気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

私のブログへの批判に対して。






いつもみなさん、ありがとうございます。




さて、最近アクセス数が少し落ち着いてきました(笑)が、それでも少ない日でも一日に2,000件以上のアクセスを頂きます。本当にありがとうございます。激励や質問等のメールも頂き、望外の喜びです。感謝しています! Twitterアカウントも現在フォロワー数が1,500件を越え、まだ増えていることに本当に驚いています。私のブログを好意的に評価してくださる方々もとても増えてきました。ありがとうございます。


またご批判される方もやはりだんだん増えてきたように思います。私としてはいろんなブログの私に対する批判を目にするのですが、多くは宗教的使命感から批判をされているようです。そのような議論自体はむしろ喜ばしいことかと考えています。ありがとうございます。


さていろいろとネット上の批判を読む中で「これは少し誤解されてはいないかなぁ」等思うことも出てきましたので、ここで改めて反論でもないのですが、私の思うことを述べておきたいと思います。誤解のないように書いておくと、私は日蓮系の信仰を軽んじているわけでもありませんし、他宗も一概に批判しているわけでもありません。ただ「思想上の相違を尊重できる関係性」(ローザ・パークス)を築いていきたいだけです。
というか、私のブログが気になるなら、私のことなど一切無視して独自で教義の再構成について思索を深めて頂ければよいだけです。なので、どうして私の浅はかなブログ記事にわざわざ一部のブロガーさんたちがこだわるのか、私には今ひとつわかりません。



1、「気楽非活さんは教祖になる気なのか」

私はそんな気は毛頭ありません(笑)。そもそもそんな才能もありませんし。私の願いは創価学会員にせよ、大石寺信徒さんにせよ、自身で思索し、独自の思想を持っていただくことです。その中でより普遍性のある方の考えが評価されるはずですし、それが私である必要はありません。私の思想の底の浅さは自身が最もよくわかっているので、より普遍性の高い議論ができる方が説得力ある論を唱えて頂ければよいと思います。



2、「気楽非活さんの主張は摩訶止観をベースにしている」

これも誤解なのですが、私が今一番根幹に考えているのは龍樹であり、決して智顗ではありません。というか智顗の思想が龍樹の思想と基本的にリンクするという"仮説"をもって議論してきましたが、どうもそれが本当なのか、私の中ではきちんと検証すべきことかと現在は考えています。



3、「天台大師が法華経最勝を唱えたことは意図的に無視している」


この件に関して私は無視というよりも智顗の五時八教説をむしろ積極的に批判し、否定しています。
「法華最第一」を根拠づける無量義経の「四十余年・未顕真実」の文が偽経であることが現代ではもう間違いのないことですので、天台智顗の法華最第一の根拠は単なる誤りであって、智顗の時代的制約による認識不足であったことは現代においては一般的な認識になっています。なお創価大学の菅野博史教授も無量義経が中国において偽作されたことを著作で認めていますので、それを否定される場合は菅野博史氏の見解を学問的に覆す必要もあるかと思います。



4、「気楽非活さんは広宣流布が上行菩薩ではなく宿王華菩薩に付嘱されたと考えているが、それならあなたは宿王華菩薩を拝むのか」


論理が自分勝手過ぎてよくわからないのですが(笑)、そもそも私が法華経を根本にするのか、根本をどのように判釈するのかは私個人の問題であり、誰か別の教義の中で私の考えを評価されても、それはその方の価値観でしかないのであって、私の価値観とは切り結んでないと思います。私は広宣流布ということをさして重要な宗教的タームと捉えていません。
私は薬王品の記述から「広宣流布」ということ、また日蓮が自身を上行菩薩の再誕と捉えた考え方は再考されるべきではないかという問題提起をしたに過ぎません。書いてあることは事実であり(広宣流布が上行菩薩だけに託されたという記述は法華経には存在しません)、それをどう考えるかは個々の信仰者に与えられた信仰の課題と考えます。



5、「気楽非活の我見は酷すぎる。それはまさに法盗人だ。」


よく言われるので慣れました(笑)。
勘違いされている方が多いのですけど、この種の批判をされる方は「我見」という言葉を仏教上間違った意味で使われていることに気づいていないんですね。グーグルで「我見」と検索してもわかることですが、本来「我見」とは「我執」のことで、「人我見」と「法我見」と言って、個々の主体の実在と法の実在に固執することを言います。龍樹以前に説一切有部は「人我見」を克服したのですが「法の常住」を主張しました。龍樹が徹底的に批判したのはその「法我見への固執」であり、我見とは本来そのような意味で使われています。決して自分の解釈で経文を読むことが「我見」という意味なのではありません。「自分の解釈で経文を読む」ということが「我見」であるという意味で使われているのはどこかの一宗教団体が「我見」の意味を歪曲して使っていると考えられます。
またもしも「自分を中心にすること」が「悪」であると仮定するなら、それは釈迦の最後の教えである大パーリ・ニッバーナ経の「自らを灯明とせよ」という考え方と相違するかと思います。



6、「あなたは増上慢だ。」


ご批判に感謝します。私としては自身の思想を更新することになんらこだわりを持っていません。つまりそれに文献的な裏付けがあり、説得力あるものなのであれば、私は意見を受け入れて自身の思想をどんどん変えていっても構わないと考えています。ちなみに私の思想を否定されることは構いませんが、私はどんな立場の、どんな考え方であれ、その信仰の立場と相違は尊重したいと思います。
逆に言えば、互いの相違の尊重がきちんとできない傾向は創価学会員さんや大石寺信徒さんの一部に見られまして、そのような発想こそ否定されるべきなのではないでしょうか。





追記:
終わりに


法華経最第一とする天台智顗の五時八教判は漢訳経典の文面から判断されたものであり、現代の史学的研究からは否定されています。


「気楽非活は他宗を用いるから謗法」「気楽非活は増上慢だ」等と主張されるのは思想上の自由です。
私はそのような方たちの信仰を別に否定はしません。ただ私自身が誰かを否定して自身の信仰を立てることをしないだけです。私はこのブログで単なる否定をしているというより、むしろ文献を提示して「そう解釈する方が自然ではないか」という提示をしているに過ぎないのです。


「あなたは日蓮・日興を否定しかねないから謗法だ、間違いだ」と批判されるなら、日蓮の文献学的な研究を通して本仏論の見直しをされている創価大学教授の宮田幸一さん、また阿弥陀思想の研究をしている創価大学・国際仏教学高等研究所の辛嶋静志さん、さらには法華コモンズ研究会(旧・本化ネットワーク)に所属されて正信会系や国柱会系の方たちとともに日蓮思想や創価学会思想の再考をしている創価大学教授の中野毅さんらも同様に批判されるべきかと思います。また創価大学教授の菅野博史さんも無量義経の中国における偽作説を基本主張されていますので、菅野氏もまた批判されるのかもしれませんね。