気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

ブログの紹介を。

最終更新:2017年6月25


当ブログにお越しいただき、ありがとうございます。また毎回読みにきてくださる方も多く、本当に感謝しています。

当方、元バリバリの活動家だった非活の一創価学会員が、創価学会の現在や教義の問題等を勝手に気楽に語る、非常に趣味的なブログであります(笑)。
なお、このページは随時編集、リンクを追加していきます。


Twitterアカウント
@mwP0s8t4fiA7LWQ

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◯自己紹介、自身の立場の表明として

「自身の過去の告白と総括」




◯教義の問題について

日蓮本仏論について」
釈尊を本仏とする文証」
日蓮本仏説の萌芽」
「弘安2年の戒壇本尊は日蓮の造立ではない」
「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」
「興門流の各文書に見る戒壇本尊への疑義」
 「『余は二十七年なり』って」
「他宗批判と諸教包摂ということ」
「無作三身のこと」
「五時八教について」
戒壇本尊と『御本尊七箇相承』との相違」
「『御本尊七箇相承』から考える」
「阿部日開氏の『二千二百二十余年』」
「万年救護本尊について」
『百六箇抄』の問題点①経巻相承
『百六箇抄』の問題点②男尊女卑思想
『百六箇抄』の問題点③史実との不整合
「諸天の勧請」
「日道『三師御伝土代』を読む」
「日興『三時弘経次第』を読む」
「転輪聖王のこと」
「『しうし』か『したし』か」
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/01/07/001135


創価学会内部の問題について

「池田青年の入信の事実」
「池田名誉会長のピアノ」
「広宣部と言論企画部」
「『実名告白  創価学会』を読む」
「元本部職員3名の精神性」
「原田会長、財務と青年の育成について」
「財務の問題と昭和52年の問題」
「『人間革命』という用語」
「ここが変だよ。創価学会の選挙」
創価学会の選挙戦①公示前」
創価学会の選挙戦②KとFとZ」
「『アンチ創価学会』のこと」
「昭和54年の辞任問題」
宗創問題について①平成2年7月〜12月
宗創問題について②平成2年7月以前のこと
宗創問題について③平成2年〜平成3年



◯史実の検討について。

富木常忍と文書の管理体制」
日蓮の出自は『旃陀羅』か」
「『是生房』か『是性房』か『是聖房』か」
「大乗非仏説と大乗仏教運動について」
「諸々の事象は過ぎ去る」
最澄空海の関係について」


長井秀和さんとの対話シリーズ

「その1」
「その2」



◯ブログ「仏教と批判的合理主義」Libraさんとのメールによる対話シリーズ。

Libraさんとの対話
Libraさんとの対話その2
Libraさんとの対話その3
Libraさんとの対話その4
Libraさんとの対話その5

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教学試験はマークシート。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて創価学会の教学試験は、任用試験どころか、ついに3級試験さえもマークシート方式になりました。




教学の停滞はどうにもならないですね。



だいたい一心三観も知らない。宗教の五綱も知らない。五重の相対も知らない。一念三千も知らない。戒定慧の三学も知らない。法華経も読んだことがない。方便品に何が書いてあるのか知らない。寿量品に何が書いてあるのか知らない。譬喩品の三車火宅も知らない。安楽行品の内容も知らない。大石寺の教義も知らない。開目抄さえ通読できない。立正安国論でさえ自力で通読できない。


それで仏教なんて言えるんでしょうか?
知らないことは恥ずかしいことだと私は感じています。ですからいろんな方から勉強させて頂いています。




五一の相対も知らない人が多いんですけど、とりあえず知らない方が信濃町首脳部としては教義改正に都合がよいのでしょう。抵抗がなさそうですし。
現行の信濃町の教義改正の動きに異議を唱えている人の多くが、大石寺教義、日寛教義という後世の創作で固定観念を持ってしまっていて、そこを原理的に疑えなくなっているのも大きな問題かと思います。


マルクスは「一切は疑い得る」と言いましたが、いっぺん全ての教義をもう一度見直してゼロから学ぶことが必要かと思います。

牧口思想について。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて最近様々な方から応援メッセージ等を頂き、本当にうれしいです。いつも感謝しています。


