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気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

ブログの紹介を。

最終更新:2017年5月24日


当ブログにお越しいただき、ありがとうございます。また毎回読みにきてくださる方も多く、本当に感謝しています。

当方、元バリバリの活動家だった非活の一創価学会員が、創価学会の現在や教義の問題等を勝手に気楽に語る、非常に趣味的なブログであります(笑)。
なお、このページは随時編集、リンクを追加していきます。


Twitterアカウント
@mwP0s8t4fiA7LWQ

管理者メールアドレス
kirakuhikatsu(@)gmail.com
ご意見、ご感想、応援メッセージ等ありましたら。
メールを送られる際は(  )を外して送信ください。



◯自己紹介、自身の立場の表明として

「自身の過去の告白と総括」




◯教義の問題について

日蓮本仏論について」
釈尊を本仏とする文証」
日蓮本仏説の萌芽」
「弘安2年の戒壇本尊は日蓮の造立ではない」
「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」
 「『余は二十七年なり』って」
「他宗批判と諸教包摂ということ」
「無作三身のこと」
「五時八教について」
戒壇本尊と『御本尊七箇相承』との相違」
「『御本尊七箇相承』から考える」
「阿部日開氏の『二千二百二十余年』」
「万年救護本尊について」
『百六箇抄』の問題点①経巻相承
『百六箇抄』の問題点②男尊女卑思想
『百六箇抄』の問題点③史実との不整合
「諸天の勧請」
「日道『三師御伝土代』を読む」
「日興『三時弘経次第』を読む」
「転輪聖王のこと」
「龍樹の『空』と日蓮の『一念三千』」


創価学会内部の問題について

「池田青年の入信の事実」
「池田名誉会長のピアノ」
「広宣部と言論企画部」
「『実名告白  創価学会』を読む」
「元本部職員3名の精神性」
「原田会長、財務と青年の育成について」
「財務の問題と昭和52年の問題」
「『人間革命』という用語」
「ここが変だよ。創価学会の選挙」
創価学会の選挙戦①公示前」
創価学会の選挙戦②KとFとZ」
「『アンチ創価学会』のこと」

◯史実の検討について。

富木常忍と文書の管理体制」
日蓮の出自は『旃陀羅』か」
「『是生房』か『是性房』か『是聖房』か」
「大乗非仏説と大乗仏教運動について」
「諸々の事象は過ぎ去る」
最澄空海の関係について」
「『摩訶止観』と『次第禅門』」


長井秀和さんとの対話シリーズ

「その1」
「その2」


◯ブログ「仏教と批判的合理主義」Libraさんとのメールによる対話シリーズ。

Libraさんとの対話
Libraさんとの対話その2
Libraさんとの対話その3
Libraさんとの対話その4
Libraさんとの対話その5

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選挙支援活動の欺瞞。




いつもみなさん、ありがとうございます。


ところで、創価学会の選挙戦で最大の欺瞞は、実質として選挙支援をしているにも関わらず、公式にはそれらを「友好活動」としていることかと思います。


選挙のお願いをすることを創価学会内では「F」と言いますが、このFとはフレンドのことです。公式には友人の拡大戦をやってるだけで選挙支援とかじゃないよ〜ってことなんです。

ですから聖教新聞紙上でも「豊島が激戦!」とかそんなことを寸鉄で書かれますよね? 会員の方はみんなあれを見て「豊島区の公明党の選挙情勢、大変なのね」ってわかるんですけど、紙上には「公明党」とか「選挙の情勢」とか一言も書かれないんですよ。


つまりこれは創価学会の公式発表としては「私たちは友好活動をやってるだけなのよ〜」と言ってるだけなのです。


私が欺瞞だと思うのは、聖教新聞紙上で友好活動だと称しているものの実態が実際には公明党の選挙支援のことではありませんか?ってことです。




学術的な研究と信仰の問題。




いつもみなさん、ありがとうございます。


ところで宮田幸一さんの研究を待つまでもなく、日蓮本仏説も、また現今の大石寺教学の多くの教義もそれらを裏付ける一次史料に乏しく、日蓮の直接の教えとは言えないのではないかと考えられています。


