気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

ブログの紹介を。

最終更新:2018年2月18日


当ブログにお越しいただき、ありがとうございます。また毎回読みにきてくださる方も多く、本当に感謝しています。

当方、元バリバリの活動家だった非活の一創価学会員が、創価学会の現在や教義の問題等を勝手に気楽に語る、非常に趣味的なブログであります(笑)。
なお、このページは随時編集、リンクを追加していきます。


Twitterアカウント
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◯自己紹介、自身の立場の表明として

「自身の過去の告白と総括」
「現在、創価学会の活動に疑問を抱いている方へ」
「私のブログへの批判に対して」
◯教義の問題について

日蓮本仏説は後世の創作に過ぎない」
日蓮本仏論について」
釈尊を本仏とする文証」
日蓮本仏説の萌芽」
「弘安2年の戒壇本尊は日蓮の造立ではない」
「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」
「興門流の各文書に見る戒壇本尊への疑義」
「『三師御伝土代』と戒壇本尊との矛盾」
「六壺の日興本尊も贋作か」
「『余は二十七年なり』って」
「一生成仏について」
「他宗批判と諸教包摂ということ」
「無作三身のこと」
戒壇本尊と『御本尊七箇相承』との相違」
「『御本尊七箇相承』から考える」
「阿部日開氏の『二千二百二十余年』」
「万年救護本尊について」
『百六箇抄』の問題点①経巻相承
『百六箇抄』の問題点②男尊女卑思想
『百六箇抄』の問題点③史実との不整合
「諸天の勧請」
「日道『三師御伝土代』を読む」
「日興『三時弘経次第』を読む」
「転輪聖王のこと」
「龍樹の『空』と日蓮の『一念三千』」
日蓮真言批判の問題点」
 「法華真言の用例」
「二処三会は存在しない」
「真蹟遺文に『血脈』の語はない」
「『しうし』か『したし』か」
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/01/07/001135
「宿命は日蓮の思想ではない」
「日華・日仙の御本尊書写のこと」



創価学会内の問題について

「池田青年の入信の事実」
「池田名誉会長のピアノ」
「正木さんの師弟観」
創価学会内部の教義的な分裂について」
「仏法は師弟なのか」
「歴史的役割の終わり」
戸田城聖という人」
「広宣部と言論企画部」
「『実名告発・創価学会』を読む」
「元本部職員3名の精神性」
「元職員三人の今後の資金繰り」
「原田会長、財務と青年の育成について」
「財務の問題と昭和52年の問題」
「『人間革命』という用語」
「ここが変だよ。創価学会の選挙」
創価学会の選挙戦①公示前」
創価学会の選挙戦②KとFとZ」
「『アンチ創価学会』のこと」
「昭和54年の辞任問題」
「宗創問題について①平成2年7月〜12月」
「宗創問題について②平成2年7月以前のこと」
「宗創問題について③平成2年〜平成3年」
「『南元センター』について」

◯史実の検討について。

富木常忍と文書の管理体制」
日蓮の出自は『旃陀羅』か」
「『是生房』か『是性房』か『是聖房』か」
「大乗非仏説と大乗仏教運動について」
「諸々の事象は過ぎ去る」
最澄空海の関係について」
「五時八教について」
「法華三部の発想」
「日興は四老僧と敵対していない」


長井秀和さんとの対話シリーズ

「その1」
「その2」



◯ブログ「仏教と批判的合理主義」Libraさんとのメールによる対話シリーズ。

Libraさんとの対話
Libraさんとの対話その2
Libraさんとの対話その3
Libraさんとの対話その4
Libraさんとの対話その5

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池田と日寛。





いつもみなさん、ありがとうございます。



そもそも少しでも文献を読めば、池田大作氏の日蓮理解が大石寺26世・日寛由来のものであって、それらには限界があるということはすぐにでも理解できるものです。


「池田哲学とは何か」


例えば池田氏が『法華経の智慧』その他で『御義口伝』を重視するのも日寛教学の一環であって、それらは日蓮本人の真蹟に依拠しているとは厳密に言えないわけです。


池田門下とか池田氏の弟子を自称する信徒の方はこのことを客観的に見ることができない方が多いと思います。
というか、池田氏を次代の思想として再評価し、後世に思想として遺していくなら、このことを無視できないはずです。
つまり池田氏が単なる日寛の再解釈者に過ぎないとすれば、彼の評価は日寛以下になり、所詮日寛をきちんと読めば良いということになります。つまり池田氏は日寛を現代において再評価した人物に過ぎないということです。