ところで、とある方から牧口思想についての示唆深いメールを頂きましたので、一部を紹介したいと思います。


この方は牧口常三郎の『人生地理学』の国際競争の考え方について「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」「人道的競争」と競争形式が変わっていくことを示し、次のように指摘されています。




「これから考えると、牧口が軍事的戦争を否定的に考えていたことはいえそうに思えます
ただし、牧口のいう人道的競争とは、『軍事政治経済的競争を人道の範囲において行う』という消極的なものであって、
創価学会の言うところの平和主義とは異なるものかと思います。
また、競争形式の変更は生命尊重、人道的見地からの変化ではなく、単に経済合理性によるものですので、
ここから、創価学会が主張する
『牧口は人道的競争という言葉を使ったから、平和主義だ』
と牧口思想の人道性を主張するのは無理があるでしょう。
それがまかり通るのは、御書同様、牧口全集も読まない学会員が多いからです。

以上の事から私の私見ですが、

牧口は戦争自体には、経済合理性の側面から言って賛成ではなかった。
ただし、政治のオプションとしての武力行使は否定しておらず、
太平洋戦争については、消極的ながら賛成だったし、戦争するからには勝つべきだと考えていた。
付け加えると、戦争に勝つには天皇法華経に帰依するしかなく、このてんにおいては日蓮とよく似た思想を持つ
国家主義者だった。

というところかと思います。」



非常に説得力のあるご意見かと私は思います。
確かにこの信仰で大東亜共栄圏の新秩序を作るとか、そんな発言も牧口氏はされていますから、基本的に「政治のオプションとしての武力行使は否定していない」とする見解は非常に腑に落ちました。

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どう読むかは自由。



いつもありがとうございます。





アンチ創価の人たちにもいろいろいらっしゃいますが、日蓮の御書にひたすら依拠して信仰の基礎を確立しようとする人もいます。とても良いことだと思います。



やらなければならないことは真撰の日蓮遺文をきちんと読み、偽書の疑いが濃厚な遺文についてはどのような見解に立つのかを明確にすることでしょう。



つまり真蹟に
「このような思想がこの真蹟遺文に書いてある」
「だからこの遺文が真筆である蓋然性は高い」
という風に、客観的な例証で日蓮をどう読むのかということに一定の答えを出せればよいのだと思います。



たとえば私は最蓮房宛の一連の遺文をここで書きたくても書いていません。その理由は最蓮房宛の書状の全てが真蹟不存であり、また内容も真蹟遺文中にほとんど見られない天台法門のものが多いからなんですね。
学説的には最蓮房を架空の人物とする説まで存在したようですが、現在では最蓮房という人は実在したと考えられているようです。



私はそのための準備はしています。準備が整い次第、ここで書きたいと考えていますが、現状では難しいと思っています。



大切なことはどんなことを考えても、何をどう読んでもそれは思想上の自由です。
言論の信用性は、客観的な記述と普遍性の説明によって初めて他者から得られるものかと思います。



ですから私を批判するのも自由です。
私も原則としてどんな思想を持っていても、それがある故に非難されるべきではないと考えています。
思想が浅薄なものかと、それとも普遍性のあるものかは第三者が判断すべき問題で、その中でより普遍性があり、時代性に合致した思考の型が創価学会の今後に現れることを願ってはいます。








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安楽行品について。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今日の記事は、法華経安楽行品第14(サンスクリット本・第13章「安楽な生活」)から少し引用したいと思います。



