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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

創価学会の創立はいつか?






いつもみなさん、ありがとうございます。日に日に多くの方に当ブログをご覧いただき、本当に感謝しています。激励やご質問のメールもたくさん頂いています! 全てになかなか返信ができておらず、申し訳ありません。全て内容は目を通させて頂いています。



さて今回は「創価学会の創立はいつなのか」ということです。


公式に創価学会の創立は昭和5年(1930年)11月18日とされていますが、この日は正確に言うと牧口常三郎氏の『創価教育学体系』第1巻が発刊された日であって、創価教育学会が発足した日とは正確には言えません。


では創価学会の前身である創価教育学会はいつ発足したのでしょう?

まず牧口常三郎戸田城聖大石寺への入信は昭和3年(1928年)のことです。この時、大石講の幹部であった三谷素啓の話に触れ、共感した彼は入信をします。ほぼ同じ時期に戸田城聖も牧口からの誘いを受け、"日蓮正宗"大石寺に入信することになります。


昭和7年(1932年)7月、牧口常三郎法華講の副講頭に就任しています。
ですからこの時の牧口の活動はあくまで法華講としての活動なのであり、まだ創価教育学会の内実があったとは考えられません。
ちなみにこの後、牧口は直達講講頭の三谷素啓と流儀上、相容れない関係となり、激論を交わした末に絶縁することになります。


その後、牧口と戸田が独自に宗教活動を始めるのは、翌昭和8年(1933年)7月のことで、新潟県荒浜で友人たちを勧誘。
堀米泰栄(後の堀米日淳)の中野教会所(後の昭倫寺)所属となった牧口と戸田は、8月の御講で堀米氏に指南を仰ぐことになります。
この時、牧口は在家団体・創価学会の設立を願い出ますが、堀米氏はこれを許可しませんでした。
昭和8年より時習学館にて月に一度の堀米泰栄氏の法華経講義を開催します。


昭和10年(1935年)1月、牧口は「教育宗教革命正法研究会」の「折伏座談会」を東京・神田の教育会館で開催しています。
なおこの年の2月に戸田城聖は松尾幾子と再婚し、白金台に新居を構えています。


昭和11年(1936年)1月19日、富士宗学要集講習会の終了後に牧口主催による創価教育学会の座談会を開催。この会には堀日亨も参加しています。同年4月30日には教育者による創価教育学会春季総会が開催され、機関紙『新教』を発刊します(同紙は同年7月号より『教育改造』に改題)。


昭和12年(1937年)1月27日には懇談会の後、創価教育学会の会員名簿が作成され、約100名が名前を連ねたとされます。
直達講の幹部の竹尾清澄が堀日亨から聞いた話によりますと「本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は、ここで日蓮正宗と縁が切れ」、牧口と戸田は在家団体・創価学会の設立許可が貰えないことに反発。堀米日淳に対して批判を行います。この時にすでに大石寺とは一時絶縁状態にあったようです。
堀米日淳はこの時に、牧口が信仰に再起することを考え、元の常在寺を所属として戻れるように手配したとされています。


そして事実上の創価教育学会の最初の総会が行われたのは昭和14年(1939年)12月であり、麻布の料亭「菊水亭」にて創価教育学会第1回総会が行われました。参加者は約50名と言われています。



さてここまで史実を辿ってきましたが、創価学会の設立がどこにあるかというのは非常に難しいと感じます。
いくつか論点をまとめてみます。


1、現在の創価学会が公式に認める創立記念日昭和5年(1930年)11月18日だが、この時には創価教育学会組織が存在したわけではない。

2、牧口は昭和7年(1932年)7月に法華講直達講の副講頭に就任しているので、この時点で創価教育学会として牧口が活動していたとは言いがたい。

3、昭和8年(1933年)8月、牧口と戸田は堀米泰栄に創価教育学会設立の願出をしているが、堀米氏から拒否されている。

4、昭和11年(1936年)1月19日、富士宗学要集講習会の終了後、牧口は独自に創価教育学会の座談会を開催。これには堀日亨が参加している。

5、実質的な創価教育学会の最初の総会は昭和14年(1939年)12月、麻布の料亭・菊水亭で行われた。この日が実質的な会の創立であると考えられる。



もう一度きちんと創価学会は創立の時期を見直した方がよいのかもしれませんね。