もし池田氏を日寛以上の人物として評価するなら、池田思想が日寛思想を越えるエレメントを著作中から見出す必要があるでしょう。
それが「人間革命」思想であるとするなら、その「人間革命」思想とは何か、きちんと説明する必要があるように私は思います。
その根拠が日寛を越えるものではないとすれば、池田氏は日寛を越える存在ではないでしょうし、創価学会員は池田思想を学ぶ前提として何よりも日寛を学ばなければならないということになろうかと思います。









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日蓮の空観への評価。








いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私自身の疑問なのですが、日蓮本人は空思想に関してどのように考えているのでしょう。



法華経では薬草喩品や信解品等で、ナーガールジュナ以来の「空」思想が説かれています。
ところが日蓮の遺文を読むと、確かに智顗を評価しながらも、どこか空思想を低く評価するような部分が散見されるんですね。


「迦葉・阿難等は仏の滅後・二十年・四十年住寿し給いて正法をひろめ給いしは如来一代の肝心をこそ弘通し給いしか、而るに此の人人は但苦・空・無常・無我の法門を詮とし給いしに今・馬鳴・龍樹等かしこしといふとも迦葉・阿難等にはすぐべからず」
日蓮『報恩抄』創価学会版御書全集、326ページ)


法華経薬草喩品において、空観が説かれているのは周知のことですが、日蓮はこれらの空思想についてはあえて無視しているような印象を私などは抱きます。


私は薬草喩品の思想は再評価されるべきと考えていまして、そのことについてはブログで書いたこともあります。

「薬草喩品について」


『唱法華題目抄』や『観心本尊抄』から見れば、日蓮が天台智顗の一念三千や一心三観を高く評価していたことがわかるのですが、真蹟から見ればどこか日蓮は空観を語ることを避けている印象があります。


日蓮の再評価にあたって実はこの辺が重要で、日蓮本人が空観をどのように考えていたのかということを定立することで、一念三千説の再評価も変わってくると私は考えています。



生活実感でしか教団の正統性を語れない会員。








いつもみなさん、ありがとうございます。
ところで、ブログやSNSにはいろんな考え方を持つ方々がいらっしゃるものです。
私などは非活メンバーなんて言いながら実質的には退会者みたいな考え方に近いのでしょう。大石寺創価学会等の教団の提示する教義になんら共感を抱きませんし。



さて創価学会の教団自体を擁護する議論が会員側から出ることはむしろ自然なことです。
ただいくつかのブログを見て興味深かったのは、教団内部に「熱狂的な会員」がいることを認め、それら「熱狂的な会員」も「熱狂的なアンチ創価」の両者に対して違和感を表明するというものです。


つまり教団内部には創価学会の論理で比較的平和に静かに暮らしている一団がいて、それらから見れば殊更に師弟を強調する「熱狂的な会員」にも違和感を抱き、同時に自分たちの静かな暮らしを否定されるような「熱狂的なアンチ創価」の議論にも違和感を抱くというようなスタイルです。


どのような意見も自由なので、誰が何をどう考えてもそれは教団が口を出す問題ではありません。何を思っても自由だし、何を考えるのも私は思想信条の自由だと考えています。


ただ不思議に思ったのは、これらの議論の中で「熱狂的な会員」や「熱狂的なアンチ創価」の両者に対して違和感を抱きながらも、なぜか彼らをブログ等で明確に否定していないことです。


つまり「熱狂的な会員」が教団内部にいることは若干問題視している感覚なのですが、だからといって彼らを否定するわけではなく、「そこに私は与さない」という静観の姿勢で一貫しているのです。



本来創価学会の論理は『如説修行抄』に見られるような「折伏」の論理です。相手の低い教え(この言い方が私は好きではありませんが)に対してそれを許すならばそれは「摂受」に過ぎず、本来の慈悲であればそれを「折伏」して悪を切ることが正しいと教えてきたのかと思います。