「…………このように、求法者の乗物に乗った誰かの心を混乱させるようなことを語らない。そして、彼は教えに関する争いを好まず、また教えに関して争いをせず、しかもすべての人々に対する慈しみの力を捨てることはない。彼はすべての如来を自分の父と思い、すべての求法者を自身の教師と思うのである。そして、この世の十方に求法者がいれば、彼は絶えずかれらに懇願し、かれらを崇め尊んで礼拝する。しかも、彼は教えを説くにあたって過不足なく、教えのいずれの部分にも平等に愛情を注ぐ。まして、この経説を宣揚するにあたっては、教えに対する愛情とはいえ、誰かを特に依怙贔屓することはない。
マンジュ=シュリーよ、この第三の特性をそなえた求法者は、如来が入滅したあとの正しい教えが滅ぶ最後の時世にいるにもかかわらず、この経典を宣揚するが、楽しく交際して暮らし、他を害なうことなく、この経説を宣揚するのである。そして、かれらは彼がこの経説を説くのを聴き、その言葉を信じ、その言葉を頼りとし、それを心にとどめ、理解するとともに、この経説を書き写し、また書き写させ、また一巻の書物として、崇め尊び、敬慕し、供養するであろう。」
(『法華経』(中)岩本裕訳、263〜265ページ)



法華経安楽行品から私が見出すのは本来「教えに関する争いを好まない」信仰者の姿です。
「教えに関する争いをする」のは法華経安楽行品の精神とは違うものだと私は思います。
ましてお互いを口汚く罵りあう大石寺信徒や創価学会信徒が法華経安楽行品の精神に則っているとは到底言えないと私は思います。




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日有はまだ日蓮本仏説ではない。





いつもありがとうございます。
ところで私は創価学会大石寺の唱える"日蓮本仏説"というものは大石寺9世日有が言い出したものとは考えていません。


日蓮本仏説の萌芽」


この中で書きましたが、そもそも日有は『有師化儀抄』において日蓮本人を「当宗の本尊」としています。このことから日有は「日蓮=本仏」説をとっているとは言えないと私は考えています。


日蓮を「末法の釈迦仏」とするのは保田妙本寺の日我の『化儀秘決』であって、おそらくは16世紀の頃です。
その後の大石寺日精は御影堂を建立しましたから、大石寺自体は17世紀に入ってもまだ日蓮本尊説を採っていたと私は考えています。


大石寺において日蓮本仏説が現れるのは26世の堅樹院日寛からであり、おそらくは保田の「日蓮=釈迦仏」説が先行して大石寺流入し、後に日寛がそれを教学体系として確立したということでしょう。そもそも日寛は細草檀林の出身です(日寛は1689年に25歳で細草檀林で修学しています)から、中古天台口伝法門で言われる「天台=本仏」「釈迦=迹仏」説を換骨奪胎し、現在に繋がる大石寺教学を作ったのだと考えています。


日蓮本仏論について」


しかしながら日蓮自身が釈迦を「本仏」として釈迦仏に題目を唱えていたことは事実なのであって、例えば『祈祷抄』(真筆曽存)でも「釈迦仏独(ひとり)・主師親の三義をかね給へり」(御書1350ページ)としています。
他にも真筆遺文中で日蓮は「本仏とは釈迦である」ときちんと書いて残しています。


釈尊を本仏とする文証」



自分の頭で考える。






いつもみなさん、ありがとうございます。


私は以前、こんなブログを書いています。



「底の浅い思想は消え去る。」





要するに程度の知れる底の浅い思想はいずれ力を失って歴史の試練に耐え得ずに消え去るということです。
書物がまさにそうですが、どんなにベストセラーと持て囃されても、数年の後に大抵は忘れ去られていきます。つまりその場だけの、その時だけの人気を得ただけで、歴史の試練に耐えることができないのです。



私はかつて創価学会大石寺の信仰がそのような深い思想であると浅はかに考えていました。
ところが検証を始めてみると、いろんな穴が出てきて大変です。
自身の力で(釈迦の言葉を借りれば「自灯明・法灯明」で)、信仰を確立できることこそが、本来の釈迦の教導の目的であったことを私は『大パーリ・ニッバーナ経』から学びました。



他者を批判することは自由です。しかしそれが批判だけで終わるなら、なんら自身で思想を確立することもできずに終わってしまうでしょう。そんな方の多くがブログで散々他者を批判したあと、いずれ書くことがなくなってしまうのです。


どこかの教団に依拠して借り物の思想で他を批判することは私の流儀ではありません。
上記のブログ記事でも書きましたが、創価学会大石寺信徒も自分の頭で日蓮思想の検討をすることができなくなっています。思考の型が足枷になって今までのものを疑うことができなくなっているんだと思います。



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