気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

若い方たちへ。





いつもお読みいただき、ありがとうございます。
私のこのブログをお読み頂いているのは結構上の世代の方かと思いきや、創価学会大石寺の実情や歴史を知りたいと考える若い世代の方にも多くお読み頂いています。
本当に感謝します。ありがとうございます。



私は恥ずかしながら、若い頃は原理主義的な創価学会信徒でした。バリバリの活動家でした。ですから間違いをたくさん犯してきました。
でもそれらは信じた自分の責任です。


このブログをお読み頂いている若い方に伝えたいことを書いてみます。


第一に、罪を他者のせいにして「騙された」と教団を批判するだけの人間にならないでほしいという点です。
若い世代の信徒さんの多くは二世、三世の方でしょう。もちろん何も分別がつかない赤ん坊の年頃で創価学会に入会させられたという人も多いと思います。
しかしそれを選び取って、信仰を続けるのは自身の責任です。教団を非難して「騙された」と罵詈雑言の限りを尽くすのも勝手ですが、それでは所詮、相手を非難して下に見るだけの一部の傲慢不遜な学会幹部や大石寺法華講さんとなんら変わらないと私は思います。


第二にどこまでも自由に思索して頂きたいという点です。
先入観に囚われてしまうのは、人間なら誰しもそうです。私もかつての創価学会思想を克服することに苦労しましたし、「池田先生」という幻想を否定することに痛みを覚えました。
若い方は先入観もさしてなく、私のような世代のものよりはるかに自由に物事を見ることができると思います。


第三に真摯に学ぶ人であってほしいです。
私は学生時代に池田氏より「勉強して強くなりなさい」と指導されました。その通りに頑張ってみました。できたかどうかはあまり自信がありません。
若い人たちの方がたくさん可能性があります。いずれ創価学会の地方組織は団塊世代後期高齢者を迎えるにつれ、事実上の崩壊を迎えます。その時に過去にすがらず、教団に頼らず、自身で思索できる一人一人になってほしいです。
創価学会は若い世代をたくさん犠牲にしてきました。たくさんの不幸な人も作りました。組織に従属させ、時間とお金を奪い、組織の論理でしか物事を見ることができない一面的な思想人を大量生産してきました。
私もまた活動家時代にその一端に加担したことを認めます。その罪深さには戦慄を覚えるほどです。
若い方たちはそうであってはならない。私のような苦しみは私の代で終わらせたいです。


私は母と父とともに信仰活動に励んできました。けれど母と父にこのブログで書いているような真実の全てを伝えることはできませんでした。ただ少しだけ、母と父には創価学会の欺瞞性を晩年に伝えることはできました。財務をやめさせたり、活動から身を引かせることもできました。でも自分の言いたいことを全て伝えられたわけではありません。
母も父も私は亡くしました。そのことを私は今も悲しんでいます。
もっと何か私にできたことかあったかもしれないと私は今も後悔し、自問しています。



これ以上、そのように組織に苦しむ人間を見たくありません。
組織に縛られる人間も必要ありません。
教義に縛られてしまうのは、教義について深く知ることがなく、教団自体が学ぶことを軽視しているからです。
若い人たちにはそうであってほしくないです。
強い一人一人になってもらいたいです。


私がこのブログで書いていることなど、学問的に大したことではありません。文献や論文を読み、その理解したことを考えただけの二番煎じみたいなものです。私を「学者馬鹿」と呼ぶ人もいますが、私は「学者」ですらありません。
学んだ人は語ることができます。誰かを守ることもできるでしょう。
どうか若い方たちが、創価学会という過去の遺物を乗り越えて、私なども気にせずに自由に思索してくださることを期待しています。
私に「会って話を聞きたい」という方も多く、お会いさせて頂いていることに感謝しています。ありがとうございます。

自分自身が若い方たちに何かできることがあるなら、積極的にどんどん動いて会って話をしていきたいです。
みなさん、ありがとうございます。私は若い方たちにも恵まれてとても幸せです。








