気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

ブログの紹介を。

最終更新:2017年7月27


当ブログにお越しいただき、ありがとうございます。また毎回読みにきてくださる方も多く、本当に感謝しています。

当方、元バリバリの活動家だった非活の一創価学会員が、創価学会の現在や教義の問題等を勝手に気楽に語る、非常に趣味的なブログであります(笑)。
なお、このページは随時編集、リンクを追加していきます。


Twitterアカウント
@mwP0s8t4fiA7LWQ

管理者メールアドレス
kirakuhikatsu(@)gmail.com
ご意見、ご感想、応援メッセージ等ありましたら。
メールを送られる際は(  )を外して送信ください。



◯自己紹介、自身の立場の表明として

「自身の過去の告白と総括」
「現在、創価学会の活動に疑問を抱いている方へ」




◯教義の問題について

日蓮本仏説は後世の創作に過ぎない」
日蓮本仏論について」
釈尊を本仏とする文証」
日蓮本仏説の萌芽」
「弘安2年の戒壇本尊は日蓮の造立ではない」
「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」
「興門流の各文書に見る戒壇本尊への疑義」
 「『余は二十七年なり』って」
「他宗批判と諸教包摂ということ」
「無作三身のこと」
「五時八教について」
戒壇本尊と『御本尊七箇相承』との相違」
「『御本尊七箇相承』から考える」
「阿部日開氏の『二千二百二十余年』」
「万年救護本尊について」
『百六箇抄』の問題点①経巻相承
『百六箇抄』の問題点②男尊女卑思想
『百六箇抄』の問題点③史実との不整合
「諸天の勧請」
「日道『三師御伝土代』を読む」
「日興『三時弘経次第』を読む」
「転輪聖王のこと」
「二処三会は存在しない」
「真蹟遺文に『血脈』の語はない」
「『しうし』か『したし』か」
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/01/07/001135



創価学会内部の問題について

「池田青年の入信の事実」
「池田名誉会長のピアノ」
「広宣部と言論企画部」
「『実名告白  創価学会』を読む」
「元本部職員3名の精神性」
「原田会長、財務と青年の育成について」
「財務の問題と昭和52年の問題」
「『人間革命』という用語」
「ここが変だよ。創価学会の選挙」
創価学会の選挙戦①公示前」
創価学会の選挙戦②KとFとZ」
「『アンチ創価学会』のこと」
「昭和54年の辞任問題」
宗創問題について①平成2年7月〜12月
宗創問題について②平成2年7月以前のこと
宗創問題について③平成2年〜平成3年


◯史実の検討について。

富木常忍と文書の管理体制」
日蓮の出自は『旃陀羅』か」
「『是生房』か『是性房』か『是聖房』か」
「大乗非仏説と大乗仏教運動について」
「諸々の事象は過ぎ去る」
最澄空海の関係について」



長井秀和さんとの対話シリーズ

「その1」
「その2」



◯ブログ「仏教と批判的合理主義」Libraさんとのメールによる対話シリーズ。

Libraさんとの対話
Libraさんとの対話その2
Libraさんとの対話その3
Libraさんとの対話その4
Libraさんとの対話その5

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信濃町のみなさんへ。





いつもみなさん、ありがとうございます。

さてこのブログ、最近は1日に数千件のアクセスがあります。たくさんの人に読んでいただき、本当に感謝しています。
激励や質問のメールもいただきます。本当にありがとうございます。なかなか早急な返信ができず、申し訳ありませんが、ちゃんと全て読ませて頂いていますのでご安心くださいませ。


その中で、どうも信濃町の本部職員のみなさんも、ネット監視の一環も兼ねて私のブログをご覧になっていただいているようです。
いつもありがとうございます。


私のブログを見て勉強したいという方もいらっしゃるようですが、私は自分の思索の過程をポロポロと書いているに過ぎません。
私の推察にも大いに誤りがあるかと思いますし、事実、Libraさんとメールで対談させていただいた時には本尊について自身の考え方を変えざるを得なくなったことも事実です。
思索の過程ですから大いに変わるべきですし、より普遍性の高い真実へ自身の思想を更新していくことが大切なことかと考えています。


ですから、信濃町のみなさんも、私のブログを読んで何かを吸収しようとするのもよいのですが、卑しくも宗教幹部で会員を指導する立場にある方なのですから、やはりご自身でよく検証してみることが大切かと思います。
「気楽非活が言っているからそうなのかな」ではなくて「気楽非活が言っているけど、じゃあちゃんと法華経を読んでみようか」というのが正しい態度かと思います。
事実、多くのブログの読者の方が検証を始めています。法華経の化城喩品や薬王品に阿弥陀仏が本当に出てくるのを知って驚いている読者の方もいらっしゃいます。


