いつもみなさん、ありがとうございます。
さて創価学会や大石寺信徒さんからよく非難中傷を浴びることも多いのですが、よく言われることの一つに「気楽さんはそのうち仏罰が出るよ」とか「貴方のやってることは堕地獄必定」だとか、現証面での祟りのようなものが起こることを半ば脅迫のように言われることです(笑)。
私は別に功徳も罰もなんら信じてなどいません。そもそも御本尊の両肩には「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」と書かれ、この両文が功徳と罰の証拠であるとまことしやかに大石寺系の教団では言われますけど、そもそもこの言葉は法華経中の言葉でもなく、妙楽湛然の『法華文句記』中の言葉です。
まあそれは置くとしても、では現証面で現在の私はどういう状況に置かれているのでしょう。
非活になってからすでに何年も経ちますが、仕事のストレスは全くありません。毎日楽しく仕事をしていますし、同僚も素晴らしい仲間たちに恵まれています。確かに仕事ならではの厳しさもありますが、それはそれで職場の仲間たちと楽しく向き合うことができていますし、理不尽なことも何もありません。
かつては地区協議会や唱題会、また会館への着任や部長会等で早く帰らなければいけないプレッシャーもありましたが、今は非活になり、ストレスもプレッシャーも何もありません。仕事がたくさんある日は集中して取り組むだけですし、いつもは余裕もあり、帰れる日は早く帰宅して楽しく暮らしています。
毎日楽しく、好きな本を読んで、友人たちと遊び、好きなものを食べて、趣味も充実して、土日は遊びに行きます。貯金もどんどん増えて、ほしいものも今の生活には何の不満も感じません。
友人が増えたことにはとても感謝しています。創価学会を離れると多くの時間ができ、さまざまな人に会う機会を頂くことができました。たくさん勉強もさせて頂いていますし、また楽しく友人たちと交遊して話せることに日々とても幸せを感じています。
ヘーゲル的で、思想的に完成された型や枠を人が持つことを、必ずしも私は否定しませんけど、自分の思考の枠内でしか考えることができなくなり、その思想の外側を志向することができなくなると考えています。
思想的な絶対者を捨てることは自身の思想的な前提を捨てることであり、勇気を必要としますが、一度捨ててしまえば自由な発想で考えることもできるようになり、無用な宗教の桎梏からも離れられると実体験を通して感じています。
今の自由で平穏な暮らしは、そんな宗教的桎梏から逃れた自由さなのかもしれませんね。私はそれを功徳とは考えていませんけど、少なくとも楽しく毎日暮らせていることは確かです。
みなさん、本当にありがとうございます。
みなさんの心遣いに毎日とても感謝しています。