『御義口伝』の信憑性の低さ。




いつもみなさん、ありがとうございます。




さて先日の記事で、『御義口伝』に引用されている『科註妙法蓮華経』が1295年、日蓮滅後13年の刊行であり、これにより『御義口伝』は日蓮講述の述作とは言えず、偽書の疑い、また後世に創作された部分が多く存在する可能性が高いことを書きました。昨日のブログでも引用しましたが、再掲します。


大石寺写本『御義口伝』の改竄」


ところで、徐行善編による『科註妙法蓮華経』は1295年刊行とされていますが、日本に伝わって来たのは更に後代となることが推察されます。


朴鎔辰の『元代『科註妙法蓮華経』の刊行と流通』(印度学仏教学研究第64巻第2号、平成28年3月)によれば、『科註』が高麗に伝わったのは1317年になります。その後、15世紀の朝鮮初期にも刊行されていることがわかります。
さらに龍谷大学に蔵されている元刊本の『科註』原本では巻2の巻末に朱書で「寛正二年三月二七日」の日付が確認できることがわかります。したがってこのことにより、三井寺の清尊が『科註妙法蓮華経』を寛正2年、すなわち1461年に見ていることがわかります。1461年ということは日蓮滅後179年であり、日興滅後で考えても日興滅後128年のことになります。


朴鎔辰氏の論考を見ると、これ以外の日本における刊行本では、主に慶長16年(1611年)から元禄4年(1691年)までの17世紀に集中的に木版本が刊行され活用されていたことが判明しています。


大石寺の『御義口伝』写本は元亀2年(1571年)のものであり、最古の写本は天文8年(1539年)八品派・日隆門流の写本になりますが、それでもなお日蓮滅後200年以上が経過しています。



つまり『御義口伝』は後世の創作による偽書の可能性が高く、仮に口伝として伝わっていたと仮定しても後世の加筆等の可能性も拭い切れず、日蓮口述の作とは厳密には言い得ないことがここからもよくわかるかと思います。


内容から判断しても、真蹟遺文中には全く見出されない「無作三身」の用例が見られ、到底日蓮自身の思想を伝える著作とは言えないことは明らかであります。日蓮真蹟遺文中に「無作三身」の用例は一箇所もありません。






参考文献:
朴鎔辰『元代『科註妙法蓮華経』の刊行と流通』印度学仏教学研究第64巻第2号、平成28年3月。

どんな信仰も自由。





いつもみなさん、ありがとうございます。




ブログのアクセス数も毎日数千件のアクセス数を頂き、たくさんの応援メッセージ、本当にありがとうございます!
ツイッターアカウントも本年4月に開設したばかりなのに、わずか半年で1,800人を越えるフォロワーさんからフォローを頂きました! 我ながら驚いています。感謝しています!



さて私は自分の信仰をあまりここでは具体的に語りません。
で、思うことなんですけど、私は自分の今の信仰が大乗仏教の亜流だという意識がありますが、一部の方はそう思われないようです。
でもそれはそれで構わないのではないでしょうか。私は「気楽非活さんがやっていることは仏教ではない」と批判されても構わないと思いますし、それらの批判は真摯に甘受したいと考えています。


私は真摯に自分の信仰を求める人なのであれば、どんな信仰も軽視はしません。私が大石寺創価学会を批判するのは、それが所詮他者を「邪宗」と決めつけ、自分のように考えない思想を排除する考え方に満ちているからに他なりません。


私は仏教以外の信仰も尊重したいと思いますし、どんな信仰も「自分よりも下の教えだ」とは考えません。阿含経華厳経も素晴らしい経典です。法華経の批判もしていますが、私は法華経の価値も認めているつもりです。
どの経典が優れて、どの経典が邪経であるという考え方に私が基づかないだけのことなのです。