今日のテーマはそこではなく、今日問題にしたいのは、それらを聞いた古参の会員さんたちのネット上に見られる態度というか信仰の姿勢の方なんです。


例えば戒壇本尊に疑義が濃厚であることは、『御本尊七箇相承』との相貌の相違、また一次史料の文献中に具体的な言及がないことからも推察できます。
で、それを知ってしまった人たちの中で「学問と信仰は別だ」として、自分たちの信じる本尊が正しいと言い切ってしまう方が出てきているんですね。



むろん信仰は個人の内面の問題です。それらを信じるのも自由です。
けれど頭の中で戒壇本尊に疑義があることがわかっていながらも、いざ信仰の段になると「私の信仰は正しい。なぜなら私の信仰はかつて正しかったからだ」みたいなトートロジーしか言えなくなってしまっているんです。


つまりこういう方々は個人の信仰体験によって今後の教勢拡大をしていくのだと察しますけど、それって果たして社会的に普遍性をもって受け入れられるものなのでしょうか。


だって「この御本尊は正しいんだ。やってみたらわかるよ、やってごらん。僕もやったらすごかったんだ」だけでは、さすがに説得力がない気がするんですね。
「この御本尊はこれこれこういう経緯で今、ここにあるもので、真偽の問題に関して当会はこういう観点からクリアしていると考える」とすれば、そういう説明なら一定の普遍性を持つかと思うんですね。



創価学会の方にわかりやすく言ってしまうと、こういった方々は「文証」よりも「現証」面で信仰の問題を論じているんですね。
別にそれはそれでも構わないのですが、結局のところそれでは普遍性を保持し得ないんじゃないかなぁというのが私の率直な考えです。




Libraさんとのメール対話その7





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回のLibraさんとのメール対話は、創価学会の会則について、私が単純にLibraさんに教わったものです。Libraさんはカール・ポパーを引用しつつ、現今の創価学会の快速が「専制」になっているとご指摘しています。なおLibraさんのメールのタイトルは「専制、専制、それは専制」でした(笑)。




【Libraさんからのメール】


   気楽非活さん、こんにちは。

 貴ブログの読者さまの中には「教義の話ばっかりじゃ面白くない」とお感じになられる方も多いかもしれないので、今回は、教義のことではなく、創価学会の組織制度の面について書いてみたいとおもいます。タイトルは、「専制、専制、それは専制」とでもしておきましょう。

 わたくしは、16年前に、当時の会長であった秋谷さんに対して手紙を書き、次のような不満を述べました。

 「現在の創価学会が、教学面においても、組織制度の面においても、未だ近代化されるに至っていない現状に危機感を抱き、今回、事態の改善を求めるべく筆を取ることに致しました。」(「秋谷会長への手紙」、http://fallibilism.web.fc2.com/z007.html

 現在、教学面においては、松戸行雄さんも現役で活躍されていますし、宮田幸一さんのような方も出てきましたので、すでに近代化への道を歩みはじめていると言ってもよいかもしれません。

 しかし、組織制度の面においては、近代化されるどころか、どんどん悪化しているように思います。これを、現行の会則(http://www.sokanet.jp/info/kaisoku01.htmlにそって確認しておきたいとおもいます。

 創価学会において、教義および化儀を裁定するのは会長ということになっています(第11条)。

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(教義・化儀の裁定)
第11条 会長は、教義および化儀を裁定する。この場合、師範会議および最高指導会議に諮問するものとする。
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 しかし、会長のその裁定も、「三代会長」の指導および精神に基づいて行われるということになっています。

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(地 位)
第10条 会長は、「三代会長」を継承し、その指導および精神に基づき、この会を統理する。
↑─────────────────────↑

