いつもありがとうございます。
今日は「戒定慧の三学」について、対話形式で書いて見ました。
「やあ、先輩、久しぶりですね」
「なんだお前は、最近活動から遠ざかって! 今に仏罰が出るぞ」
「そんなの信じませんって」
「お前のように理屈で信心を捉えるヤツは、本当の仏法がわからないんだ!」
「まあまあまあ。でも本当に創価学会の信心って『仏法』なんて言えるんですか?」
「そんなの聞き飽きましたって。そのあと何をいうのかもわかりますから。ところで質問してもいいですかね」
「なんだ? またインチキな爾前経の話か?」
「いえいえ、創価学会にとって『戒定慧の三学』って何ですか?」
「なんだそのカイジョウエのなんたらってヤツは?」
「ご存知ないんですか?」
「当たり前だ。そんなものは大聖人様の教えにはない!」
「えー! ないんですか! それはありえないはずですよ。」
「そんなもんは聞いたことがないぞ」
「というのは、およそ仏法という宗派を名乗っていたら必ずどの教派にも『戒定慧の三学』というのがあるんですって。」
「それはきっと爾前経だ。法華経にそんな教えはない」
「違いますって。三学というのは仏法の宗派なのであれば、基本の修行として定めなければならないものなんです。それがなければ仏法とは呼ばれないんですって。」
「そうなのか。」
「そうですよ。一般的な用語です。実際日蓮も三学については定めていますよ」
「俺は知らん」
「知らないんですか? 日蓮の三学が何かがわからないというのは大問題ですって。任用試験でも出てくるものですけど。」
「さて何だろう」
「ほら、三の数字がついてるヤツで何か思いありませんか?」
「わからん」
「ほら、『三大秘法』ですよ」
「お前、知っててわざと俺に質問したのか? 人を小馬鹿にするにもほどがある」
「そうじゃないんです。つまり日蓮が『三大秘法』を『戒定慧の三学』として考えたんだけど、実際の学会員さんは『三大秘法』をじゃあ『戒定慧の三学』としてどのような意味で考えているのかを知りたかったんです。」
「ではどれが『戒』で、どれが『定』で、どれが『慧』にあたるんですか?」
「そんなことはどうでもいいんだよ。末法は無戒なのだから、御本尊の前でお題目を唱える時に全てが収まっているんだ。」
「収まっているというのは学会員さんがよく言われる説明ですよね。それでも構わないとは思うんですが、それなら三大秘法のそれぞれのどの部分のどういうところが末法における『戒・定・慧』になっているのか、学会員さんってほとんど何も説明できないんですよ。」
「そんなことは枝葉の問題で、大事なことでも何でもないぞ」
「ところがね、この『三学』というものが何なのかわからないから、他宗派はやっぱり創価学会を仏教の団体とは見做さないんだと思うんですね。」
「どういうことだ? 三学が要するに戒と定と慧なんだろう? それならそれぞれが『本門の戒壇』と『本門の本尊』と『本門の題目』でいいじゃないか。」
「確かにそれで合ってると思うんですね。でも『本門の戒壇』のどのへんが『戒』つまり戒律になっているのかとか、『本門の本尊』のどういうところが『定』つまり教えの中心なのか、そして『本門の題目』のどういうところが『修行の実際の経典、智慧なのかってことを、会員は誰も考えようとしていないし、それを考えないでただ題目の功徳ばかりを主張するのは仏教と呼ばれないんじゃないかのかなってことです。」
「そんなことはない。ちゃんと題目をあげて祈ればそれが末法の修行なんだ。」
「それはそれでもよいと思うんですね。だけど御本尊の前で端座して題目を唱えることの、どの部分が『戒』で、どれが『定』で、どれが『慧』なのか、教団として統一されたものがないとすれば、それは仏教の一宗派としてどういう団体なのか不明瞭ということになりませんか?」
「お前の言うことはわからん!」
「なるほど。確かにこれについては個人で考えるべき問題なのかもしれませんが、明確な何かを創価学会本部がちゃんと三大秘法の説明で果たし得ているかということに私はどうしても疑問符がついてしまうということなんです。」