ですから私の言葉にせよ、組織の言葉にせよ、名誉会長の言葉にせよ、無批判に摂取することがいかがなものかと思うんですね。
やはり一人一人の信仰者が批判精神を持って、組織や教義を批判する。それができて初めて健全な組織になれるんだと思います。
かつての私はそれができてなかったのです。だからこそ自らの罪滅ぼしもかねて検証をしているんですね。


信仰のための教学とは学ぶことではなくて、考えることです。それも誰かの思想を借りて考えるのではなく、自分の頭で考えて決断することです。
民主主義の本義とは決定した決議に関しては最終的に有権者である国民がその責任を負うという点にあるはずです。
自らの力で考えることができないというのは、結局自分自身が屹立した信仰者であることを否定しているに等しいのだと私は思います。




現状の組織の思想的分裂。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さてTwitterやらブログやらいろいろみていますと、現状の信濃町が、創価学会の内部に面従腹背の多くの会員を生み出していることがわかります。


思想的に次のようなグループに分かれるかと思います。


信濃町絶対派。
信濃町創価学会の打ち出しを全面的に信じて、組織についていく人たち。この人たちは基本的に教学的な問題にあまり関心がなく、池田名誉会長の作られた像を信じている。


②池田先生絶対派
現状の創価学会がおかしいのは、信濃町の幹部と公明党が変節したことに原因があると考えるグループ。池田名誉会長の心に帰れば全ては解決されていると考えている。例の元職員3人組も思想的にはここに位置する。


大石寺教学派
2014年の会則改正にあたり、戒壇本尊を否定できない。戒壇本尊絶対説と日蓮本仏説を絶対視しており、この点において信濃町を批判している。なお②と重なる人たちもいるようだが、大石寺に行く人も少なからずいる。


④脱会者予備軍
創価学会の教義を全て詐欺であるとして、退会を呼びかけるグループ。③と重なる人たちもいて、事実、大石寺の信徒はそのようなロジックで学会を批判する。基本的に教学的な検証はあまりない。信仰としての意味は特になく、とにかく創価学会を非難して詐欺であるとする。


⑤教学独自の探求グループ。
組織も寺も三代会長も信用せず、独自に教学的な検証を行うグループ。個々の考え方は違うが、最近少しずつ増えてきている。



…………まあ類型化が果たして正しい分析になるとは思いませんけど、そんなようなグループ分けが存在すると思います。

例の元職員3人組の方たちはどちらかというと②のグループで、この方たちが中心的なグループにもしもなりますと、創価学会日蓮系教団としての特色を次第になくしていくでしょう。なにせ3人組さんは日蓮をまずほとんど読んでいません(ブログ中には御書の引用が1箇所もありません)。日蓮仏教も知らないので師弟一本槍で行くしかないのでしょう。



私は自身の信仰についてここで語ることをほとんどしていません。ブログだけを見ればほとんど全てを否定しているだけです。しかし私は龍樹と智顗の説に依拠して独自の曼荼羅の世界観を考えています。
それが正しいなんて思っていませんし、考え方を少しずつ変えてもよいと思っています。他の方が別の考えをとることも別に否定したりしません。
大切なことは一人一人の信仰者が他を拠り所とせず、自分を拠り所として、自らを灯明として信仰を保つことだと思っています。だからこそ私は自身の信仰の形をここで書かないことにしています。



我見について。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は「我見」について、書いてみたいと思います。


私はこんなブログを書いていますけど、応援してくださる方も多くとても嬉しいです。本当に感謝しています。
一方で批判される方も多く、それは思想上の相違として大いに結構かと思います。
ところで一つ気になっていることなのですが、私を批判される際に多くの方が「気楽非活さんは我見が過ぎる」というように批判するんですね。
結論から言ってしまうと、それは仏教上の「我見」という言葉を誤って用いていませんか?ということです。



検証してみましょう。「我見」という語は本来「我執」(アートマ・グラーハ)という語でありまして、仏教ではそれらの我執の克服が重要な課題であると考えられてきました。

自身に普遍の自我(アートマン)が存在すると主張することを「アートマ・グラーハ」(人我見)と呼びます。それに対して全ての存在に対して実体があるというのを「ダルマ・グラーハ」(法我見)と呼びます。


