気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

南閻浮提のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回のテーマは「南閻浮提」についてです。


例えば『撰時抄』に「これあに像法の中に法華経の実義顕れて南閻浮提に広宣流布するにあらずや」と書かれていまして、日蓮は「広宣流布されるべき土地」を「南閻浮提」としているようです。


そして大石寺系教団も創価学会も、この「南閻浮提」とは「全世界のこと」と考えています。



さてそもそも古来の仏教の世界観では「南閻浮提」とはどのようなものなのでしょう。


『倶舎論』によりますと、須弥山に向かって東西南北に四つの国があるとされています。


それぞれ

東に毘提訶洲(東勝神洲)

南に贍部洲(南閻浮提)、

西に牛貨洲、

北に倶盧洲があるとされています。


そしてこのうち、南閻浮提は人間の住む世界を指しているとされます。


『御義口伝』には「法華経は南閻浮提計りに流布す可しと云う経文なり」(御書781ページ)とあります。『御義口伝』から考えるなら、法華経の功徳は南閻浮提だけに通用するものであり、他の三つの国には行き渡らないことになります。


ところで『西遊記』に出てくる孫悟空は東勝神洲・傲来国の花果山で岩から生まれたと言われています。小説の舞台は中国ですが、これは南閻浮提(南贍部洲)にあるとされます。そして玄奘三蔵たちが向かった天竺は西牛貨洲にあるとされています。


上記の『御義口伝』から素直に考えれば、孫悟空は南閻浮提の生まれではないので、法華経には縁がない衆生になるということになりますし、玄奘孫悟空たちが向かった西域インドの天竺は南閻浮提ではありませんから、法華経には縁がない国々ということになります。



私は別段、南閻浮提を「全世界」と考えるのも自由であるとは思いますが、きちんと考証もせずに過去の教義を丸呑みするだけでは、「南閻浮提」という一つの語句でさえ、きちんとした意味が他者に提起できないのではないかと思います。ですから最近の私は「一閻浮提」という言葉をあまり使わないようにしています。言葉の意味がはっきりしないのに、それを当然の如く使うのは不誠実ですし、誠意ある信仰者ではないと思うゆえです。







船守弥三郎のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は船守弥三郎についてです。




船守弥三郎と言えば、多くの創価学会員さんは「伊豆流罪の際に川奈に流れ着いた日蓮を助けた漁師」とか「海中から出てきた釈迦像を日蓮に捧げた」こと等がよく言われます。このことは『船守弥三郎許御書』(創価学会版御書全集1445ページ)でもよくわかります。



結論から言えば、実は『船守弥三郎許御書』は偽書の疑いが古来から強く主張されています。
そもそも同抄には真蹟が存在しませんし、日興等の古写本さえも存在しません。さらに上述した「海中から釈迦像が出てきた」ことを示している御書はこの『船守弥三郎許御書』だけです。


真蹟が残る遺文から確認する限り、日蓮伊豆国伊東郷に流罪されたことが伝えられるだけで、流罪にまつわる逸話等は出てきません。
では船守弥三郎のことが記録された最古の文献とは何によるのでしょうか。



それは円明院日澄(1441〜1510)撰とされる『日蓮聖人註画讃』です。この中に船守弥三郎の言い伝えが記されますが、これ以前に船守弥三郎が日蓮を助けたとか、海から釈迦像が出てきた等の「船守弥三郎」という名前を見ることができません。
ですから船守弥三郎の逸話は祖滅200年以上が経過した後に作られた伝説の類に近く、それを根拠づける真蹟は存在しないということです。
さらに言ってしまうと、『船守弥三郎許御書』はかつて真蹟が存在したという記録さえ存在せず、最古の写本と呼ばれる本満寺本はなんと祖滅314年後の成立とされるものです。
さらに船守弥三郎が日蓮に仕えたという逸話は、この『船守弥三郎許御書』以外の他の御書には全く述べられていません。


このことから『船守弥三郎許御書』は偽書説が古来から強く主張されていまして、船守弥三郎の言い伝えは、後世の創作による逸話程度に扱うべきであると思います。



多くの創価学会員・大石寺系信徒さんは、そもそも教団が提示するものを無前提に信ずるところから信仰の根本が出発しており、日蓮遺文の多くに偽書が存在することを考えることさえできなくなっているように思います。







御影堂は「本門戒壇本堂」?





