気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

ブログの紹介を。

最終更新:2018年1月10日


当ブログにお越しいただき、ありがとうございます。また毎回読みにきてくださる方も多く、本当に感謝しています。

当方、元バリバリの活動家だった非活の一創価学会員が、創価学会の現在や教義の問題等を勝手に気楽に語る、非常に趣味的なブログであります(笑)。
なお、このページは随時編集、リンクを追加していきます。


Twitterアカウント
@mwP0s8t4fiA7LWQ

管理者メールアドレス
kirakuhikatsu(@)gmail.com
ご意見、ご感想、応援メッセージ等ありましたら。
メールを送られる際は(  )を外して送信ください。



◯自己紹介、自身の立場の表明として

「自身の過去の告白と総括」
「現在、創価学会の活動に疑問を抱いている方へ」
「私のブログへの批判に対して」
◯教義の問題について

日蓮本仏説は後世の創作に過ぎない」
日蓮本仏論について」
釈尊を本仏とする文証」
日蓮本仏説の萌芽」
「弘安2年の戒壇本尊は日蓮の造立ではない」
「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」
「興門流の各文書に見る戒壇本尊への疑義」
「『三師御伝土代』と戒壇本尊との矛盾」
「六壺の日興本尊も贋作か」
「『余は二十七年なり』って」
「一生成仏について」
「他宗批判と諸教包摂ということ」
「日華・日仙の御本尊書写のこと」
「無作三身のこと」
戒壇本尊と『御本尊七箇相承』との相違」
「『御本尊七箇相承』から考える」
「阿部日開氏の『二千二百二十余年』」
「万年救護本尊について」
『百六箇抄』の問題点①経巻相承
『百六箇抄』の問題点②男尊女卑思想
『百六箇抄』の問題点③史実との不整合
「諸天の勧請」
「日道『三師御伝土代』を読む」
「日興『三時弘経次第』を読む」
「転輪聖王のこと」
「龍樹の『空』と日蓮の『一念三千』」
日蓮真言批判の問題点」
 「法華真言の用例」
「二処三会は存在しない」
「真蹟遺文に『血脈』の語はない」
「『しうし』か『したし』か」
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/01/07/001135
「宿命は日蓮の思想ではない」



創価学会内の問題について

「池田青年の入信の事実」
「池田名誉会長のピアノ」
「正木さんの師弟観」
創価学会内部の教義的な分裂について」
「仏法は師弟なのか」
「歴史的役割の終わり」
戸田城聖という人」
「広宣部と言論企画部」
「『実名告発・創価学会』を読む」
「元本部職員3名の精神性」
「元職員三人の今後の資金繰り」
「原田会長、財務と青年の育成について」
「財務の問題と昭和52年の問題」
「『人間革命』という用語」
「ここが変だよ。創価学会の選挙」
創価学会の選挙戦①公示前」
創価学会の選挙戦②KとFとZ」
「『アンチ創価学会』のこと」
「昭和54年の辞任問題」
「宗創問題について①平成2年7月〜12月」
「宗創問題について②平成2年7月以前のこと」
「宗創問題について③平成2年〜平成3年」
「『南元センター』について」

◯史実の検討について。

富木常忍と文書の管理体制」
日蓮の出自は『旃陀羅』か」
「『是生房』か『是性房』か『是聖房』か」
「大乗非仏説と大乗仏教運動について」
「諸々の事象は過ぎ去る」
最澄空海の関係について」
「五時八教について」
「法華三部の発想」



