気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

「無作三身」のこと。






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えーとですね。今日のテーマの「無作三身」という言葉ですけど、これが日蓮の言葉だと勝手に日蓮正宗創価学会の方は考えていますが、本当は違います。
「無作三身」という用語は、日蓮の真蹟遺文中には1箇所も存在していません。日蓮真蹟遺文中に全く存在しないのです。




「無作三身」とは天台宗恵心流では「円教三身」(一帖抄、二帖抄等)に相当し、檀那流では七箇口伝等の「無作三身」の口伝法門に相当します。
天台宗において法華経一部を本迹二門にわけて迹門の観心を「一心三観」で口伝するのに対して、本門の観心を「無作三身」の名の下に伝授するというもので、これは中古天台口伝法門で最も大切な項目になっているようです。



もともとこれは最澄の『守護国界章』に出てくる術語でして、この中で最澄は「有為報仏、夢裏権果、無作三身、覚前実仏」(伝教大師全集第2巻567ページ)と述べています。つまり理の凡夫こそ実仏であるとしていますから、これこそ本覚思想を支える重要なキータームであることは間違いありません。



しかしながらこの「無作三身」という用語は天台智顗や妙楽湛然の著作中に見られない表現です。「性得三身」とか「実教三身」等とありますが、実際に智顗も湛然も「無作三身」とは言っていませんから、この「無作三身」概念は最澄の『守護国界章』で初めて使われた考え方とされるのが一般的です。



ただこの『守護国界章』の該当の章節は法相宗・徳一との法論に際して用いられた用語でして、これを直ちに最澄自身が凡夫が実仏であるという意味で使われたという解釈に関しては異論があります。
ですから凡夫即仏といういわゆる「無作三身」観は、後の円仁、円珍、安然等によって形成されてきた教義と考えられます。
本来純粋な天台教学では法華経の迹門実相論が法華経の観心を支えるものだったのですが、それが円仁や円珍の密教化によって仏陀論が法華経本門の観心の中心課題になってきたわけです。


ところが、実際には「無作三身」という実際の用語は安然の著作にも現れません。
まあですから「無作三身」は上古天台宗には存在しなかった概念が、中古天台に至る史的過程の中で日蓮の登場以前までに形成されてきた教義と推測することができます。
しかしながら日蓮真蹟遺文中には1箇所もこの言葉が存在しない以上、日蓮がたとえ比叡山経由でこの語を知っていたとしてもそれは傍系の思想である可能性が高いということになります。



この「無作三身」の用語が多用される著作は『授職灌頂口伝抄』『十八円満抄』『御義口伝』ですが、そのためこれらの著作を日蓮真蹟と判断するのはやや躊躇されるところなのですね。『三世諸仏総勘文教相廃立』では「無作」の用例は1箇所しかありませんが、その代わり「本覚」の用語が多用されます。
とりわけ『総勘文抄』や『十八円満抄』は中古天台法門に近い内容なので、果たしてそれらが日蓮の本来の思想であったのかということに関しては疑義が残ることになります。




創価学会は『御義口伝』をよく多用します。私の考え方を簡単に述べれば日蓮自身が『註法華経』をもとに日向や日興に対してなんらかの講義が行われた史実は存在したことは推測できます。実際『註法華経』中には講義をした形跡も残されています。
しかしながら、それはあくまで「聞書」なのであって、日興本人による真蹟が現存しない以上、それは日興門流のバイアスがかかったものであり、それを直ちに日蓮の思想であるとすることには躊躇せざるを得ません。しかも『御義口伝』の伝えられる最古の写本は天文8年(1539年)の八品派日経によるものです。真蹟の存在を証明する最古の写本が祖滅後250年以上も経過したものしか提示できない現状は『御義口伝』の信憑性の低さを如実に物語っていると言えるでしょう。そもそも天文8年日経写本は大阪妙徳寺蔵と言われていますが、すでに現存していません。富士大石寺と京都要法寺にある写本なんてさらに後のもので元亀2年(1571年)でさらに後世のものじゃありませんか(笑)。



