文って大変な数があるんです。


いちおう創価学会版の御書から真蹟遺文と曽存遺文を洗い出してみました。
さらに創価学会版に掲載されていない真蹟遺文について調べてみると、これが非常に多岐にわたり、大変に申し訳ないのですが、全てを網羅することができませんでした。正直わからないものがたくさんあります。
つまり創価学会版御書に未掲載の日蓮真蹟遺文があまりに多数存在するということであり、そのことに改めて気づかされました。ご質問を頂き、返って勉強させて頂けたことに感謝申し上げます。ありがとうございました。
以下に真蹟遺文、及び曽存遺文を最初に創価学会版御書から示し、続いて創価版には未掲載の遺文を列挙させていただきます。


なお断簡、要文については数文字分、また数行しか現存しないものも多く、その多くについては割愛せざるを得なかったこともご了承ください。
なおこの記事は随時更新し、加筆訂正を今後していくつもりです。




創価学会版御書掲載分の真蹟遺文、曽存遺文


『安国論御勘由来』(『法鑑房御書』)中山法華経寺
『安国論別状』中山法華経寺
守護国家論』身延曽存
『災難対治抄』中山法華経寺
『法華浄土問答抄』(讃岐本門寺曽存?)京都妙覚寺、京都本圀寺、大分親蓮寺、石川妙成寺、三重仏眼寺
真言諸宗違目』中山法華経寺
『八宗違目抄』京都妙顕寺
『問注得意抄』中山法華経寺
『行敏御返事』鷲津本興寺
『行敏訴状御会通』身延曽存
『強仁状御返事』京都妙顕寺
『開目抄』身延曽存
『撰時抄』玉沢妙法華寺
『報恩抄』断片:池上本門寺他、身延曽存
『法華取要抄』中山法華経寺
『四信五品抄』中山法華経寺
『下山御消息』断簡が京都本圀寺他、多数の寺に散在
『爾前二乗菩薩不作仏事』身延曽存
『顕謗法抄』身延曽存
『木絵二像開眼之事』身延・中山曽存
『顕仏未来記』身延曽存
『小乗大乗分別抄』断簡:小湊誕生寺
『諫暁八幡抄』身延曽存、富士大石寺
『小乗小仏要文』中山法華経寺
『日月之事』中山法華経寺
『和漢王代記』西山本門寺
『一代五時図』中山法華経寺
『一代五時図』中山法華経寺
『一代五時鶏図』西山本門寺
三論宗御書』富士大石寺
『十宗判名之事』大石寺曽存?
『五行御書』富士大石寺
『浄土九品之事』西山本門寺
『滝泉寺申状』中山法華経寺
『善無畏三蔵抄』断簡:京都妙覚寺
清澄寺大衆中』身延曽存
『聖密房御書』身延曽存
別当御房御返事』身延曽存
『新尼御前御返事』断簡:愛知長福寺、身延曽存
『大尼御前御返事』京都頂妙寺
『種種御振舞御書』身延曽存
『光日房御書』身延曽存(草案現存?)
『光日上人御返事』身延曽存
『光日尼御返事』小泉久遠寺
『法華(経)題目抄』断簡:京都本圀寺、京都妙覚寺、京都本満寺、静岡妙覚寺、静岡感應寺、茂原藻原寺、茨城久昌寺、石川真成寺、京都一道院、東京自得庵、平賀本土寺駿河三澤寺、韮山・江川家、神奈川・水野家等に散在。