長井秀和さんとの対話シリーズ

「その1」
「その2」



◯ブログ「仏教と批判的合理主義」Libraさんとのメールによる対話シリーズ。

Libraさんとの対話
Libraさんとの対話その2
Libraさんとの対話その3
Libraさんとの対話その4
Libraさんとの対話その5

広告を非表示にする

実像を求めて。





いつもみなさん、ありがとうございます。


私は別段、このブログで高尚なことを書こうとしていません。そもそも私自身が高尚な人間でもなく、卑俗な人間に過ぎませんし。


私がここで書いているのは、創価学会の活動家だった自身の過去の恥を晒す行為であり、その反省と総括をどうするか、ダラダラと気楽に書いているだけです。


私は別段、誰かを悪役に仕立て上げようとは思っていません。


池田氏の批判もしますが、別に恨みがあるわけではありません(お小遣いとかもらいましたし・笑)。以前にも書いたように池田氏には自身の虚像を大きく見せるところがあり(ですから彼は若い頃によく「大風呂敷」と呼ばれていましたよね)、虚勢を張るところがあるだけです。本質的に池田氏は江戸弁のべらんめえ調で話す、気の良い下町のおじさんだと思っています。悪い人ではありませんが、入信時の逸話の創作など虚像を生み出した責任は彼自身に帰されるべき問題であると思います。


私の関心事は、本当のところを知りたいだけなんです。
教団が勝手に主張している教義なんて聞き飽きました。どの幹部を捕まえても同じようなことしか言いませんし(笑)、妙観講の活動家さんを捕まえても同じようなことしか言いません(笑)。
何を言うのか、聞く前からわかる話などなぜ聞きたいと思うのでしょう。


史料や史実から実像を描き出すこと、そしてそのことで過去の自分がやってきたことの正当性を洗い出すことが私には必要で、全てを疑った後に残る真実を私は採りたいと考えています。


だいたい大石寺系の信徒の方が自分たちの教義を話す時、引用する日蓮遺文は決まって真蹟不存、真偽未決で偽書の疑いの強いものばかり出してきます。例えば『生死一大事血脈抄』とか『諸法実相抄』とか『御義口伝』とか『法華初心成仏抄』とか、そんなんばっかりです。
ブログ「仏教と批判的合理主義」のLibraさんもご指摘されていたように、多くの創価学会員さんも大石寺信徒さんも、まともにきちんと『観心本尊抄』を読んでいないのかと思います。


観心本尊抄』は日蓮真蹟の全文が中山法華経寺に現存しています。こういうところからきちんと外堀を埋める作業が必要なのであって、なんでも一緒くたに議論をしても、日蓮の実像に迫れるはずがないかと思います。



教団の提示する教義の色眼鏡で物事を見るのに慣れてしまうと、それ以外の思考ができなくなってしまい、閉塞された世界の中に生きるしかなくなります。結果、一般社会とは隔絶された選民思想的な教義となり、自分たちの教義の内側でしか語れない信徒を大量生産することになります。











広告を非表示にする

創価学会の公明支援の問題点。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私はこのブログ上であまり公明党については批判していません。
今回はその理由を簡単に書きたいと思います。



私は宗教団体がその教義の理想から具体的な政策を考え、政党を組織することは権利としてあって構わないことだと考えています。
同時に宗教団体がその政党を支持することも、また別の政党を支持しないことも、国民の権利としてあってよいことと考えています。


私が最大の問題と考えるのは、宗教団体が内部の一会員に対して、それら特定の政党を支援することを無言のうちに事実上強要しているからです。


もちろんそんなことを言っても信濃町創価学会本部は「会員の政党支援は個人の自由」という建前を主張しますし、彼らも「創価学会員でも公明党を支援してない人は多数存在する」という反論をされるかと思います。


私が言いたいことはそうではありません。
一度創価学会の活動家になると、その方針に対して敵対することで、創価学会内部への反逆者、裏切り者認定されかねないということです。
ですから、創価学会本部の打ち出しに反発をすると組織から「仏敵」認定されてしまう、その危惧を活動家は拭い去ることができないのです。


昭和40年代以降、創価学会は地域に強力なネットワークを持ち、地盤のある互助組織として発展して来ました。
創価学会員の多くは、偏見の目で見られたり、蔑まれたり、宗教的に拒否されることも多いです。まあ、それは過去に創価学会が「謗法払い」と称して他宗を排撃してきたりしたことが背景にあるわけで、自業自得とも言えるのですが、それらへの対抗策として彼らは自分たちで互助組織を形成し、コミュニティを形成することで生きてきたと言うことはできるでしょう。選民的な思想という意味では大石寺と所詮さして変わらないのですが、昭和30年〜40年代にかけて創価学会は地域にそのような共同社会を形成してきたのです。