 ということは、「三代会長」の指導および精神に反するような教義および化儀は、創価学会では永遠に認められないということになります。

 なぜそうなるかといいますと、創価学会においては、会員の側から会長を合法的に辞めさせる手段が存在しないからです

 会長は、総務の中から選ばれますが(第13条)、その総務は会長が任命するのです(第76条)。その任命もやはり「三代会長」の指導および精神に基づいて行われますから(第10条)、「三代会長」の指導および精神を継承する人しか総務になれません。なので、「三代会長」の指導および精神を継承する人しか会長になれないしくみになっています。

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(選 出)
第13条 会長は、総務の中から会長選出委員会が選出するものとする。
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(総務および総務補)
第76条 総務および総務補は、信仰経験、人格、識見、指導力教学力ともに優れた会員の中から、参議会の諮問を経て、総務会の議決により選出し、これに基づき会長が任命する。
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 だったら、こんな会則は改正したらよいではないかということになりますが、この会則の改正は、総務にしかできないことになっています(第86条)。

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(改 正)
第86条 この会則を改正するときは、総務総数の3分の2以上の多数の議決を経て、会長がこれを公布する。
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 前述したとおり、「三代会長」の指導および精神を継承する人しか総務になれません。よって、今後の改正は、「三代会長」の指導および精神を継承する形でしか行われません。

 秋谷さんに対する手紙でも書いたことですが、カール・ポパーの「統治の二つの主要な類型」で区別するならば、創価学会における統治は、「独裁制」ということになります。

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 また実際、主権のパラドックスを免れた民主的抑制の理論が展開できることを示すことは困難ではない。私の念頭にある理論は、いわば多数派支配が本来良いとか正当であるという教説から出発するのではなく、むしろ専制政治が悪いということから出発するのである。もっと精確に言えば、専制政治を回避しそれに抵抗しようとする決定、ないし提案の採用に基づくのである。
 というのは、統治の二つの主要な類型を区別してよいからである。第一の類型は、流血なしに――例えば総選挙で――排除できる政府から成る。すなわち、被支配者が支配者を解任できる手段を社会制度が与え、またこれらの制度が権力の座にあるものによって容易に破壊されないように社会の伝統が保証するのである。第二の類型は、被支配者が革命成功の場合を除いては――すなわち大ていの場合には全然――排除できない政府から成る。私は第一の型の政府の略号として「民主制」という言葉、第二の型には「専制政治」または「独裁制という言葉を提案する。

(カール・R・ポパー『開かれた社会とその敵 第一部』、内田詔夫・小河原誠訳、未来社、1980年、pp.129-130)
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民主制(先に提案した意味でこの略号を用いたとして)は政治制度の改革のための制度的枠組を与える。それは暴力使用なしの制度改革を可能にし、それによって新しい制度を設計したり古い制度を調整する際に理性の使用を可能にする。
(同上、p.131)
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【私からのメール】


メールありがとうございます。気楽非活管理人です。
創価学会の会則についてのお話「専制、専制、それは専制」(笑)になかなか返信ができませんでした。これは森昌子のパロディかと思いますが、個人的には「今日も元気で」をパロディにして「専制、専制、われらの専制」としてほしかったところです(なんのこっちゃ)。

創価学会の会則について詳しい解説、またカール・ポパー独裁制についてのご指摘ありがとうございました。とても面白かったです。

要約するとこんなかんじになりますでしょうか。違ったらまたメールでご指摘ください。


①「会長」は「総務」の中から選ばれる。
②「総務」は「会長」が任命する。
③「会長」は教義を裁定できる。
④「会長」は「三代会長」の指導や精神性を継承した会を統括することを前提とする。


なるほど、これでは組織の維持のために独裁制を内在していると批判されても仕方がないように思いますね。
ご質問なのですが、会長を辞めさせる場合には会則としてはどういう風な記述が見られるのでしょうか。つまり会長が独走した場合、会は制度的に会長を辞めさせることが可能なのかどうなのかという点です。


