いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私は何度となく、今は亡き父のことをブログで書くことがあります。
いくつかの記事でも書いたことですが、父はかつて新宿の「第47部隊」で活動する中心的メンバーの一人でした。
父はこの当時、部隊長の石田幸四郎さん(後に公明党の委員長さんになります。石田次男さんの実弟です)とともに活動していました。また同じ部隊ではなかったと思いますが、渡部一郎さんや竹入義勝さんのことを思い出深く語っていたことが思い出されます。
なんでこんなことを書いているのかというと、創価学会も大石寺も過去の歴史を全く大事にしないところがあるからなんですね。すでに父の知人の多くは鬼籍に入られた方がほとんどなので、私の記憶の残る限り、どこかに書いておきたいと思うゆえです。
さて父が青年部時代を回想し、印象深い人物を語った時、二人の名前が挙がりました。
一人は石田幸四郎さんで、もう一人は実は"諸富文紀さん"という人物でした。
父は諸富さんの家に家庭訪問をして、お邪魔したことがあるそうで、当時から大変な読書家であったことを印象深げに話してくれました。
諸富さんは高校の教員をしていましたが、後に本部職員となり、創価学園の設立に尽力をされました。
その後、彼は創価学園の副校長をしながら、授業もしていたとのこと。
1980年から諸富さんは創価大学の教員として働くことになります。彼の最初の功績は教科書『社会科教育法』の編集です。この時に諸富さんが執筆をお願いした一人が関順也さんと言いまして、諸富さんの師匠筋になる方です。関順也さんは創価女子短期大学の学長にもなられた方で、神立孝一さんの師匠でもあります。
諸富さんは大学院で研究された経験が一度もありません。ただただ教育現場の仕事に情熱をもって挺身してきて、創価大学の教員になった方と言えるかと思います。
諸富さんは2001年に創価大学を退職しています。
私の父に限らず、昭和の時代の創価学会には、無名の功労者がたくさんいました。
創価学会は、必要がなければ、そういった功労者をどんどん正史から消していきます。少なくともそういう風に私には感じられてなりません。
父は亡くなる前に「もう一度、諸富さんと会って話したい」と言われていました。
参考文献:
諸富文紀「教壇生活四十年-わたしの足跡-」(退職記念講演)『創大教育研究』第10号所収、2001年。