『富木殿御消息』京都立本寺
『真間釈迦仏御供養遂状』中山曽存
『土木殿御返事』京都本満寺
『寺泊御書』中山法華経寺
『富木殿御返事』中山法華経寺
『土木殿御返事』中山法華経寺
『富木殿御書』安房鏡忍寺
『土木殿御返事』京都本圀寺
『法華行者逢難事』中山法華経寺
『富木殿御返事』中山法華経寺
『富木殿御書』中山法華経寺
『御衣並単衣御書』中山法華経寺
『聖人知三世事』中山法華経寺
『富木尼御前御返事』中山法華経寺
『忘持経事』中山法華経寺
『富木殿御返事』中山法華経寺
『道場神守護事』中山法華経寺 
『常忍抄』中山法華経寺
『始聞仏乗義』中山法華経寺
『可延定業御書』中山法華経寺
『富城殿御返事』平賀本土寺
『富木殿女房尼御前御書』小湊誕生寺
『諸経と法華経と難易の事』中山法華経寺
『治病大小権実違目』中山法華経寺
『金吾殿御返事』中山法華経寺
『転重軽受法門』中山法華経寺
『太田殿許御書』中山法華経寺
『太田殿女房御返事』中山法華経寺
『太田入道殿御返事』断簡:大分法心寺他
『乗明聖人御返事』中山法華経寺
『慈覚大師事』中山法華経寺
『曾谷入道殿御書』断簡:京都本圀寺
『曾谷入道殿許御書』中山法華経寺
『法蓮抄』断簡:京都本圀寺、身延曽存
『兄弟抄』池上本門寺
『兵衛志殿御返事』京都立本寺
『兵衛志殿御返事』京都妙覚寺
『兵衛志殿御書』池上本門寺
『兵衛志殿御返事』福井妙勧寺
『兵衛志殿御返事』京都立本寺他
『孝子御書』京都頂妙寺
『両人御中御書』京都妙顕寺
『大夫志殿御返事』断簡:京都妙覚寺
『兵衛志殿御返事』京都本圀寺
『兵衛志殿女房御返事』田中平兵衛蔵
四条金吾殿女房御返事』丹後妙円寺、京都恵光寺他?
王舎城事』身延曽存
『瑞相御書』身延曽存
四条金吾釈迦仏供養事』断簡:鎌倉妙本寺、身延曽存
四条金吾殿御返事』京都妙覚寺、身延曽存
四条金吾殿御返事』断簡:大分・下総散在
崇峻天皇御書』身延曽存
『陰徳陽報御書』京都妙顕寺
『中務三郎左衛門尉殿御返事』京都立本寺
四条金吾殿御返事』身延曽存
『日眼女造立釈迦仏供養事』身延曽存
『聖人御難事』中山法華経寺
四条金吾殿御返事』断簡:高知要法寺
『大学三郎殿御書』平賀本土寺
『大豆御書』身延曽存
『五人土籠御書』京都妙覚寺
『日妙聖人御書』断簡:静岡本成寺
『乙御前母御書』尼崎長遠寺
『辯殿御消息』甲府信立寺
『辯殿尼御前御書』中山法華経寺
『辯殿御消息』京都本能寺
『さじき女房御返事』断簡:多古妙光寺
『桟敷女房御返事』和歌山了法寺
『善無畏抄』断簡:鎌倉本覚寺
『日女御前御返事』断簡:京都本能寺他
『妙一尼御前御消息』中山法華経寺
『王日女殿御返事』断簡:京都妙覚寺
『御輿振御書』断簡:高知要法寺
『法門申さるべき様の事』中山法華経寺
『十章抄』中山法華経寺
『諸人御返事』平賀本土寺
『さだしげ殿御返事』京都頂妙寺曽存