思想は何をどう考えても自由です。
ですから私は実際書かれてあること、そして実際の史実を根本にして、そこから立論して自身の信仰を求めていきたいと考えているだけです。その中で偽書と呼ばれるものは排除するだけですし、あくまで書かれていること、残っていること、具体的な"事実"に基づいて信仰を求めていこうと思っています。


日蓮滅後13年に編集された『科註妙法蓮華経』が日蓮説として引用されている『御義口伝』は後世に創作された部分が強く、真蹟として手放しで評価することはできないでしょう。


創価学会大石寺の信徒の方は、史実に基づかない偽書で教義を構成してきてしまっているので、今さら冷静に考えることが多くはできなくなっているのだと私は思います。


承久の乱について。






いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今回は「承久の乱」について、日蓮がこの歴史的事件をどのように捉えていたのかということです。実はこのことが日蓮の仏教観に大きな影響を与えていると私は考えています。



結論から言ってしまうならば、日蓮自身の仏教に関する一つの疑問は、日蓮が生まれる一年前の出来事「承久の乱」についてなのです。



そもそも「承久の乱」とは何か。
承久3年(1221年)5月、後鳥羽上皇が二代執権北条義時を朝敵と宣言。挙兵して倒幕しようとしました。義時の姉である北条政子は動揺する御家人たちに頼朝の恩顧を訴え、返って御家人たちの団結を深め、結果として幕府軍が京都の上皇方の軍を打ち破ることになります。


後鳥羽上皇は敗北したことで隠岐へ、順徳天皇後鳥羽上皇の第3皇子)は佐渡に流されます。土御門天皇後鳥羽上皇の第1皇子)は関与していなかったので無罪だったのですが、自ら土佐に赴きます。後鳥羽上皇方に属した武士たちは多くが死罪となり、荘園を没収の上、六波羅探題を設けて、京都の朝廷を監視することになります。


ところで日蓮は『神国王御書』で、承久の乱において後鳥羽上皇らが流罪にあったのは何故なのか、そのことに疑問を抱いているのです。


「されば神武天皇より已来百王にいたるまでは・いかなる事有りとも玉体はつつがあるべからず・王位を傾くる者も有るべからず、一生補処の菩薩は中夭なし・聖人は横死せずと申す、いかにとして彼れ彼の四王は王位ををいをとされ国をうばはるるのみならず・命を海にすて身を島島に入れ給いけるやらむ、天照大神は玉体に入りかわり給はざりけるか・八幡大菩薩の百王の誓は・いかにとなりぬるぞ」
創価学会版御書全集1519〜1520ページ)


日蓮の疑問は「天皇がなぜ負けたのか」「仏の加護はなぜ起こらなかったのか」「仏教による護国の力はどうしたのか」という点にあります。


『祈祷抄』によりますと、上皇方は挙兵に際して比叡山等の座主らに調伏の戦勝祈祷をさせています。『祈祷抄』にはこの時の戦勝祈祷の十五壇法と秘法を行った41名の行者の名前が記録されています。


真言見聞』には以下のように記されています。


「承久の兵乱の時・関東には其の用意もなし国主として調伏を企て四十一人の貴僧に仰せて十五壇の秘法を行はる、其の中に守護経の法を紫宸殿にして御室始めて行わる七日に満ぜし日・京方負け畢んぬ亡国の現証に非ずや」
(同142ページ)


日蓮にとって「承久の乱」は、日蓮自身の仏教観を変えてしまう出来事でもありました。
日蓮自身は天皇を尊崇していました。天皇の敗退は、日蓮にあっては天皇を勝利に導かなかった仏教諸派への批判へと転じたのです。


日蓮の仏教観は「国家が正しい仏教を信奉するなら、国家は平和になる」というものです。日蓮の問題意識は徹頭徹尾、国家と国家の持つ仏教の問題にあります。日蓮には民衆仏教という側面は存在しません。


日蓮は「承久の乱」において自身が尊崇する天皇が守られないという事態に疑問を抱きました。そして天皇が敗退したことに関して、既成宗派の仏教に疑問を抱くことになります。日蓮の他宗批判の意識はそこから出発しているのだと思います。












創価学会の創立はいつか?