ところが「熱狂的な会員」に対しても「熱狂的なアンチ創価」に対しても違和感を抱いていることは認めつつも、明確に否定することがない。つまりそれらを妥協して許してしまっているという風に一部会員の目から映ることは仕方がないと思います。


創価学会が教学を軽視し、会員に学ばせることを避けてきた結果、教団の正統性を語る際に「生活実感」とか「感覚」でしか正統性を語ることが出来ず、教義の問題は「あまり勉強してないのでわかりません」くらいの議論で許されるような風潮を教団内部に醸成してきてしまった、そのことが様々にアドホックな後付け理屈でしか語れない原理主義的な会員を生み出した一因であると私は考えています。



「生活実感でしか会の正統性を語れない会員」と「池田大作原理主義的な会員」は実はコインの裏表なのだと思います。



創価大学閥と池田絶対主義。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さてここ数日は大木道惠さんとの会話で思ったこと、話したことを少しずつ思い出しながら書いています。



話の中で出たのが正木正明氏という人物についてです。


「正木さんの師弟観」

創価学会内部の教義的な分裂について」


これらブログでも書きましたが、正木氏という人物は異様なほどに在家主義を強調し、池田氏を絶対的な存在とする「池田絶対主義」のような考え方をしていました。
私は活動家時代に巣鴨の戸田記念講堂で彼の指導を聞いたこともあります。違和感もありましたが、当時創価大学出身の幹部たちの多くがこうした考え方に傾斜していましたので、それらの中の一人なんだろうなという認識でした。



創価大学というところは、あくまで大学であり、自由な雰囲気もありますが、学生の中には親からの二世会員も当然多く含まれています。
で、創大に入った学生たちは「自分にとっての池田大作とは何か」と延々と答えの出ない議論をしていく傾向が少なくともかつてはありました。これらの話し合いは多く男子寮や女子寮で行われることも多かったです。
とりわけ滝山祭という行事が存在していた平成6年頃までは、学生の間にそのような傾向が強く感じられたものです。現在はカリキュラム変更のため、滝山祭は廃止されています。


私の見方からすれば、正木氏のように池田氏を絶対視する考え方は、多くの創価大学生に見られる特徴でもあります。もちろんそうでない学生もいますが、少なくとも一定数の池田原理主義者を生み出していった事実はあると実感として考えています。


大木道惠さんのお話によりますと、正木正明氏が理事長職から降格、事実上の更迭となったのは、池田香峯子氏の意見によるところが大きいようです。
確かに正木氏の更迭以降、信濃町の執行部は東京大学閥が強まり、創価大学閥はどちらかといえば方面幹部や中間管理の役職につくような若干格下げの位置付けになっているように思います。



創価大学は学生たちがとても仲の良い大学です。創価学会員さんは世間から蔑まれ、疎んじられることも多いので、その中で創価大学という場所が学生にとって互いを認めることができる場になっていることも事実でしょう。そのため彼らは自由に伸び伸びと創価学会の信仰の問題を仲間と論じることも多いんですね。


創価学会以外の世界を知らず、仲間内の社会の中で信仰を認め合うにつれ、次第に自分たちにしか通用しない思考の枠を持つようになります。私はそういう学生たちをたくさん見てきました。ですから正木正明さんという人はある意味で創価大学が生み出した鬼子なのだと思います。そしてそのように池田氏を絶対視する学生たちも多く創価大学から輩出されてきました。



正木正明氏の理事長職解任、その後の信濃町執行部の創価大学閥排除の雰囲気の原因はその辺にあると私は考えています。多くネット上で創価学会執行部を批判して池田氏を絶対視する多くの原理主義的な会員もまた同じことで、彼らは自分たちの思考の陥穽に嵌まってしまい、池田氏を絶対視することでしかアイデンティティを保つことができなくなっているのかと思います。





守るべきものを持たない。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さてTwitterにアカウントを持ってから、いろんな方からご教示を頂くことが増え、とても嬉しいです。一緒に食事に行ったり、勉強をしたりと楽しいことが増えてきました。感謝しています。
ところでそれに伴い、大石寺系信徒さんから絡まれることも増えたように思います。


