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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

初期仏教のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて最近、初期仏教に関する本を一冊読みました。馬場紀寿氏の『初期仏教  ブッダの思想をたどる』という本です(岩波新書、2018年)。
そもそも阿含部・アーガマを大小相対で"小乗仏教"とする安易な大石寺教義の考え方は、Libraさんをはじめ、多くの方にその矛盾点を指摘されています。
私も全く同感で、馬場紀寿氏はここで原始仏教ではなく、あえて「初期仏教」というタームを用いています。


そもそも馬場氏がここで指摘しているように、仏教は誕生後、400〜500年の間に、南アジア各地に伝播していきましたが、発祥の地であるガンジス川流域から飛躍した教えは、紀元前後に重大な変容が起こることになります。
馬場氏はこの変容以前の仏教を「初期仏教」(Early Buddism)と定義して、これを描いていきます。というのは、そもそも「原始仏教」という概念がしばしば紀元前3世紀以前の仏教を指して用いられてきたのですが、この紀元前3世紀以前の仏教について確実にわかっていることはほとんどありません。そのため、焦点を絞るために「初期仏教」というタームを中心に据えるという考え方は理解できる気がします。


さてこの本の中で、最初の序文に書かれたことがとても示唆深いので、今回はこれを紹介してみたいと思います。そもそも本来の仏教とはどのようなものだったのか、これを読むとなんとなくわかるでしょう。気になられた方は同書を手にとってぜひ繙読されることをお勧めします。



「本書では、インドの仏教の中でも『初期仏教』の思想について論じたいと思う。それは、我々が資料にもとづいて実証的に明らかにしうる、最も古い時期の仏教である。
冒頭で私は仏教を『宗教』と呼んだが、じつを言うと、この初期仏教が、近代西欧で作られた『宗教』概念に、あるいは我々が抱いている『宗教』の印象に当てはまるのか、はなはだ疑わしい。
まず初期仏教は、全能の神を否定した。ユダヤ教キリスト教イスラム教で信じるような世界を創造した神は存在しないと考える。神々(複数形)の存在は認めているが、初期仏教にとって神々は人間より寿命の長い天界の住人に過ぎない。彼らは超能力を使うことはできるが、しょせん生まれ死んでいく迷える者である。もし『神』を全能の存在と定義するなら、初期仏教は『無神論』である。
神々もまた迷える存在に過ぎない以上、初期仏教は、神に祈るという行為によって人間が救済されるとは考えない。そのため、ヒンドゥー教のように、神々をお祭りして、願いをかなえようとする行為が勧められることはない。願望をかなえる方法を説くのではなく、むしろ自分自身すら自らの思いどおりにならない、ということに目を向ける。
さらに、初期仏教は、人間の知覚を超えた宇宙の真理や原理を論じないため、老荘思想のように『道』と一体となって生きるよう説くこともない。主観・客観を超えた、言語を絶する悟りの体験といったことも説かない。それどころか、人間の認識を超えて根拠のあることを語ることはできないと、初期仏教は主張する。
宇宙原理を説かない初期仏教は、宇宙の秩序に沿った人間の本性があるとは考えない。したがって、儒教朱子学)のような『道』や『性』にもとづいて社会や個人の規範を示すこともしない。人間の中に自然な本性を見いだして、そこに立ち返るよう説くのではなく、人という個体存在がさまざまな要素の集合体であることを分析していく。
こうした他教だけではない。初期仏教は、日本の仏教ともずいぶんと様相を異にしている。初期仏典では、極楽浄土の阿弥陀仏も、苦しい時に飛んで助けに来てくれる観音菩薩も説かれない。永遠に生きている仏も、曼荼羅で描かれる仏世界も説かれない。
また初期仏教では、修行はするが、論理的に矛盾した問題(公案)に集中するとか、ただ座禅(只管打坐)をするといったことはない。出家者が在家信者の葬送儀礼を執り行うことはなく、祈禱をすることもない。出家者が呪術行為にかかわることは禁止されていた。
初期仏教は、それに代わって、『個の自律』を説く。超越的存在から与えられた規範によってではなく、一人生まれ、一人死にゆく『自己』に立脚して倫理を組み立てる。さらに、生の不確実性を真正面から見据え、自己を再生産する『渇望』という衝動の克服を説く。
先の見えない社会状況の中で不安が蔓延している今日、このような初期仏教の思想は、魅力をかえって増しているように見える。」
(馬場紀寿『初期仏教  ブッダの思想をたどる』ii〜ivページ、岩波新書、2018年)





参考文献:
馬場紀寿『初期仏教  ブッダの思想をたどる』岩波新書、2018年