『霖雨御書』京都妙満寺
『玄性房御返事』京都妙蓮寺
『智妙房御返事』中山法華経寺
『武蔵殿御消息』身延曽存
『檀越房御返事』中山法華経寺
『法衣書』中山法華経寺
『釈迦御所領御書』京都妙蓮寺
『南無御書』京都妙蓮寺
『題目功徳御書』京都本隆寺
『大悪大善御書』堺妙国寺曽存
『来臨曇華御書』堺妙国寺
『常楽我浄御書』京都妙顕寺
『帰伏正法御書』京都本禅寺
『現世無間御書』京都本能寺
『衣食御書』京都妙蓮寺
『釈迦如来御書』京都本圀寺
『破信堕悪御書』京都本圀寺
『千日尼御前御返事』佐渡妙宣寺
『千日尼御返事』佐渡妙宣寺
国府入道殿御返事』愛知妙勝寺
国府尼御前御書』佐渡妙宣寺
『一谷入道御書』断簡:茂原鷲山寺、京都本圀寺
『是日尼御書』京都本満寺
『祈禱抄』身延曽存
『地引御書』身延曽存
『波木井殿御報』身延曽存・日興代筆
『松野殿御消息』断簡:京都妙覚寺
『松野殿御返事』断簡:京都本能寺
『松野殿女房御返事』断簡:福井本勝寺
『松野尼御前御返事』金沢本因寺
『妙法尼御前御返事』池上本門寺、千葉福正寺
盂蘭盆御書』京都妙覚寺
『新田殿御書』富士大石寺曽存
『石本日仲聖人御返事』富士大石寺曽存
『高橋入道殿御返事』富士大石寺西山本門寺
『減劫御書』富士大石寺
『三三蔵祈雨事』富士大石寺
『宝軽法重事』富士大石寺
『西山殿御返事』身延曽存
『窪尼御前御返事』保田妙本寺
『妙心尼御前御返事』身延曽存
『窪尼御前御返事』断簡:山梨妙了寺
『十字御書』富士大石寺
『南条兵衛七郎殿御書』断簡:京都本隆寺
『薬王品得意抄』保田妙本寺、個人蔵、長崎本経寺、埼玉妙顕寺
『上野殿御返事』水戸久昌寺
『春の祝御書』富士大石寺
『上野殿御返事』富士大石寺、京都要法寺
『上野殿母尼御前御返事』熊本本妙寺
『神国王御書』京都妙顕寺
『南条殿御返事』富士大石寺
『上野殿御返事』断簡:富士大石寺
『南条殿御返事』富士大石寺
『庵室修復書』身延曽存
『種種物御消息』断簡:岩本実相寺
『九郎太郎殿御返事』身延久遠寺
『上野殿御返事』京都本法寺
『上野殿御返事』富士大石寺
『上野殿御返事』富士大石寺
『上野殿御返事』断簡:京都本圀寺
『上野殿御返事』富士大石寺
『南条殿御返事』富士大石寺
『上野殿御書』京都妙伝寺
『上野殿御書』富士大石寺
『上野殿母御前御返事』断簡:小泉久遠寺北山本門寺
『南条殿御返事』京都本満寺
『上野尼御前御返事』富士大石寺
『上野尼御前御返事』断簡:京都本禅寺
『上野殿母御前御返事』富士大石寺
『法華証明抄』西山本門寺
莚三枚御書』富士大石寺
『芋一駄御書』富士大石寺
『閻浮提中御書』富士大石寺
衆生心身御書』富士大石寺
『白米一俵御書』富士大石寺
『食物三徳御書』富士大石寺
『一定証伏御書』富士大石寺
『初穂御書』富士大石寺
『五大の許御書』富士大石寺
『一大事御書』東京常泉寺曽存