創価学会は三代会長を根本にすれば永遠に発展できるなんて、創価学会ではよく言われますが、私にはついていけないところです。




【Libraさんからのメール】


 気楽非活さん、こんばんは。

 ツイッター、はじめてみると面白いですね。他者のレスポンスがリアルタイムで伝わってくるので、自分の誤りに気づけるチャンスも広がるように思います。

 さて、会則の件ですが、現在の会則では「会長が独走した場合、会は制度的に会長を辞めさせること」は不可能でしょう。

 解任については以下のように定めがあります。

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(解 任)
第85条 この会則に定められた中央本部役員、方面本部役員、県本部役員、総務、総務補、師範、準師範およびその他の各種機関構成員がその職務を行なうにつき不適当であると認められるときは、この会則またはこの会の規程に別段の定めのない限り、その選任手続と同様の手続により、これを解任することができる。
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 すなおにこの条文を読めば、会長については解任の規定がないことになります。ポパーがいうところの「独裁制」ということになりますね。

 この問題については、「最高裁判所裁判官国民審査のような仕組みを導入するのがよいと個人的には思っています。何年かに一回、全会員に会長を罷免できるチャンスを与えるという感じです。信心歴何年で投票権が発生するとするのか、投開票にかかるコストを会員の間でどう負担するかなどが問題になりますが、電子式の投票を導入したり、工夫すればよいシステムが作れそうに思います。もっとも、今の会則は、現在の総務の人たちの意識が変わらないかぎり改正できないしくみになっていますので、そこが一番のネックだと思います。
 
 しかし、そもそも、初代牧口会長は、「専制政治」を前時代的なものとみなしています(以下の資料を参照)。

  依法不依人(牧口常三郎
  
  信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎

 「会長は、『三代会長』を継承し、その指導および精神に基づき、この会を統理する」と定められているのですから(第10条)、初代会長の精神に基づいて、現会長は、すみやかに会則を民主的なものに改めてほしいものです。



緩慢な終わりを迎えて。





私、基本的に楽しいことしかやりません。

楽しくないことを苦行みたいにやるのはまっぴらごめんです(笑)。
自分が好きなことを追いかけて生きていけたら人生って素晴らしいと思うんですね。


創価学会には未来部ってのがありますが、もはや絶滅危惧されていまして、風前の灯火です。
青年部もまた同様でいずれ滅んでいくことは間違いありません。


本当に強い思想というのは残るものですよね。
日蓮という思想家が後世まで残ったのは、日蓮の思想に力があったということでしょう。

で、創価学会の青年部も未来部ももはや絶滅危惧されているわけで、少なくとも日本国内では創価学会はそんなに長く持たないと思います。
そして未来部、青年部層が活動に参加しないという現実は結局のところ創価学会自体が楽しくない、生き生きしない、面白くない、時代にそぐわない、ということなのではないでしょうか。


四者総動員で(実質的には壮年部と婦人部だけ)で、未来部を糾合しようと意気込んでみたところで、未来部員からすれば自分たちの祖父や祖母の年代の人たちから教訓を垂れてもらっても傍迷惑というものです。
ちびまる子ちゃんとおじいちゃんの勉三さんの関係みたいに、両者が両者で楽しく遊んでいる関係ならそれなりにうまくいくかもしれませんね。でも信仰の継承という観点から話をされてもおそらく多くの未来部員は耳を塞いでしまうでしょう。

時代にもはやそぐわないのでしょう。


大石寺は平成2年に創価学会を破門してからは、規模的には本来の興門流の一本山格に戻りつつありますね。
創価学会は緩やかに会員数を減らし続けて緩慢な死を迎えるような気がします。その緩やかな減少の間、数百万人の会員という市場を信濃町が可能な限り収奪するという構図になるかと思います。