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は大石寺17世日精の御影堂についてです。



ところで、大石寺正本堂が建立される際、大石寺は「広宣流布の暁に大石寺は本門寺に名前を変え、本堂の正本尊安置の場所が本門の戒壇になる」と説明してきました。
ですから妙心講(現・顕正会)と創価学会がいろいろ議論をして出ていた当時の結論は、正本堂を現時点で「本門の戒壇」であるとは断定しないということでした。
要するに大石寺的な教義から言えば、現在の奉安堂の本尊も「蔵」という立場であって、それはまだ「本門の戒壇」とは言えないということでしょう。



ところで、大石寺の歴史の中で、自身が建立されたものを「本門戒壇本堂」と命名された人がいるのをご存知でしょうか。
それは大石寺17世日精です。


実は御影堂が建立される際、日精はこれを「本門戒旦本堂」と命名していまして、これは大石寺御影堂棟札にきちんと記載されています。またこのことは大石寺66世細井日達も指摘していますし、宗門の『大百法』でも公式に述べられています(平成20年12月1日)。


以下のウェブ記事が参考になるかもしれません。


日精の『御影堂棟札』には確かに「本門戒旦本堂」と記載されています。


「大施主
松平阿波守忠鎮公之
御母儀鏡台院日詔信女敬白
日精養母也
合力上野講衆等
願主           日精
本門戒旦本堂  寛永第九壬申年
大工石川與重郎家次」


で、この時の『大百法』では細井日達氏の指摘として当時の御影堂に戒壇本尊が安置されていたことを述べています。



ということは、「広宣流布の暁に大石寺が本門寺に名前が変わって、その時の本堂安置の場所が本門の戒壇になる」という教義も決して根拠のあるものでもなく、すでに江戸時代に日精によって一度「本門戒旦本堂」は大石寺に建立されていたということになります。


















創価学会の公明支援の問題点。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私はこのブログ上であまり公明党については批判していません。
今回はその理由を簡単に書きたいと思います。



私は宗教団体がその教義の理想から具体的な政策を考え、政党を組織することは権利としてあって構わないことだと考えています。
同時に宗教団体がその政党を支持することも、また別の政党を支持しないことも、国民の権利としてあってよいことと考えています。


私が最大の問題と考えるのは、宗教団体が内部の一会員に対して、それら特定の政党を支援することを無言のうちに事実上強要しているからです。


もちろんそんなことを言っても信濃町創価学会本部は「会員の政党支援は個人の自由」という建前を主張しますし、彼らも「創価学会員でも公明党を支援してない人は多数存在する」という反論をされるかと思います。


私が言いたいことはそうではありません。
一度創価学会の活動家になると、その方針に対して敵対することで、創価学会内部への反逆者、裏切り者認定されかねないということです。
ですから、創価学会本部の打ち出しに反発をすると組織から「仏敵」認定されてしまう、その危惧を活動家は拭い去ることができないのです。


昭和40年代以降、創価学会は地域に強力なネットワークを持ち、地盤のある互助組織として発展して来ました。
創価学会員の多くは、偏見の目で見られたり、蔑まれたり、宗教的に拒否されることも多いです。まあ、それは過去に創価学会が「謗法払い」と称して他宗を排撃してきたりしたことが背景にあるわけで、自業自得とも言えるのですが、それらへの対抗策として彼らは自分たちで互助組織を形成し、コミュニティを形成することで生きてきたと言うことはできるでしょう。選民的な思想という意味では大石寺と所詮さして変わらないのですが、昭和30年〜40年代にかけて創価学会は地域にそのような共同社会を形成してきたのです。


ですから、その組織から外れるということは、創価学会員からも爪弾きにされ、社会からも爪弾きにされる、言わば社会的に孤立することを多くの場合、意味します。


純粋な創価学会員は、例えば公明党を支援できないと感じると、幹部に指導を受けることが多いです。幹部はそこで当人を納得させ、公明党支援をさせるようにその人に対して働きかけるのです。
創価学会員は多くの場合、そこで自分を納得させ、公明党支援を結果的に選択することになります。



繰り返しますが、私は宗教団体がどんな政党を支援することも自由であると思います。
ただその大切な前提は、個人がどんな主義や主張を構えようと、それらは基本個人の自由であり、それらの個人の思想信条に対しては尊重されなければならないということです。
創価学会が罪深いのは、建前上は「個人の思想信条は自由」と謳っているにもかかわらず、その実、それに反発するとその人が創価学会の地域組織から孤立しかねない"無言の圧力"がかけられるという点です。