創価学会版御書に未収録の真蹟遺文


『注法華経』玉沢妙法華寺
立正安国論広本』京都本圀寺
『華厳法相三論天台真言元祖事』中山法華経寺
『五輪九字明秘密義釈』中山法華経寺
『授決円多羅義集唐決』神奈川金沢文庫
『恒河七集衆生事』中山法華経寺
『内記左近入道殿御返事』堺妙国寺、東京本行寺
『顕戒論縁起巻上』中山法華経寺
『四教畧名目』中山法華経寺
『三八教』京都妙顕寺
『下方地方旧住菩薩事』中山法華経寺
『秀句十勝抄』中山法華経寺
『不動愛染感見記』保田妙本寺
『戒之事』静岡本覚寺
『六因四縁事』広島常国寺
『災難興起由来』広島常国寺
『一代五時図』千葉弘法寺
『一代五時図』京都本圀寺
『一代五時鶏図』京都妙覚寺
『五十二位図』京都本法寺
『像法決疑経要文』広島常国寺
『論談敵対御書』山梨本遠寺
『宿屋入道再御状』京都本圀寺
『止観第五之事御消息』熊本本妙寺
『故西明寺入道見参御書』石川妙成寺
『尊霊御菩提御書』京都頂妙寺
『正当此時御書』京都妙覚寺
『仏説御書』静岡妙法寺、神奈川海源寺、静岡耀海寺、京都満願寺、静岡蓮永寺
『不可親近謗法抄』中山法華経寺
『双紙要文』中山法華経寺
『天台肝要文』中山法華経寺(裏面が「日蓮紙背文書」として知られる47枚)
『尼殿御書』中山法華経寺
『期霊山浄土御書』中山法華経寺
『合戦在前御書』静岡本覚寺
『曽谷入道許御書』草案断簡1、広島妙成寺
『曽谷入道許御書』草案断簡2、稲田海素蔵
『曽谷入道許御書』草案断簡3、京都本隆寺、山梨妙了寺、三重顕本寺
『中興政所女房御返事』稲田海素蔵
『覚性房御返事』京都妙蓮寺
『覚性房御返事』千葉随喜文庫
『直垂御書』京都本満寺
『筍御書』京都妙覚寺
『鼠入鹿事』京都立本寺
『鵞目御消息』中山法華経寺
『老病御書』中山法華経寺
『十喩御書』大阪太田秀葉蔵
『四意趣四悉檀図』西山本門寺
『三車四車図』新潟本成寺
『禅門見参御書』京都寂光寺
伯耆殿并諸人御中御書』和歌山了法寺
『故阿仏房讃歎御書』新潟本成寺
『念仏者臨終現悪相御書』西山本門寺
『善無畏抄』大阪妙光寺、京都妙顕寺、京都本満寺、神奈川本覚寺、福井本妙寺
『即身成仏図』中山法華経寺
『善議等謝差勅使表等要文』京都頂妙寺
『蓮花三本給候御返事』京都妙蓮寺
『かわい殿御返事』東京孔泰容蔵
『安州出雲尼御前御返事』静岡片山日幹蔵
『越後公御房御返事』福井本妙寺
『御所御返事』東京兜木正亨蔵
『南条殿御返事』東京師子王文庫
『本門大法御書』小湊誕生寺、和歌山了法寺
『王日殿御返事』京都妙覚寺
『御衣布給候御返事』京都本法寺
『某殿御返事』(白木御消息)京都遠藤佳子蔵
『大風御書』京都本禅寺
『未驚天聴御書』京都本圀寺
『横縦一念三千元始要終』中山法華経寺
『夢想御書』中山法華経寺(紙背)
『破禅要文』中山法華経寺
『法華玄義要文』東京法明寺
『法華玄義要文』京都妙覚寺
『法華玄義等要文』小湊誕生寺
『法華玄義等要文』京都本圀寺
『法華玄義等要文』新潟本成寺
『法華玄義巻七上要文』静岡片山日幹蔵
『法華文句要文』広島関根龍雄蔵
『法華文句要文』静岡妙本寺
『法華文句要文』福井経王寺
『法華文句要文』京都妙覚寺
『法華文句要文』京都立本寺
『法華文句要文』東京立行寺
『法華文句要文』新潟本成寺
『法華文句等要文』京都要法寺