議論の過程をご覧になっているフォロワーさんもおられるようです。
大石寺系教団では「法論」と称して、教えを正邪を判定する対論を重視したりします。が、私はそんなのはもうどうでもよいと思っています。


私はブログでも以前に書いたように、広宣部のメンバーとして顕正会さんや妙観講さんたちとの対論の現場に立ち向かい、散々やりあってきた人間です。自分でも恥ずかしくなりますが(笑)。



私は創価学会の非活メンバーとなり、信仰の意味を問い直しています。ですから私には守るべきものがありませんし、守るべき教義とか形式等を持っていないのです。
翻って、創価学会大石寺系教団の人たちは自分たちの中に絶対のものがあり、それが例えば「池田大作」だったり「戒壇本尊」だったり「御法主」だったり「日蓮」だったり「牧口常三郎」だったり「法華経」だったりします。彼らはそれらを守るために法論をしているのです。ですから守るべきものが崩壊しかねない史実や文献の存在に感情的に反発するより他なくなってしまうのです。



ところで、大木道惠さんが以前指摘されていたことですが、大石寺法華講の多くは戒壇本尊を否定できなくても、逆に伝統的に旧来から存在する大石寺信徒さん(大木さんの言葉を借りれば「伝統講」ですが)は、戒壇本尊が後世の偽作であることなどとっくの昔に知っているんですね。
伝統講の方々はそれらを知った上で純粋に細々と信仰を続けています。
大木さんの指摘によれば、大石寺戒壇本尊はすでに数回作り直されています。私は「少なくとも3回程度」だと考えていましたが、大木さんは「すでに5〜6回くらいは作り直されていて、かつて大石寺に昔あった戒壇本尊と今のものは全く別のもの」だとのことです。
そのうち、今の戒壇本尊も作り直すのかもしれませんね(笑)。



閑話休題。形式とか化儀など、私にはどうでもよいことです。また池田大作さんとか戸田城聖さんとかも私にはどうでもよいことです。
守るべきものに固執するからこそ、議論が護教的になり、視野が狭くなるような気がします。
一度一切を疑って全てを見つめ直す時に、人は新たな視点を見出せるのではないでしょうか。





題目のあげ方を知らない。






いつもみなさん、ありがとうございます。
さて大木道惠さんとお会いした時の話を昨日の回から載せています。


ブログ「大木道惠の創価学会問題とその周辺」


大木さんからはその後、Twitter等でも様々にご教示を頂き、感謝しています。いつもありがとうございます。



ところで、大木さんのお話で興味深かった点は「創価学会員も大石寺法華講もお題目のあげ方を知らない」という主張です。



このように書いている私自身、今は大石寺系教団信徒があげる題目に呪文のような違和感を感じていますが、かつて私も山ほどお題目を唱えてきました。
私は3歳の頃からすでに五座三座の勤行をしており、昔から病気を患っていたので暇さえあれば題目をあげていました。私の母は柏原ヤスさんに指導を聞き「題目を誰よりもあげた子は誰よりも幸せになる」とかわけのわからない指導に感動し(苦笑)、私は母とともによく題目を唱える子どもとして育ちました。
圏幹部の時に男子部員の本部別の題目表を個人会館に貼りましたが、競争意識から私個人の題目表を貼りました。本部の男子部員が一丸になっても私のあげる題目表に追いつかなかったくらいです。休みの日、会合がなければ私は朝から晩まで題目を唱えていたものです。



今は全くそんな題目のあげ方をしていません。
私はここでどのように題目を唱えるのが正しいのか、語ろうとは思いません。答えは各人が自分で見出していくものであるはずだからです。


私はブログで過去にいくつか示唆的に書いていますが、日蓮の題目に「諸教の包摂性」と「一心三観」という場を見なければ、題目を唱える場はなんら意味がないと考えています。
そもそも日蓮は本尊を「観心の本尊」と捉えていますし、また『唱法華題目抄』でも「愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし」と書いています。



題目をあげる、そのあげ方ですが、何も教団の提示するあげ方に固執することもありません。
自分ならどう思うのか、日蓮は本来どう考えたのか、日蓮は正しかったのか、それとも間違っていたのか、そういったことをきちんと検証し、思索の上で題目を唱えていきたいと私などは考えています。