日蓮系教団に伝わる遺文や典籍を見ると、全体として分散的でなく一部の限られた寺院に集中して保管されているという特徴があります。
その代表的な寺院が中山法華経寺です。
彼は下総国の守護を勤める千葉介頼胤の被官であり、典籍や文書の保存管理の知識を持っていたと言われています。中尾尭氏の研究によれば、鎌倉時代から南北朝時代にかけて東国では寺院に限らず武家社会において文書の管理体制が思いの外よく整っていたようです。つまり鎌倉幕府の行政そのものが文書というものを重要視しており、文書の保管ということは武家社会自体の要請であったと考えられます。
つまりここから判断すると、富木常忍のところに『立正安国論』の写本の一本があずけてあったということです。法難もあり、大切な文書が失われてしまうことを回避するために日蓮は写本を富木氏のもとで保管していたわけですね。
中山日常は日蓮真蹟の文書保管とその護持を寺の中心的な任務と考えていまして、永仁7年(1298年)には『日常置文』と『常修院本尊聖教事』を残して84歳で亡くなっています。
当然のことながら、文書の管理体制に関しては日常が亡くなる前に急ごしらえでできたものではなく、実際には当時すでに管理運営されていて、それらを彼が亡くなる前に恒久的な体制として成文化したという判断が正しい理解かと考えられます。
『日常置文』を見ると、遺文の厳格な管理保存を続けていた様子がわかります。
相伝書の類いは真蹟が全く存在しない。伝えられる写本はほとんどが他山のもので、文書をまともに保管してきたという形跡すら疑われるほどです。
私は現在の中山法華経寺の宗義に別に共感しているわけでもありません。しかしながら富士大石寺に何か特別で大切な相伝書が伝わっているとするなら、当然日蓮自身が文書の保管について腐心したであろうことは容易に推察できます。
参考文献: