いつもみなさん、ありがとうございます。
今回のテーマは創価学会員さんがよく使われる「信心の血脈」という言葉です。
大石寺の信徒さんは、創価学会を批判される際に「信心の血脈とは何事だ」と批判されます(笑)。要するに大石寺さんからすれば「法主に代々に伝わる法水」の血脈が大切ということで、それへの信を違えてはならないということなのでしょう。
元々は大石寺9世日有にそのルーツを見ることができます。
例えば堀日亨が註解を記した『有師化儀抄註解』を見てみましょう。
「信心と血脈と法水は要するに同じ事になるなり、信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、其法水の本仏より信者に通ふ有様は・人体に血液の循環する如きものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云ふが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにあらず・撹乱すべきものにあらず、若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし、爰に強いて絶えずと云はば其は濁りたる乱れたる血脈法水なれば・猶仏法断絶なり、信心の動かざる所には・幾世を経とも正しき血脈系統を有し仏法の血液活発に運行す」
(富士宗学要集1-176ページ)
以前にもこのテーマについては記事を書いています。例えば以下の記事です。
「『信心の血脈』のこと」
この日顕氏の説法にも見られるように、本来「信心の血脈」というのは大石寺でも散々言われてきたことなのです。法華講さんなら実感されると思いますが、大石寺ほど信徒さんに「絶対の信」を強調する団体ってなかなかありませんよね(笑)。まあ、要するに疑われるといろいろ教団のボロが出るので、あまり疑ってくれるなってことかと勘ぐってしまうんですけどね(笑)。