ですから『御義口伝』を引用するのであれば、日興門流として日蓮思想をそのように読むという意味での史料としてならなんらかの価値があるかと考えられますけど、『御義口伝』があたかも日蓮自身の直接の思想を伝える著作のように扱うことは牽強付会でしかありません。
原資料の文献的研究も無視して、宗門とか教団が言っているからと検討もせずに『御義口伝』を引用して信仰の資料とすることは、"盲信"以外のなにものでもないということです。
そんなわけで「無作三身」なんて言葉、安易に使うのはいいかげんやめませんかね?(笑) 他宗から笑いものになっていることに気づかないのは日蓮正宗創価学会だけなのです。








追記:
つまり日蓮正宗とか創価学会とか、一つの考え方に固まってしまうと、自分の思想の範疇でしか何か別の思想を判断できなくなってしまうんですね。ですから少し前の投稿である龍樹の『十住毘婆沙論』なんて考えることもできないんですよ。だいたい龍樹なんて読んでないから日蓮正宗の方なんて何も言えないの(笑)。Twitterとかでも何も指摘できない。反論も肯定も引用もできないんです。ちゃんと日蓮自身は龍樹の著作も『十住毘婆沙論』も読んでます。読んでないから思考ができないんです。
日蓮正宗創価学会も信徒の方は大して文献読んでないじゃないですか。知らないことは恥ずかしいことだと思わないんですかね。
私は自分の知識が不十分だと知ってます。他宗から見られたら自分の無知が恥ずかしいです。だからいろいろ知りたいとも思うんですね。
でも創価学会の方も日蓮正宗の信徒の方も多くは法華経28品さえまともにちゃんと読んでない。日蓮の遺文さえちゃんと読んでない。最近の創価学会では十大部さえ読んでない(っていうか学会員は十大部が何なのかさえ知らない……・笑)。『守護国家論』も『一代五時鶏図』も読んでいない。『下山御消息』も『法華取要抄』も『諸宗問答抄』も読んでいない。『五輪九字明秘密義釈』『授決圓多羅義集唐決』『戒体即身成仏義』『不動愛染感見記』に至っては存在さえ知らない。涅槃経も知らないし、華厳経も知らない。阿含経典部もスッタニパータも読んでいない。智顗の『法華玄義』も『法華文句』も『摩訶止観』も知らない。湛然の『止観輔行伝弘決』も知らない。慈覚も智証も知らない。最澄の『守護国界章』も『法華秀句』も知らない。龍樹も読んでない。唯識思想の世親も知らない。だいたい戸田会長の生命論の根拠となった無量義経さえ読んでないんじゃないですか(笑)。『人間革命』4巻の「生命の庭」を読んで終わりですかぁ?
日興門流とか言いながら日興も読んでない。日道も読んでない。日郷も日有も日精も読んでいない。さらには創価学会では日寛の六巻抄や文段さえ最近は読まない。いったい何の教えを奉じているのでしょうか。日蓮正宗の方は堅樹日寛はもとより、大石日應氏の『弁惑観心抄』とか堀日亨氏の『身延離山史』とかちゃんと読んでるんですかね? まさか阿部日顕氏の『三大秘法義』とか『百六箇種脱對見拝述記』とか読んで終わりですかぁ?
堀日亨氏も草葉の陰で嘆いているかもしれません(笑)。
『日興遺誡置文』には「下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事」(創価学会版御書1618ページ)って書いてありますけどね。
創価大学・国際仏教学高等研究所の教授で辛嶋静志先生という方がいますけど、辛嶋先生のされている浄土思想とか阿弥陀仏の高度な研究なんかは創価学会から見たら謗法なんですかね?(笑)
そういう正常な判断が創価学会にはできなくなっている人が多いですね。下手すると宮田幸一先生まで悪者扱いしかねませんから。