仏教はこの「人我見」と「法我見」の克服を一つの大きな課題と考えます。
ところで説一切有部は個々の自我について否定し「人我見」を乗り越えたと判断することができますが、彼等は法の実在、ダルマの存在については認めたんですね。龍樹が批判したのはまさにその点でして、龍樹はダルマそのものさえも縁という視点から克服を試みました。



ですから仏教において「我見」というのは「自我アートマンと法ダルマの実在に執着すること」を意味するのであって、それを「自分勝手に仏教を解釈する」というような意味で使うとすれば、それは本来の仏教の用例ではありませんし、ご自身が仏教というものに対して検証をされていないということかと思います。



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『中論』を読む(5)第1章の4




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回の『中論』紹介は第1章の第4節になります。



kriya na pratyayavati napratyavati kriya
pratyaya nakriyavantah kriyavantas ca santy uta


「作用は、縁を所有するものとして有るのではない。また作用は縁を所有しないものとして有るのではない。縁は作用を所有しないものではない。あるいは作用を所有するものとして有るのであろうか。」
中村元訳)


「作用は縁を有するものでもなく、
作用は非縁を意味するものでもない。
縁は非作用を有するものではなく、
作用を有するものでもない。」
立川武蔵訳)


この部分はやや難解なため、中村元氏の訳の次に立川武蔵氏の訳を載せました。
ここで龍樹は縁を「縁」と「非縁」とに分け、作用を「作用」と「非作用」とに二分しています。
立川氏の考え方に沿うなら、ここでいう「縁」と「非縁」とは全ての縁と縁以外のものを指すのではなく、全ての縁を分割した結果である「縁」は実在の縁すなわち存在が確立している縁のことを意味し、「非縁」とはその影すらない全くの非存在の縁のことです。
同様に「作用」はその存在が確立している作用のことであり、「非作用」とはその存在が確立されていない作用のことを表しています。



今回は説明に代えて、やや長くなりますが、立川武蔵氏の『中論』第1章の序の解説を少し引用したいと思います。私はこの立川氏の見事な説明に付け加えるべき言葉を何も持ちません。



「原則として中国人は、ものは存在するという前提で話をします。一方、彼らは、ものはあるように見えても壊れることがあるということは認めています。ものは存在するが、それは壊れて無となるものである。無となることはあっても、ともかく目の前に存在している。このように、ものはそのものは無となるが存在しており、存在していても無となる、と多くの中国人は考えます。このような矛盾的なあり方、相反する二面がもろもろのものにあるということを中道という傾向が中国仏教にはあります。
しかし、インド人は、少なくとも中観派の者たちはそのようには考えません。ものは存在するかのように見えるかもしれない。しかし、それは空性に至った経験のある者が人々のために言葉を用いて『ものごとが存在する』と主張している場合であり、空性においては真実にはものは存在しないのだ、と中観論者たちは考えます。つまり、彼等は何も存在しないということを究極的な立場として受け入れるのです。」

立川武蔵『中論一章訳注』2009年、愛知学院大学文学研究科講義より、『人間文化』第25号所収)



摂受と折伏について。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は某読者からメールにてご教示いただき、今成元昭氏の論文を読んで非常に示唆を受けました。

今成元昭「教団における偽書の生成と展開」


今回はこの今成氏の論文を簡単に要約してみましょう。いかに創価学会大石寺たちの言う「折伏」なる語が後世に作られたものか、推察できると思います。


日蓮折伏本意の人であったということは、もはや日蓮系教団だけでなく、一般に通俗化されています。
今成氏はこの「折伏本意」説の根拠となる次の2点について検証を試みています。

①『開目抄』に「邪智・諸法の者の多き時は折伏を前とす、常不軽品の如し」(御書235ページ)としている。

②『如説修行抄』は全編折伏行の書である。



まず①の『開目抄』についてです。
実は『開目抄』は日蓮遺文中「摂受・折伏」の語がみられる2番目の作品であって、日蓮自身が「摂受・折伏」ということを自身との関わりの中で述べているのは遺文中わずか4編の御書に過ぎません(『転重軽受法門』『開目抄』『富木殿御返事』『観心本尊抄』)。


日蓮は『開目抄』において「摂受・折伏」の意義を説明します。日蓮自身は確かに「摂受」だけを認めるのは偏頗な考えであるとしているのですが、最大の問題は日蓮自身が『涅槃経』の「刀杖を執持し、乃至、首を斬る」を根拠に武力・暴力の行使を容認しているという点です。