ですから、その組織から外れるということは、創価学会員からも爪弾きにされ、社会からも爪弾きにされる、言わば社会的に孤立することを多くの場合、意味します。


純粋な創価学会員は、例えば公明党を支援できないと感じると、幹部に指導を受けることが多いです。幹部はそこで当人を納得させ、公明党支援をさせるようにその人に対して働きかけるのです。
創価学会員は多くの場合、そこで自分を納得させ、公明党支援を結果的に選択することになります。



繰り返しますが、私は宗教団体がどんな政党を支援することも自由であると思います。
ただその大切な前提は、個人がどんな主義や主張を構えようと、それらは基本個人の自由であり、それらの個人の思想信条に対しては尊重されなければならないということです。
創価学会が罪深いのは、建前上は「個人の思想信条は自由」と謳っているにもかかわらず、その実、それに反発するとその人が創価学会の地域組織から孤立しかねない"無言の圧力"がかけられるという点です。


そして特定の政党を支援しているのは日本の創価学会組織だけであり、海外のSGI組織には特定の政党支援をするということがありません。


この点に着目しなければ、創価学会の政党支援の闇に踏み入ることができないのだと私は思います。










池田大作の虚像と実像。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回、創価学会の名誉会長である池田大作氏について、私の持つイメージを簡単に書いてみたいと思います。



何度となく私は池田名誉会長について、その「世界的指導者」とか「平和運動家」とか、仰々しい言葉で語られるものを「作られた虚像」であるとしてきました。
例えば私は池田名誉会長のピアノ演奏などについてブログで書いたことがあります。


「池田名誉会長のピアノ」


本来池田氏という人は、創価学会の布教の方法論、また選挙戦の方法論をほぼ現在の形に確立した人です。
地区の名簿から全有権者を割り出し、票数を洗い出し、投票日から勝利の算段を立てる。そして遊撃のような形でいろんな手を打っていく。
央忠邦氏も著作中で指摘していましたが、池田氏は決断が早かったので、即断即決で様々な手を打ち、選挙戦や拡大戦で結果を出してきました。


最大の問題は、池田氏の功績を評価し、讃えるあまりに、池田氏本人と信濃町が一緒になって「平和思想家」とか「世界的指導者」という虚像を少しずつ膨れ上がらせてしまったことです。


本来、池田氏は江戸弁が似合う庶民的な人で、本人自身、青年時代から貧しい生活を送り、結核で苦しんできました。言わば「病人と貧乏人の団体・創価学会」を体現するような人でした。溝口敦氏も「一口に病・貧・争と言われるが、池田はそのすべてを体験した」と述べています。


「私も新潟鉄鋼にいっておったときに、戦争中です。諸君みたいに裕福な勉強もできなかった時代です。軍国主義の真最中ですから。私は肺病でした。今の体の半分しかなかった。血痰をはきながら、行かなきゃなんないが、ずいぶん休んだけども、会社も。国賊みたいに言われたもんだ、近所から。」
池田大作、第2回創友会総会、昭和51年11月6日)


池田氏は入信してすぐはさほど積極的な会員ではありませんでした。


「最初から創価学会の全てが納得でき、戸田先生の言葉が、理解できて信仰したわけではない。信ずることにせっかちな余りの一般会員の強引さや、情熱にまかせて陥りがちな壮士気取りの青年たちの言動に、ひそかに強い反撥を抱いたこともある」
池田大作「自己変革と宗教者」『中央公論』昭和46年7月特別号)


貧しく病気ゆえにやや内向的な性格であった池田氏は次第に少しずつ自身の課題を克服し、信仰の道で生きていくようになります。克服された時、池田氏は功徳と考えたのでしょう。ただ問題は池田氏の思想にはそのような利益主義的な側面と大石寺日寛由来の教義くらいの内実しか存在しないにも関わらず、次第に池田氏が自身の思想を尊大に大きく見せようとし始めていったことです。
具体的に言えば、小説『人間革命』における入信の逸話の創作と事実の隠匿です。以前ブログでも書きました。