『法華文句等要文』京都妙覚寺
『法華文句等・輔正記等要文』福井平等会寺
『法華文句要文断簡』(人語八万諸天)東京自得庵蔵
『法華文句記要文』京都本満寺
『法華文句記要文』京都妙伝寺
『文句記等要文』京都妙覚寺
『法華秀句要文』東京法明寺
『摩訶止観要文』大阪一乗寺
『摩訶止観要文』滋賀妙経寺
『玄義釈籤要文』中山法華経寺
『譬喩品要文』千葉安興寺
『円頓止観要文』東京妙法寺
『教時義等要文』小湊誕生寺
『一行要文』東京妙法寺
『文句七要文』東京妙法寺
『守護国界章要文』身延山久遠寺
『守護国界章要文』岡山大尊会蔵
『守護国界章要文』福井平等会寺
『守護国界章要文』千葉福正寺、山梨本遠寺、京都妙伝寺、鳥取北尾日代氏蔵
『守護国界章等要文』京都妙顕寺
『涅槃経如来性品第四之四要文』静岡片山日幹蔵
『止観弘決巻一之四要文』静岡片山日幹蔵
『涅槃経要文』東京笹間繁蔵
『涅槃経要文』滋賀妙立寺
『涅槃経要文』大阪妙国寺
『涅槃経疏要文』大阪成就寺
仁王般若経要文』広島常国寺
華厳経始成正覚要文』中山法華経寺
『一乗要決要文』愛知浅井氏蔵
無量義経要文』千葉藻原寺
『譬喩品要文』千葉本寿寺
『法師品要文』香川本妙寺
『勧持品要文』新潟妙行寺
『寿量品要文』山梨立正寺
『五百弟子品要文』京都要法寺
『神力品要文』京都妙顕寺
『涅槃経疏要文』中山法華経寺
『三部経肝心要文』池上本門寺
『秘書要文』中山法華経寺
『浄土宗要決巻中』中山法華経寺
『摩訶止観要文』京都本圀寺
『摩訶止観等要文』中山法華経寺
『止観弘決要文』静岡妙海寺
『宋高僧伝要文』西山本門寺
『宋高僧伝要文』大阪妙国寺
『続高僧伝要文』東京長元寺
『続高僧伝要文』京都本法寺
『続高僧伝要文』東京本妙寺
『五百問論要文』京都本圀寺
維摩経要文』山梨長遠寺
維摩経要文』大分常妙寺
『註法華本迹十不二門要文』京都本圀寺
『三大部補注要文』千葉弘法寺
『三大部補注要文』大阪妙国寺
『教時義要文』京都本法寺
扶桑略記要文』京都妙顕寺
扶桑略記要文』岐阜覚林寺
『捜神記要文』京都妙覚寺
『依憑天台集要文』熊本本妙寺、静岡妙海寺、静岡妙慶寺
『依憑天台集要文』京都妙覚寺
大日経要文』京都妙伝寺
大日経要文』静岡法雲寺
大日経疏要文』京都本圀寺
無量寿経要文』静岡本覚寺
『大集経要文』新潟本成寺
『大集経護法品要文』神奈川妙本寺
『大唐慈恩寺三蔵伝要文』東京本満寺
『付法蔵因縁伝要文』京都妙覚寺
『吉藏法師請講法華経疏要文』千葉妙覚寺
天台法華宗伝法偈要文』熊本本妙寺
『十如是義私記要文』静岡妙恩寺
断簡「御本尊授与書・日蓮聖人添書」埼玉妙顕寺
断簡「於教主釈尊又多之諸小乗経」神奈川妙本寺
断簡「よるひるなげき申せし」神奈川妙本寺
断簡「守護の御ちかいありしか〜安徳天皇」神奈川妙本寺
断簡「〜護の御ちかいをやぶれをハり候ぬ」東京妙法寺
断簡「あるべからずの御ちかいとたにも候わハ」宮崎定善寺
断簡「天台伝教大師」小湊誕生寺
断簡「徳安大師智顗」京都本圀寺
貼合4行断簡「仁王経云」大分本光寺
断簡「日蓮記一云依少乗毘尼五ケ之五百歳」千葉茂原寺
断簡「進上  冨木入道殿  日蓮」東京覚林寺
断簡「乃か奈日蓮生て◯奈れハ〜」京都妙覚寺
断簡「南無律宗禅宗と申毛は〜」京都妙覚寺
