気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

本来の釈迦の教えで強調されるのは、信仰や信心ではない。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は以前に紹介したワールポラ・ラーフラの著作『ブッダが説いたこと』から、再び引用し、釈迦の教えとは本来どのようなものだったのかを考える一機会としてみたいと思います。
前回の記事、及びワールポラ・ラーフラという人物について知りたい方は、以下の記事をご覧ください。
 
「自らをよりどころにすること、疑いを持つこと、そして相互理解の精神のこと。」
 
 
「ほとんどすべての宗教は、信仰ーーそれも盲信といえるものーーに立脚している。しかし仏教で強調されているのは、「見ること」、知ること、理解することであり、信心あるいは信仰ではない。仏教経典には、一般に「信仰」あるいは「信心」と訳されるサッダー(サンスクリット語ではシュラッダー)という用語がある。しかしサッダーはいわゆる「信心」ではなく、むしろ確信から生まれる「信頼」というべきものである。とはいえ実際には、民衆レベルでの仏教でもまた仏典中の一般的用法でも、サッダーということばは、ブッダ、ダルマそしてサンガに対する一般的な意味での「信仰」的要素を含んでいることは事実として認めねばならない。
4世紀の偉大な仏教哲学者アサンガ【無著】によれば、サッダーには、
(1)真理に対する全幅の、そして確固たる確信
(2)よい資質に対する本心からの喜び
(3)目標達成に対する熱望と意志
という三つの側面がある。
いずれにせよ仏教は、ほとんどの宗教において信仰あるいは信心といわれるものにはほとんど関知しない。
信仰は、ものごとが見えていないーー「見える」ということばのすべての意味においてーー場合に生じるものである。ものごとが見えた瞬間、信仰はなくなる。もし私が「私は掌の中に宝石を隠しもっている」と言ったら、あなたはそれが見えない以上、私が言ったことが本当かどうか、私のことばを信じるかどうか、という問題が生じる。しかし、私が掌を開き宝石を見せれば、あなたはそれを自分で見ることになり、信じるかどうかという問題は起こらない。それゆえに、古い経典には、こう記してある。
「掌の中の宝石(あるいはミロバラン〔訶梨勒〕の果実)を見るように、真実を見よ」
ブッダの弟子でムシーラという者が、一人の僧に言った。
「友サヴィッタよ、信仰、確信あるいは信心からではなく、気乗りあるいは好みからではなく、評判あるいは伝統からではなく、表面的な理由からではなく、もろもろの意見を検討する喜びからではなく、私はものごとの生成の消滅がニルヴァーナであると知っており、それが見えている。」
そしてブッダはこう言った。
「汚れと不純さの消滅は、ものごとを知り、ものごとが見える人にとってのみ可能なことであり、ものごとを知らず、ものごとが見えない人には不可能である。」
常に問題なのは、知ることと見ることであり、信じることではない。ブッダの教えは、「エーヒ・パッシカ」、すなわち「来て、見るように」という誘いであり、「来て、信じるように」ということではない。
経典のいたるところで、真理の実現は「汚れることなく、錆びることがないダルマの目が生じた」、「彼はダルマを見、ダルマに到達し、疑念を乗り越え、ためらうことがない」、「彼は正しい叡智でもって、ものごとをありのままに見る」などと表現されている。ブッダは自らの「目覚め」に関して、「目が生まれ、知識が生まれ、叡智が生まれ、知性が生まれた」と述べている。肝心なのは、知識あるいは叡智を通じて見ることであり、信心を通じて信じることではない。」
(ワールポラ・ラーフラブッダが説いたこと』今枝由郎訳、岩波文庫、40〜43ページ、2016年、原著1959年)
 
【 】内のみブログ筆者が本書注記より補筆しました。

 
いかがでしょうか。創価学会日蓮正宗等の大石寺系教団の信者さんは、自分たちが信じているもののうち、どこまでが仏教と呼ばれ得るものなのか、きっと考え始めることでしょう。
それが恐らくは正しいことであり、何が本来の教えなのかを自身で求めていくことこそが信仰の出発点なのでしょう。それをせず、頭ごなしに教団の提示する教えを根拠もなく盲信して活動をすることは、本来の釈迦の教えに反することになるでしょう。