「池田青年の入信の事実」


溝口敦氏は次のように述べています。


「池田には庶民の出自として親しめる一面があるが、彼はその権力の肥大化とともに、『若き日』を語らず、語ったとしてもひと理屈つけて自己の偉大さを証するためだけに語るようになる。」
(溝口敦『池田大作「権力者」の構造』講談社、2005年)


御大は昭和40年頃に『御義口伝講義』を発刊しますが、前書きで池田氏本人が述べているように、あの講義の草稿はほぼ原島嵩氏によって書かれたと考えられます(講義をしたのは当然池田氏本人ですが)。当時池田氏原島嵩氏とともに『御書と四条金吾』などを発刊、教学的な基盤を原島氏とともに構築してきました。その最大のポイントこそが「御義口伝を生命論の次元から解釈する」というところでしょう。このへんの視点は原島嵩氏や川田洋一氏に見られたところです。つまり特別書籍のメンバーたちの考えを取り込み、池田氏はそれらを自身の思想として無反省に展開してきたのだと言うことです。


トインビー対談も実質的に書籍代筆グループによって書かれたものです(レコードには対話の全文が収録されていないことからも明らかです)。この対談も実質的に原島嵩氏の生命論的視点から解釈された日寛教学を自在に現代的に駆使した内容でした。


それらを自在に解釈して、自由に話す度量や大胆さのようなものが池田氏にあったことも事実です。池田氏はどこか大胆にスピーチを展開する才覚のようなものがあり、聞き手を巻き込む魅力がありました。そして池田氏周辺もまた師匠の宣揚のために喜んでさまざまな協力をしてきたのです。


池田氏は自身でスピーチ原稿や詩歌、和歌、メッセージ等を書くこともありますが、第一庶務や池田氏の周辺が作ることも少なくありません。つまり代筆の実態は以前から常態化していたと考えるのが自然でしょう。
このことは創価学会元本部職員の三人もブログ中で実態をきちんと告白しています。


「②学会本部の師匠利用の実態と私たちの決意」


例えば会員に激励と称して池田氏の押印和紙等が配られますが、あれは池田氏によって押されたものではありません。本部の第一庶務、会員奉仕局が作っていることは上記の三人組のブログ記事などからも明らかです。


私は池田氏を悪し様に罵りたいのではありません。そうではなく実像をきちんと語りたいだけなのです。
池田氏が貧しい人、弱い立場の人、一会員に見せる思いやりの深さ、優しさのようなものがあったことは事実です。その思いやりによって奮起した会員は決して少なくありません。池田氏にはどこか庶民的な優しさがあり、それは戸田会長にも共通する特徴でしょう。


そして会を爆発的に拡大することに成功した池田氏は次代のリーダーとして頭角を現します。そして次第に日寛教学への過信、自己の確信への過信から、次第に在家主義的傾向を強め、「世界的指導者」という虚像を作り上げてしまったのです。
そこに悪気はなかったはずです。池田氏周辺も、第一庶務や側近、原島嵩氏や川田洋一氏、その他文芸部や国際部も、池田氏を称揚することに自分たちの活動を見出してきたのです。


その結果、その虚像は引き返せないところまで大きくなってしまい、もはや会員は池田氏を疑うことさえできず、その庶民的な好々爺然たる池田氏の実像との乖離ははるかに大きくなってしまったのです。


それらの虚像を生み出した責任は、信濃町池田氏本人、その両者に帰せられるべき問題でしょう。
だからヨハン・ガルトゥング氏が安保法制について池田氏を諌めるような発言をしても、氏は沈黙することしかできないのかと私は思います。


池田氏も一頃よりも体調を回復され、信濃町の第2別館で過ごすことも多いようですが、実質的に池田氏は現在の信濃町の運営を黙認・容認しているということです。
原田稔さんは昭和54年前後、当時青年部長だった人物です。第一次宗創問題の際に師弟を強調、師匠との血脈ということを当時激しく主張していたのは、他の誰でもない、原田さんでした。
現在の創価学会信濃町の執行部もまた、池田氏を師匠と仰ぎ、氏とともにその尊大な虚像を作ることに腐心してきたと私は考えています。もちろんそれは宗教的な使命感からなされたもので、そこに悪意はなかったと私は考えています。しかしそのために庶民的で親しみのある池田氏の実像は見失われ、大き過ぎる虚像を生み出してしまったのでしょう。