断簡「父と母と子と王と左右大臣」野呂妙興寺
断簡「正像二千年過ぎて寸きて末法池上本門寺
断簡「殊興盛畢  日本國者死事既」野呂妙興寺
断簡「人毛おや乃心を多かへさせ給ぬ尓や」野呂妙興寺
断簡「と寸の古とし法花経の」千葉飯高寺
断簡「迦葉の仏尓◯る人奈里」千葉飯高寺
断簡「御宇応神御子大山皇子  大石山丸」平賀本土寺
断簡「皇帝御時天台真言始興云〜」東京妙法寺
断簡「〜此ハ又天台宗の末学寸か」東京妙法寺
断簡「〜て十六に奈里候し〜」東京妙法寺
断簡「國より西尓三千里を」千葉飯高寺
断簡「〜良観上人〜」神奈川本化妙宗連盟
断簡「〜の劣也師子の身の内の虫の師子を食〜」静岡妙法寺
断簡「ま寸と里と里尓」東京米倉氏蔵
断簡「尼仏、観音経、地蔵経等准」野呂妙興寺
断簡「いう道理必然奈里伝教大師」山梨妙了寺
断簡「つたなきかなや天台の学者等〜」京都本隆寺
断簡「南岳天台伝教の法華経付属の人にあらざるに」小泉久遠寺
断簡「こと正法の前五百年には」名古屋聖運寺
断簡「地涌千界上行等」山梨妙了寺
断簡「何経の文ぞや、南北十師の末学等〜自身邪見の申文なりとせめし」京都妙覚寺、千葉最福寺
断簡「又あししときくなり〜」所蔵不明
断簡「人の心地一同に動ゆえに」新潟妙経寺
断簡「なんだをながし」新潟妙経寺
断簡(判読不明)新潟妙経寺
断簡「経文に付くべし」静岡本興寺
断簡「釈尊已前に或は八百年」名古屋聖運寺
断簡「近(?)をもって遠を知るなら」静岡妙恩寺
断簡「一切衆生をたぼらかし〜」静岡蓮永寺
断簡「にくませ給〜」大分法心寺
断簡「人と申すに声聞供養の功徳は」横浜市菅田勘兵衛氏蔵
断簡「七、法花経と三大師、◯◯◯水火也」大阪成正寺
断簡「十六、知ようにかんがえてまいせよと」長崎本経寺
断簡「十羅刹掌合頂受是」千葉蓮福寺
断簡「如彼文鳩槃茶者」静岡実相寺
断簡「とかくべし阿弥陀経寸の例」京都頂妙寺
断簡「給へるは此は有人物語」京都本圀寺
断簡「かつはそしりかかつは帰信せんとし」千葉本寿寺
断簡「◯無妙法蓮華経と唱させ給はん女人は」東京本寿寺
断簡「経文なりたれか迷さるべき」小泉久遠寺
断簡「世間ををそれていつわりおろかなり」京都要法寺
断簡「劣て候経文に白々なり」京都妙法寺
断簡「そりやうゆへなくめしあけ」京都本禅寺
断簡「さゑもんどのの御返事」所蔵不明
断簡「ひさやいこめきひやいこめ」京都妙満寺
断簡「寸とう菩薩と申せ◯」愛知善立寺
断簡「西山殿御返事」千葉随喜文庫
断簡「東ひやうゑどのの御返事』京都田中平兵衛蔵
断簡「て経をよみ候しは八寒地獄の大苦も」佐賀勝妙寺
断簡「三説超過図」京都本圀寺
断簡「五戒図」京都妙覚寺
断簡「もめでたくて国の人」千葉関口安太郎蔵
断簡「功徳をさうる大悪をしる人候は」京都本能寺
断簡「しかも此の法花経にに已今当説」京都本光寺
断簡「行せは如意珠をもて累者の瓦礫と」京都妙覚寺
断簡「の肝要は弘通あるべからず」千葉本寿寺
断簡「末孫なりと師子の子は象の子に劣るそ」京都本圀寺
断簡「と申ば此こそ心えられ候はね頚を」京都本圀寺
断簡「六、何の経々ををろかなる事」池上本門寺
断簡「半座許れ僧とならひ閻浮第一の」岐阜実相寺
断簡「をてらす瓶舎王に勝こと千倍」西山本門寺
断簡「へなり例せは日本国には神武天皇より今に」所蔵不明
断簡「あらさるか将又過去の貧道偸盗の業」三重寿量寺