いつもみなさん、ありがとうございます。日に日に多くの方に当ブログをご覧いただき、本当に感謝しています。激励やご質問のメールもたくさん頂いています! 全てになかなか返信ができておらず、申し訳ありません。全て内容は目を通させて頂いています。



さて今回は「創価学会の創立はいつなのか」ということです。


公式に創価学会の創立は昭和5年(1930年)11月18日とされていますが、この日は正確に言うと牧口常三郎氏の『創価教育学体系』第1巻が発刊された日であって、創価教育学会が発足した日とは正確には言えません。


では創価学会の前身である創価教育学会はいつ発足したのでしょう?

まず牧口常三郎戸田城聖大石寺への入信は昭和3年(1928年)のことです。この時、大石講の幹部であった三谷素啓の話に触れ、共感した彼は入信をします。ほぼ同じ時期に戸田城聖も牧口からの誘いを受け、"日蓮正宗"大石寺に入信することになります。


昭和7年(1932年)7月、牧口常三郎法華講の副講頭に就任しています。
ですからこの時の牧口の活動はあくまで法華講としての活動なのであり、まだ創価教育学会の内実があったとは考えられません。
ちなみにこの後、牧口は直達講講頭の三谷素啓と流儀上、相容れない関係となり、激論を交わした末に絶縁することになります。


その後、牧口と戸田が独自に宗教活動を始めるのは、翌昭和8年(1933年)7月のことで、新潟県荒浜で友人たちを勧誘。
堀米泰栄(後の堀米日淳)の中野教会所(後の昭倫寺)所属となった牧口と戸田は、8月の御講で堀米氏に指南を仰ぐことになります。
この時、牧口は在家団体・創価学会の設立を願い出ますが、堀米氏はこれを許可しませんでした。
昭和8年より時習学館にて月に一度の堀米泰栄氏の法華経講義を開催します。


昭和10年(1935年)1月、牧口は「教育宗教革命正法研究会」の「折伏座談会」を東京・神田の教育会館で開催しています。
なおこの年の2月に戸田城聖は松尾幾子と再婚し、白金台に新居を構えています。


昭和11年(1936年)1月19日、富士宗学要集講習会の終了後に牧口主催による創価教育学会の座談会を開催。この会には堀日亨も参加しています。同年4月30日には教育者による創価教育学会春季総会が開催され、機関紙『新教』を発刊します(同紙は同年7月号より『教育改造』に改題)。


昭和12年(1937年)1月27日には懇談会の後、創価教育学会の会員名簿が作成され、約100名が名前を連ねたとされます。
直達講の幹部の竹尾清澄が堀日亨から聞いた話によりますと「本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は、ここで日蓮正宗と縁が切れ」、牧口と戸田は在家団体・創価学会の設立許可が貰えないことに反発。堀米日淳に対して批判を行います。この時にすでに大石寺とは一時絶縁状態にあったようです。
堀米日淳はこの時に、牧口が信仰に再起することを考え、元の常在寺を所属として戻れるように手配したとされています。


そして事実上の創価教育学会の最初の総会が行われたのは昭和14年(1939年)12月であり、麻布の料亭「菊水亭」にて創価教育学会第1回総会が行われました。参加者は約50名と言われています。