私はやたら戸田会長との師弟とか在家主義とかの正統性を強調するような池田氏の虚像より、親しげで平凡で庶民的な実像の池田氏の方がずっと好きですね。
教義のドグマ化による個人の束縛は、悪意から始まるのではなく、単なる凡人が己を見失って虚飾で偽り始めた時から始まるのだと思います。













ドグマを越えて。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私のこのブログは「気楽に」と銘打っています。



私は自分が求めていることをただ求めていきたいと考えているだけです。
私は自分の限界も知っていますし、専門的な研究が充分にできているなんてこれっぽっちも思いません。
だから気楽に語りたかったのです。
自分の信じるものは、あくまで文献に即して客観性に基づいたものにしたいと考えましたし、そこから飛躍して勝手な妄想を他人に宗教的な思い込みから強要しないようにしたいと考えたからです。



私が最も忌み嫌うのは、自分がさして知りもせず、求めようともしないのに、自分の宗教的な確信がさも真実であるかのように振る舞い、真理を偽装する態度です。


私は文献的に裏付けられた異論があれば、積極的に受け入れ、自身の思想を更新することに躊躇しません。
事実、ブログ「仏教と批判的合理主義」のLibraさんや、ブログ「創価学会の信仰に功徳はあるか」の米山さんなどから文献的な考証やご批判を頂き、少しずつ意見も変えて来ています。


Twitterでも書きましたが、私は、自身の思想的前提になんら疑いを抱かず、信仰的なドグマを他者に無自覚に強要するような議論を決して許しません。
それを許してしまえば、現今の創価学会大石寺のドグマを許すことになるからです。あらゆる真理は暫定的なものであり、不断に更新され得るものとしてでしか私は認めないからです。


例えば創価学会大石寺という教団そのものが「悪」であると仮定して、ではそこに所属する信徒さん一人一人が悪人だったのかと言うとそうとは言えないでしょう。
宗教的なドグマというのは悪人が作るのではなく、善良で無思慮な凡人によって形成されていくものです。それが膨れ上がって巨悪になったものこそが創価学会であり、大石寺でしょう。
人はすぐ創価学会が悪いとか大石寺が悪いとか原田会長が悪いとか、レッテルを貼って悪の原因を一つに措定して安心しようとしますが、それは本質ではなく、むしろ宗教のドグマというエレメントはマックス・ヴェーバーが言うような意味で、常に一人一人の個人の中に内在している危険性なのかと思います。


マックス・ヴェーバーは「官僚制」論文の中で国家や社会が機能的側面から官僚制を選択し、それが次第に形骸化して個人に対して対立するような側面を持つことを認めています。官僚は本来悪人ではない。けれどもそれが権威化して個々を疎外するのです。
この社会の疎外という現象はマルクスが『経済学・哲学草稿』で指摘したことです。信号機は個人の交通安全を守るという"本質"を持ちます。しかし信号機の存在により、車が一台も走っていなくても交通ルールという形で個人を歩かせないという"強制力"にもなり得るのです。つまり本質から自己が疎外されるという事態をマルクスは見ていたということです。


考えない人間、無思慮な人間、己を疑うことを知らない人間が増えれば、集団の社会性はドグマに変貌し、個々の人間を疎外することになるでしょう。だからこそ私はあらゆる規制の権威や教義から離れて自由に思索したいと考えています。そのための方法こそが史実と史料であり、そこに立脚点を置く時に初めて自身の思想を客観視できるのかと考えています。










広告を非表示にする

組織の目標数ということ。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて先日の聖教新聞(2018.1.4)の「わが友に贈る」の中に「自身の境涯を開く/明確な目的を立てよう。」と書いてあって、私などは「ああ、相変わらずだなぁ」と思いました。