そして特定の政党を支援しているのは日本の創価学会組織だけであり、海外のSGI組織には特定の政党支援をするということがありません。


この点に着目しなければ、創価学会の政党支援の闇に踏み入ることができないのだと私は思います。










池田大作の虚像と実像。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回、創価学会の名誉会長である池田大作氏について、私の持つイメージを簡単に書いてみたいと思います。



何度となく私は池田名誉会長について、その「世界的指導者」とか「平和運動家」とか、仰々しい言葉で語られるものを「作られた虚像」であるとしてきました。
例えば私は池田名誉会長のピアノ演奏などについてブログで書いたことがあります。


「池田名誉会長のピアノ」


本来池田氏という人は、創価学会の布教の方法論、また選挙戦の方法論をほぼ現在の形に確立した人です。
地区の名簿から全有権者を割り出し、票数を洗い出し、投票日から勝利の算段を立てる。そして遊撃のような形でいろんな手を打っていく。
央忠邦氏も著作中で指摘していましたが、池田氏は決断が早かったので、即断即決で様々な手を打ち、選挙戦や拡大戦で結果を出してきました。


最大の問題は、池田氏の功績を評価し、讃えるあまりに、池田氏本人と信濃町が一緒になって「平和思想家」とか「世界的指導者」という虚像を少しずつ膨れ上がらせてしまったことです。


本来、池田氏は江戸弁が似合う庶民的な人で、本人自身、青年時代から貧しい生活を送り、結核で苦しんできました。言わば「病人と貧乏人の団体・創価学会」を体現するような人でした。溝口敦氏も「一口に病・貧・争と言われるが、池田はそのすべてを体験した」と述べています。


「私も新潟鉄鋼にいっておったときに、戦争中です。諸君みたいに裕福な勉強もできなかった時代です。軍国主義の真最中ですから。私は肺病でした。今の体の半分しかなかった。血痰をはきながら、行かなきゃなんないが、ずいぶん休んだけども、会社も。国賊みたいに言われたもんだ、近所から。」
池田大作、第2回創友会総会、昭和51年11月6日)


池田氏は入信してすぐはさほど積極的な会員ではありませんでした。


「最初から創価学会の全てが納得でき、戸田先生の言葉が、理解できて信仰したわけではない。信ずることにせっかちな余りの一般会員の強引さや、情熱にまかせて陥りがちな壮士気取りの青年たちの言動に、ひそかに強い反撥を抱いたこともある」
池田大作「自己変革と宗教者」『中央公論』昭和46年7月特別号)


貧しく病気ゆえにやや内向的な性格であった池田氏は次第に少しずつ自身の課題を克服し、信仰の道で生きていくようになります。克服された時、池田氏は功徳と考えたのでしょう。ただ問題は池田氏の思想にはそのような利益主義的な側面と大石寺日寛由来の教義くらいの内実しか存在しないにも関わらず、次第に池田氏が自身の思想を尊大に大きく見せようとし始めていったことです。
具体的に言えば、小説『人間革命』における入信の逸話の創作と事実の隠匿です。以前ブログでも書きました。


「池田青年の入信の事実」


溝口敦氏は次のように述べています。


「池田には庶民の出自として親しめる一面があるが、彼はその権力の肥大化とともに、『若き日』を語らず、語ったとしてもひと理屈つけて自己の偉大さを証するためだけに語るようになる。」
(溝口敦『池田大作「権力者」の構造』講談社、2005年)


御大は昭和40年頃に『御義口伝講義』を発刊しますが、前書きで池田氏本人が述べているように、あの講義の草稿はほぼ原島嵩氏によって書かれたと考えられます(講義をしたのは当然池田氏本人ですが)。当時池田氏原島嵩氏とともに『御書と四条金吾』などを発刊、教学的な基盤を原島氏とともに構築してきました。その最大のポイントこそが「御義口伝を生命論の次元から解釈する」というところでしょう。このへんの視点は原島嵩氏や川田洋一氏に見られたところです。つまり特別書籍のメンバーたちの考えを取り込み、池田氏はそれらを自身の思想として無反省に展開してきたのだと言うことです。