さてここまで史実を辿ってきましたが、創価学会の設立がどこにあるかというのは非常に難しいと感じます。
いくつか論点をまとめてみます。


1、現在の創価学会が公式に認める創立記念日昭和5年(1930年)11月18日だが、この時には創価教育学会組織が存在したわけではない。

2、牧口は昭和7年(1932年)7月に法華講直達講の副講頭に就任しているので、この時点で創価教育学会として牧口が活動していたとは言いがたい。

3、昭和8年(1933年)8月、牧口と戸田は堀米泰栄に創価教育学会設立の願出をしているが、堀米氏から拒否されている。

4、昭和11年(1936年)1月19日、富士宗学要集講習会の終了後、牧口は独自に創価教育学会の座談会を開催。これには堀日亨が参加している。

5、実質的な創価教育学会の最初の総会は昭和14年(1939年)12月、麻布の料亭・菊水亭で行われた。この日が実質的な会の創立であると考えられる。



もう一度きちんと創価学会は創立の時期を見直した方がよいのかもしれませんね。







陽明学の発想。

いつもみなさん、ありがとうございます。





さて私は以前の記事で日蓮思想に儒教の影響があることを指摘しました。
また池田大作氏の「親孝行」という発想も多分に儒教的な考え方であることも書いています。





「『立正安国論』の儒教的な発想」

儒教における孝養」

「池田哲学とは何か」



ところで、儒教には簡単に言うと陽明学朱子学があります。


わかりやすく書いてしまうと朱子学は「大義名分をあれこれ議論する」考え方です。
例えば朝鮮半島で用いられたのは朱子学でしょう。あれこれ大義名分を議論するんですね。徳川幕府がとったのも朱子学です。


これに対して陽明学というのは「知行合一」と言って行動の学です。「知ったことは行わなければいけない」とするのが陽明学の考え方です。
例えば大塩平八郎陽明学です。陽明学の考え方から行けば「政府が悪いことをしている。だから政府を倒さなければならない」となります。武士が陽明学を学ぶと幕府に反抗する人が出てきます。だから徳川幕府朱子学だったのでしょう。つまり大義名分をあれこれ議論すればそれでよいと。幕府はそれなら安泰なわけです。


ですから幕末の多くの志士たちの発想は多分に陽明学です。外交官官邸の焼き討ち、生麦事件桜田門外の変等は陽明学の考え方によっています。「悪いものは倒す」と行動することが陽明学としては正しいのですから。
西郷隆盛陽明学的な発想です。


三島由紀夫はとても陽明学の発想が強いと思います。ここまで読んだ方はわかると思いますが、陽明学は革命思想です。非常に危険な発想です。



余談ですが、池田大作氏がかつて創価大学生に薦めたとされる日本文学は井上靖水上勉、そして三島由紀夫だったと言われています。



日蓮の発想も陽明学的です。
同時に戸田城聖池田大作の発想も多分に陽明学的です。
もっと言ってしまうと、かつての創価学会の組織の考え方は陽明学的な発想に彩られています。


現在、創価学会の内部から公明党の在り方や信濃町創価学会本部を批判する声がネット上で多く上がってきています。
かつての活動家たちが信濃町の改革を訴えて批判するのは陽明学の発想です。


公明党は政権与党になってしまっています。そしてその政府に対して多くの国民には不満があります。それなら「そんな政府は倒そう」と行動するのが陽明学であり、同時にそれは日蓮の発想でもあり、かつての創価学会、戸田や池田氏の発想だったのです。


創価学会員さんや大石寺信徒さんが、例えば信濃町を弾劾し、公明党を倒そうとして行動してもそれは自由ですが、所詮それは陽明学の考え方なのです。



多くの学会員さんはそのことに気づかない。つまり自身の思想的な陥穽に自ら気づくことができなくなっています。思想的な陶冶が浅く、文献による検証や思索が組織内では軽視されているからです。
多くの創価学会幹部は「理屈よりも行動だ」と言います。「仏法は観念ではない。実践だ」とも言います。
しかしそれらの発想は陽明学にすぎません。



池田氏の生命至上主義。

いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、私は池田大作氏の思想について、その内実は大石寺・日寛教学の大胆な敷衍と解釈にあり、戸田城聖の生命論と親孝行に見られる儒教的な発想だけで、特にオリジナルなものは存在しないと考えています。