創価学会って目的とか言うと、必ず個人や組織に目標数を立てさせます。



創価学会員ではない方にはわかりにくいことかと思いますが、大石寺系教団で「目標」というと例えば「地区で〜世帯の布教」とか「会合の結集〜人」とか「統監の何割結集」とか数で立てさせられます。
まるでどこかのブラックな会社社員の営業ノルマみたいな感じです。



ふつう、目標とか目的ってのは違いますよね。
例えば何年後に結婚したいとか、何年後に家を持ちたいとか、会社を起こしたいとか、そんなことを考えて、その上でいついつまでに貯金はいくらくらいにしようとか、そういう算段を立てるのが将来設計というものでしょう。


別段、創価学会大石寺もそのような個人の人生設計を否定しているわけではないのですが、どういうわけだか、彼らの宗教組織の中にいると、それらの人生目標よりも、布教や組織活動のノルマ目標が上位に来ちゃうんです。


いや、もちろんね、創価学会の組織で活躍して人生設計を建てられる人もいますよ、中にはね。そういう特異な方もいらっしゃいます。思うにそういう方は創価学会の方法論と相性が良いのでしょう。
どこかのネットワークビジネスみたいですよね。そういえば、創価学会の布教の方法ってネットワークビジネスそっくりじゃないですか(笑)。
「ちょっと良い話があるの」と誘い出して、セミナーとか本幹の同時放送とか座談会とかに連れ出す。あとはみんなで囲んで「この信心を一緒にやってみよう!」の一点張り(笑)。やってることネットワークビジネスと変わりませんって。


組織の目標ってのはもうやめた方がいいと思うんですよね。
そうでないと、ただでさえ少ない現在の活動家の首をますます締め、疲弊させることになりますよ。
信濃町の本部職員のお給料なら、今たくさん貯め込んでいる会員の財務のお金を運用したりしても、十分稼げるんじゃないかなぁと。



大石寺も「〜万人登山」とか布教の目標数とか立てさせているみたいですから、方法論としてはなんだか創価学会そっくりみたいです。
そもそもこのように目標数を具体的にして布教活動をやってきた、その先駆は創価学会のはずですが、大石寺も近年真似してるみたいです。








アンチ創価系ブログについて。





いつもみなさん、ありがとうございます。


ところで、私は創価学会系、また大石寺系のブログがたくさんあることを知ってますし、それらについてもかなり目を通している方かと思います。
ただ私は自分の考えていることをブログで書きたいだけなので、それらは参考にはしますが、それらのブログをどうのこうのと言える立場ではないと考えています。


私はどちらかと言えば文献を読んできちんと考えたいだけなのであって、他者のブログを批評したいとは思いません。
ところが、他人のブログについてああでもない、こうでもないといろいろ語るブログも多いようです。


まあ立場の違いなので、それはそれでも良いのですが、それらの他ブログ批評は所詮他人の褌で相撲をとっているだけなのであって、自身に語るべき思想がないことを自ら暴露しているに等しいのではないでしょうか。


何か思想があり、語るべきことがあるのなら、他人のブログなど構わず、きちんと文献的な考証も付けてブログで書いていけばよいのです。
それらに説得性があれば、次第に評価されるようになるはずですし。



つまり創価学会は、文献的な考証をおざなりにしてきた結果、大して読みもせずに何かを語れると勘違いされた方が増えてきてしまったのではないでしょうか。結果アンチ創価学会・アンチ大石寺系ブログはどんどん増えますが、あっという間に短命に終わっていくということでしょう。



私は自分が考えることを単に書いているだけで別に他意はありません。
創価学会大石寺そのものが私のブログなど無視するのは当たり前かと思いますし、そもそも教団が個人の趣味に過ぎないブログに口を出すとも思えません。



問題なのは教団というより、教団の在家主義的な傾向から、大して遺文の検証も経ずに日蓮思想を語れると勘違いした信徒が増えているという事態の方で、『法華玄義』も『法華文句』も『摩訶止観』も湛然も読まず、挙げ句の果ては『貞観政要』も読まず、『五輪九字明秘釈』の存在さえ知らず、勝手に日蓮を知ったかぶりして語れるような勘違いをした、そういう信徒を生み出してきてしまったことの方なのでしょう。