断簡「問云去正嘉大地震」京都恵光寺
断簡「十悪図」宮崎定禅寺
断簡「已今当説最為第一図」京都頂妙寺
断簡「不食人肉投身無用也」大阪妙国寺
断簡「三人なりと云云法花経の行者の世に出現する瑞相は」兵庫高光寺、高知要法寺
断簡「戯論にも法花経を我経々に相対して」西山本門寺
断簡「候へはなる心にておとろかれ候はねと」大阪成正寺
断簡「唐世、安楽集、道綽禅師云」石川妙成寺
断簡「法花経第四云薬王今告汝我所説諸経」大阪妙国寺
断簡「迹門、一根性融不融。二化導始終不始終」熊本本妙寺
断簡「四句惣摂一切経」不明
断簡「天台宗、華厳、阿含、方等、般若、法華」熊本本妙寺
断簡「等興盛之故重朝家給大法法華真言等」岡山妙国寺
断簡「豈此……而法花真言僧徒」京都本圀寺
断簡「去正嘉元年大地震此大瑞日本」京都本圀寺
断簡「と勘て正元二年庚申同文応元年なり」京都頂妙寺
断簡「正嘉元年八月廿三日戍亥剋絶」中山法華経寺
断簡「止観等大事要文之事」平賀本土寺
断簡「文に相違す序品云」千葉藻原寺
断簡「久遠大通の御時法花経をならいし」千葉藻原寺
断簡「行ありて学生ならさるは国の用なり」池上本門寺
断簡「十一年四月八日」京都妙覚寺
断簡「続高僧伝巻第十七」福井妙海寺
断簡「あるかことし法花経真言寸を行て即身の」京都本禅寺
断簡「国にいけとりにせらる」京都本禅寺
断簡「人をふみ経々の中をもに」京都妙覚寺
断簡「震、文永元年七月四日大彗星」京都本禅寺
断簡「大日経との梵本を御覧ありしか」京都本圀寺
断簡「何と申て候人も候よにやわらかけになり」千葉秋葉昌幸氏蔵
断簡「稲河入道殿御返事」京都国立博物館
断簡「末代不相応の者」京都本圀寺
断簡「五逆罪」大阪正法寺
断簡「八、抑是非につけて」滋賀本像寺
断簡「たりぬ阿難迦葉」千葉最福寺
断簡「に二言なしと申て人王となる人虚妄なしとあれば」京都本満寺
断簡「及ばざりければ仏云天勝童子の」京都要法寺
断簡「云子弘父法」静岡弘長寺
断簡「来ろはらに下軍兵」京都本法寺
断簡「かりしかとし又百二十なり」京都本法寺
断簡「雖有肉眼名為仏眼等」京都要法寺
断簡「法華経に生疑不信者則」京都本満寺
断簡「阿闍世未生怨太子をかたら」京都妙覚寺
断簡「如地倒還従而地」京都妙覚寺
断簡「広開三顕一」京都妙蓮寺
断簡「……なり此事をと」滋賀真常寺
断簡「十◯、ことし大蒙古国日本国を」滋賀蓮華寺
断簡「法華経并に一切経の心を知りたる人一人◯なし」京都本圀寺
断簡「……りも真言すくれたりとならわせ給」長崎本蓮寺
断簡「……て候とへん人の御心への多に」三重仏眼時
断簡「くすすめ給はさりけ」山梨立正寺
断簡「法花経の御かたきとなり」下条妙蓮寺
断簡「正直捨方便これなりと大龍と」北山本門寺
断簡「初発心の弟子にはあらず、雙林最後の弟子と見しほどに」福井妙国寺
断簡「或僧の追候の事」福井妙国寺
断簡「申須臾聞之即得丸丸」広島本立寺
断簡「……てこそ最澄大師にならせ給」大阪一乗寺
断簡「……候上はいかにも此は叶候へき」石川長久寺
断簡「日蓮注云自一法界至」京都本法寺
断簡「ゆへ奈か累へ」小湊誕生寺
断簡(法華文句要文断簡)「乃三乗サ十地義」小湊誕生寺
断簡(法華文句要文断簡)「地師云」小湊誕生寺
断簡「亘退不退無退出者〜」新潟本成寺