つまり日蓮の認識する「折伏」とは武力・暴力の介在を容認するものであり、それは出家者には許されない行為です。
ですから日蓮の考えに即して説明すれば、出家者の役割はその卓越した人格によって「折伏を間接的に出現させる存在」であり、「折伏を直接に行う存在」は、神仏や為政者のことだということです。ですからこの関係について日蓮は『観心本尊抄』で「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す」(御書254ページ)としているのです。


折伏を前とす、常不軽品の如し」(御書235ページ)とする『開目抄』の一節は、実は古写本には存在しません。
事実、日興が講義した『開目抄要文』(北山本門寺蔵)には存在しません。
最古の写本である日存本(1416年)にもこの一節は存在しません。
その次の平賀本土寺本(1443年)にも存在しません。しかし平賀本には該当部分の行間にこの一節が添加されています。
巷間に広く読まれている岩波文庫版などの『開目抄』にもこの「常不軽品の如し」の一節は存在していません。これは1604年にまだ身延山に現存していた『開目抄』真蹟から対照し、原本に存在しないとした身延山寂照院日乾の判断に依拠しているんですね。


加えて次の②の『如説修行抄』についてです。
実は『如説修行抄』は全編が偽書の疑いが強いと考えられています。

上に見てきたように、日蓮折伏とは国家による武力・暴力の介入を容認する考え方です。そこから考えても思想・言論戦としての「折伏」を強調するような考え方は、日蓮の考え方と異なると言ってよいでしょう。事実『如説修行抄』では智顗の『法華玄義』中の「法華折伏・破権門理」の言葉が何度も登場しますが、日蓮の他の真蹟遺文には見られません。『注法華経』にさえこの引用は存在していません。


また「如説修行」という言葉がこの御書では13回も使われていますが、他の日蓮真蹟遺文には1箇所も出てこないものです。その点から考えても不自然です。

なぜ「如説修行」という語が日蓮の真蹟遺文には使われないのか、この点についても今成氏は説明しています。
今成氏の論文にもあるように「如説修行」という語は『法華経』薬王品を典拠として女性の極楽往生を保証する言葉として流行していました。以前このブログでも指摘しましたように、法華経にはちゃんと阿弥陀仏が出てくるんです。

法華経阿弥陀仏って」

したがって「如説修行」という言葉をこの時代に日蓮が用いれば、それは「阿弥陀仏の世界の極楽往生」の意味であって、日蓮が念仏者からの批判に晒されてしまうのは明らかです。ですから日蓮真蹟遺文中には「如説修行」という言葉は全く見られないのです。


詳細については、今成氏の論文を仔細に読んで頂き、ご判断については賢明な読者様にお任せしますが、少なくとも私は「折伏」という語を「思想的な言論戦」とか「信徒を増やすこと」とか「御本尊を送ること」とかそういう意味で使うのは、検討・再考を要することかと思います。


広宣流布は鳩摩羅什の造語。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて大石寺にせよ創価学会にせよ、日蓮系教団なら誰もが自明のこととして疑わない「広宣流布」なる言葉ですが、これはサンスクリット本には存在しない造語です。


日蓮自身はといえば「後の五百歳に当たって広宣流布の時である」ことを諸抄で語っていますけど、そもそも「広宣流布」という語が出てくるのは法華経では薬王菩薩本事品第23においてです。そしてサンスクリット原典では「後の五十年が経過している間に、このジャンブ=ドゥヴィーパ(閻浮提)に行われて消滅しないように」と書かれています(岩本裕訳、岩波文庫版、下209ページ)。サンスクリット原典にはどこにも「広宣流布」に当たる語は存在しません。


日蓮自身は上行菩薩の再誕であるという自覚を持って「広宣流布」をやるべきだとしていますし、創価学会大石寺信徒さんもそのように考えているみたいですけど、そもそも薬王品で説かれる「広宣流布」は上行菩薩に託されていません。


薬王品において「広宣流布」が託されたのは上行菩薩ではなく、宿王華菩薩です。
以前、このことについては、このブログでも触れました。

法華経阿弥陀仏って」


要するにこの点について、日蓮自身は法華経を原典通り読んでいるのではなく、やや自身に都合の良いように拡大解釈しているわけで、この点について、きちんと説明をしないと教義と法華経との整合性が大石寺創価学会も取れなくなると思いますね。


最初の話に戻りますが「広宣流布」はサンスクリット原典に該当する語が存在しません。つまり鳩摩羅什の造語です。そして広宣流布そのものは上行菩薩に託されてはいません。そのことを語らず、ごまかすことは、信仰者として誠意ある態度とは私は言えないと思います。