「池田哲学とは何か」


「忘れ去られる池田思想」



ところで、創価大学教授・高橋強氏の『中国における「池田思想」研究の動向』によりますと、2013年3月2日、「池田大作平和思想研究国際フォーラム」が開催され、また同年11月23日、「21世紀の生態文明に向かって」のテーマのもと、広東省広州市において「池田大作思想シンポジウム」が開催されたことが知られています。この報告書によると午前中に高橋強氏を含む8名の基調講演の後、午後には22名による研究発表がなされています。


ところでこのシンポジウム招集人の一人、広東社会科学院の温憲元教授の発表は、このシンポジウム全体の問題意識が反映されているとして、高橋氏は概要を紹介しています。つまりこの温氏の池田理解こそが、このシンポジウム参加者に共通する池田思想への理解であるということです。
概要を一部紹介しましょう。


「池田の生態文明思想は、生命尊厳を中心とし、生命尊厳と生命倫理をもって道徳的感情に訴えかけ、父母に孝行し年配者を尊敬するように、天地や自然を尊重し、慈悲と思いやりをもって生命を大切にすることを望んでいる。従って池田の生態文明思想は生命尊厳を中心とする創価理論体系の重要な構成部分である。」


この後もいろいろ長く書いてあるのですが、要するに池田の生命尊厳の考え方から、人類中心主義を乗り越え、自然に対する寛容の精神を見出すことができるとのことです。


とすればですよ。
これらは1970年代の例えば『御義口伝講義』などに見られた、生命至上主義的な考え方であって、生命という観点から『御義口伝』を大胆に解釈する考え方が池田思想の特徴なのであって、その内実が後年にいろいろ形を変えながら、貫徹されているというのが、およその池田思想の理解なのではないかと考えられます。


ということは、中国の池田思想研究国際フォーラムの参加者が共通している池田思想理解は「生命倫理」という一点なのであって、そこに池田氏の思想的価値を見出しているということになります。それは例えば寛容の精神であったり、自然に対する多元的な社会の基礎であったりするということでしょう。



ただ私がこれを読んで感じるのは、「生命」ということを強調することこそ、池田氏の思想的な限界であるということです。
つまりそれ以上の内実が特にないんです。


例えば法華経薬草喩品の「雖一地所生、一雨所潤」を、多元的な生命や価値観の共存と解釈する『御義口伝講義』の価値観は、比喩としての薬草喩品の美しさを感じさせるものです。
ただそれ以上の価値観が特に私は感じません。
生命ということが絶対的な至上倫理とされても構わないのですが、そもそも「生命」至上主義など、別段池田氏のオリジナルの考えでも何でもないと思うんですね。



生命倫理という言葉がありますが、これらの思想の代表的な研究者といえば、例えば森岡正博氏や加藤尚武氏などでしょう。
1970年代にアメリカで用いられた bioethics の概念が日本に渡って来て、脳死問題や安楽死の問題、臓器提供の問題などで生命倫理学ということが語られたりしたことは広く知られていますし。




池田思想に積極的な価値を認める方たちは、基本的に池田氏の生命至上主義を理論づけるために、そのような講演や研究をされているようですが、そもそも「自殺と安楽死」のテーマについてでさえ池田氏とトインビー氏で見解が一致していません。
これはトインビー対談を読むとよくわかることなのですが、池田氏とトインビー氏は殆どの論点で考え方が一致しながら、実は最も重要な生命倫理の問題、「自殺と安楽死」についてのみ見解が一致していないんですね。



池田思想の内実を「生命至上主義」と考えるのは自由なのですが、トインビー氏の提案する「人間の持つ普遍的な自殺や安楽死の権利」という考え方と、それを決して認めない池田氏の齟齬こそが、創価学会が今後克服するべき思想的課題なのではないかと私などは思います。