相互理解の努力。





いつもありがとうございます。



最近思うんですけど、「極悪を許すな!」という創価学会大石寺の論法ってどうなんでしょうね。

このブログは「気楽に語ろう」とか銘打ってます。個人がどのような信仰を持とうがそれは自由ですし、それらは否定されるべきものではないと考えています。

大石寺信徒や創価学会の一つの特徴は、他宗を徹底的に非難中傷をし、悪役に仕立て上げるという構図です。
誰かを「仏敵」と認定することもそうですね。
選挙なんかになりますと、共産党とか他の政党も極悪扱いします。でも宗教団体が政党組織を悪役認定するってのもどうかと思うんですけどね。


私は一つの思考の型に留まらないことを原則としています。ですからゆえある批判ならそれは受け入れて自身の考え方を変えても別にいいんだと思うんですね。
日蓮自身が佐渡以前と佐渡以降で考え方も変わってきましたし。生きていれば人間の思想なんて変わるものです。
だからこそいろいろ学んで自分も変えていけばよいのだと思います。


自分が変わろうとせず、他者を受け入れようともせず、相互理解の努力を放棄する人は私とはあまり縁がない人たちなのでしょうね。


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阿部日顕さんは学会擁護派。




いつもありがとうございます。
さて阿部日顕さんというと創価学会の方からすると"極悪法主"とか(笑)「天魔日顕」とか(笑)もう最大限の悪口罵詈雑言しか出てきません。
まあ、その理由もわからなくはないんですが、実はもともと阿部日顕さんという方は創価学会・擁護派の立ち位置にいた人なんですよ。
最近はそのことを忘れている方も多いようなので、ちょっと書いてみようと思います。
正信会の問題を考えれば自ずとわかってきます。


昭和50年1月1日に池田会長は大石寺に何も伝えずに御本尊を模刻して、会長本人で本部で入仏式をするという荒技をやってのけました(笑)。さらに大石寺に対して御本尊を模刻したことも入仏式やったこともあとで事後報告ですませるという(笑)。


で、その後、昭和52年路線が打ち出され「学会の会館は現代の寺院」「僧侶は単に儀式を行うだけの存在」「創価学会は在家でありながら供養も受けられる」等々、見解を発表します。
これらの考え方を大石寺66世の細井日達は批判するわけなんですが、これに宗内僧侶も続くようになります。
で、活動家僧侶たちは学会を退会した檀信徒たちを法華講に組み入れていきます。後に細井日達さんと学会側が昭和53年にいったん和解するんですが、これらの僧侶たちは日達さんの言うことを聞かずに活動を続けるようになります。この活動家僧侶たちは自分たちの運動を「正信覚醒運動」と呼んでいました。これが正信会の起源です。


そして昭和54年7月22日に細井日達氏が亡くなると、阿部日顕氏が相承があったことを主張して法主に登座します。このことで創価学会との対立を回避したいと考えた宗門首脳部と、学会批判を続ける急進的な僧侶・檀信徒グループが対立するようになるんです。
そして翌昭和55年7月4日に「正信会」が結成され、阿部日顕氏には前法主からの血脈相承の事実が存在せず、法主の資格がないと公然と主張し始めるようになります(ちなみにこの時、山崎正友氏は創価学会を退会し、正信会に参加します)。


この時、日蓮正宗首脳部を擁護したのは実は創価学会の方でした。池田名誉会長自身も阿部日顕氏を擁護する側に立ち、学会内では細井日達氏から阿部日顕氏への血脈相承があったと説明していました。そして阿部日顕氏も創価学会との対立を避け、融和を図ろうとしたというのが歴史的な事実です。
ですから阿部日顕氏の時代に池田名誉会長は再び法華講総講頭になっていますし(とはいえ平成2年にはまた罷免されるんですけど・笑)、会内でも公に会員指導が宗門から許されるようになります。


ですから阿部日顕さんは本来学会の擁護派の人だったんです(このことを秋谷さんとか原田現会長とかは当事者だったのでよく知っているはずですよ)。そして創価学会もかつては阿部氏の血脈相承を認めていたという事実があります。そういった過去の発言なんて創価学会日蓮正宗はあまり大事にされないようです。
もっと冷静に、冷厳に史実を見つめた方がよいのだろうと私は思いますね。