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ところで日興の新六の弟子の筆頭に重須養運坊日代という人がいます。
日代は日興より重須管長の継承があったのですが、このことを示す証拠が西山本門寺の本尊に遺されています。
具体的には「康王2年6月8日」とされる本尊の中に「日興上人、伝燈日代」と書かれています(画像参照)。
また大石寺17世日精は『家中見聞中』において、日目書写本尊の中に「日興上人、伝燈日代」(永徳3年10月)、「日興上人、遺弟日代」(貞治4年7月)と書かれてあったことを記録で残しています(富士宗学要集5-204ページ)。
ということは、歴史的に日興からの相承は複数存在し、大石寺は日目に譲られ、重須北山は日代に譲られたと考えるのが自然でしょう。大石寺が主張する唯授一人の相承などというものは、基本的に後世の創作であるかと私は思います。
参考文献:
柳沢宏道『石山本尊の研究』はちす文庫、増補版、2013年。