まだこれ以上にも漏れが多いかと思いますが、とりあえず確認できたものだけを暫定的に上にあげてみました。今後訂正や加筆をしていこうとは考えています。
創価学会版御書に未収録の真蹟遺文には、上記以外にも未収録のその他の断簡や要文が多数存在します。あまりに多数で、また断片的であるため、残りの断簡と要文については略させて頂きます。



通覧してわかることかと思いますが、多くの創価学会員も大石寺の信徒さんも、日蓮真蹟の全体像をきちんと把握していないと私は思います。これ以外にももちろん真蹟不存でも日興写本等の残る信憑性の高い遺文は存在します。



しかしながら、これらの真蹟遺文を真摯に虚心坦懐に読むことでしか、真に日蓮の実像に迫る方法は存在しないと私は思います。
  



追記:2018年1月2日
創価学会版御書全集で真蹟が「京都満願寺蔵」とされている『㫪麦御書』は、実際には古写本のみと考えられます。また『三沢抄』についても創価学会版では「京都妙覚寺蔵」とされていますが、現存していないようです。従いまして両抄とも上記の真蹟一覧からは除外しました。






















「バン」と「ウン」と「カーン」





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今日のテーマは、日蓮曼荼羅本尊に書き込んでいる梵字についてです。
以前もブログで書いたように、日蓮曼荼羅の右側に不動明王として「वं」(バン)を、左側に愛染明王としてहूं」(ウン)を書いています。


ところで、本来不動明王を書くなら梵字は「हां」(カーン)になるはずです。不動の種子を表す梵字は本来は「हां」カーンだからです。しかし日蓮曼荼羅を見る限り、右側の梵字は「カーン」には見えません。


もう一度整理して書くと以下のようになります。


वं」バン


हां」カーン

हूं」ウン



不動と愛染を左右に並べる曼荼羅様式は『三尊合行法』に見られる形で、14世紀に確立したものです。問題は日蓮が時代的に先駆けてこの曼荼羅の様式を取っている点と、日蓮がなぜか不動を描く際にカーンではなくバン字を使っていることです。


なぜ「バン」なのか、それが水大の徳を表現したものだという仮説は以前ブログでは書きました。

梵字『バン』について」


しかしながら、なぜ不動が「バン」なのかは、まだわからないままです。
この辺がわかる方がいたらぜひご教示を頂きたいと思っています。












信心の血脈のルーツ。





いつもみなさん、ありがとうございます。


今回のテーマは創価学会員さんがよく使われる「信心の血脈」という言葉です。



大石寺の信徒さんは、創価学会を批判される際に「信心の血脈とは何事だ」と批判されます(笑)。要するに大石寺さんからすれば「法主に代々に伝わる法水」の血脈が大切ということで、それへの信を違えてはならないということなのでしょう。



ところで、創価学会が「信心の血脈」という時にそのルーツはどこにあるのかと言えば、それも実は大石寺なんです(笑)。
元々は大石寺9世日有にそのルーツを見ることができます。
例えば堀日亨が註解を記した『有師化儀抄註解』を見てみましょう。


「信心と血脈と法水は要するに同じ事になるなり、信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、其法水の本仏より信者に通ふ有様は・人体に血液の循環する如きものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云ふが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにあらず・撹乱すべきものにあらず、若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし、爰に強いて絶えずと云はば其は濁りたる乱れたる血脈法水なれば・猶仏法断絶なり、信心の動かざる所には・幾世を経とも正しき血脈系統を有し仏法の血液活発に運行す」
(富士宗学要集1-176ページ)



以前にもこのテーマについては記事を書いています。例えば以下の記事です。


「『信心の血脈』のこと」


この日顕氏の説法にも見られるように、本来「信心の血脈」というのは大石寺でも散々言われてきたことなのです。法華講さんなら実感されると思いますが、大石寺ほど信徒さんに「絶対の信」を強調する団体ってなかなかありませんよね(笑)。まあ、要するに疑われるといろいろ教団のボロが出るので、あまり疑ってくれるなってことかと勘ぐってしまうんですけどね(笑)。


ですから大石寺法華講さんが、創価学会員さんの言う「信心の血脈」を否定するなら、それは元々は大石寺さんが昔から言われていたことなんですよってことなのです。