トインビー対談も実質的に書籍代筆グループによって書かれたものです(レコードには対話の全文が収録されていないことからも明らかです)。この対談も実質的に原島嵩氏の生命論的視点から解釈された日寛教学を自在に現代的に駆使した内容でした。


それらを自在に解釈して、自由に話す度量や大胆さのようなものが池田氏にあったことも事実です。池田氏はどこか大胆にスピーチを展開する才覚のようなものがあり、聞き手を巻き込む魅力がありました。そして池田氏周辺もまた師匠の宣揚のために喜んでさまざまな協力をしてきたのです。


池田氏は自身でスピーチ原稿や詩歌、和歌、メッセージ等を書くこともありますが、第一庶務や池田氏の周辺が作ることも少なくありません。つまり代筆の実態は以前から常態化していたと考えるのが自然でしょう。
このことは創価学会元本部職員の三人もブログ中で実態をきちんと告白しています。


「②学会本部の師匠利用の実態と私たちの決意」


例えば会員に激励と称して池田氏の押印和紙等が配られますが、あれは池田氏によって押されたものではありません。本部の第一庶務、会員奉仕局が作っていることは上記の三人組のブログ記事などからも明らかです。


私は池田氏を悪し様に罵りたいのではありません。そうではなく実像をきちんと語りたいだけなのです。
池田氏が貧しい人、弱い立場の人、一会員に見せる思いやりの深さ、優しさのようなものがあったことは事実です。その思いやりによって奮起した会員は決して少なくありません。池田氏にはどこか庶民的な親しみやすさがあり、それはどこか戸田会長にも共通する特徴でもありました。


そして会を爆発的に拡大することに成功した池田氏は次代のリーダーとして頭角を現します。そして次第に日寛教学への過信、自己の確信への過信から、次第に在家主義的傾向を強め、「世界的指導者」という虚像を作り上げてしまったのです。
そこに悪気はなかったはずです。池田氏周辺も、第一庶務や側近、原島嵩氏や川田洋一氏、その他文芸部や国際部も、池田氏を称揚することに自分たちの活動を見出してきたのです。


その結果、その虚像は引き返せないところまで大きくなってしまい、もはや会員は池田氏を疑うことさえできず、その庶民的な好々爺然たる池田氏の実像との乖離ははるかに大きくなってしまったのです。


それらの虚像を生み出した責任は、信濃町池田氏本人、その両者に帰せられるべき問題でしょう。
だからヨハン・ガルトゥング氏が安保法制について池田氏を諌めるような発言をしても、氏は沈黙することしかできないのかと私は思います。


池田氏も一頃よりも体調を回復され、信濃町の第2別館で過ごすことも多いようですが、実質的に池田氏は現在の信濃町の運営を黙認・容認しているということです。
原田稔さんは昭和54年前後、当時青年部長だった人物です。第一次宗創問題の際に師弟を強調、師匠との血脈ということを当時激しく主張していたのは、他の誰でもない、原田さんでした。
現在の創価学会信濃町の執行部もまた、池田氏を師匠と仰ぎ、氏とともにその尊大な虚像を作ることに腐心してきたと私は考えています。もちろんそれは宗教的な使命感からなされたもので、そこに悪意はなかったと私は考えています。しかしそのために庶民的で親しみのある池田氏の実像は見失われ、大き過ぎる虚像を生み出してしまったのでしょう。


私はやたら戸田会長との師弟とか在家主義とかの正統性を強調するような池田氏の虚像より、親しげで平凡で庶民的な実像の池田氏の方がずっと好きですね。
教義のドグマ化による個人の束縛は、悪意から始まるのではなく、単なる凡人が己を見失って虚飾で偽り始めた時から始まるのだと思います。













日主の文書中の「戒壇本尊」





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私はこのブログで、何度となく大石寺奉安堂の戒壇本尊が後世の偽作に過ぎないことを述べています。


「弘安2年の戒壇本尊は日蓮の造立ではない」

「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」

「興門流の各文書に見る戒壇本尊への疑義」


さらに付言すれば、日興・日目から日道に対して板あるいは紙幅の戒壇本尊が授与された形跡は見られません。


では大石寺の歴史で、最も明確に「戒壇本尊」という名称が出てくるのはいつの文献なのでしょう。
それは大石寺14世日主(1555〜1617)の『日興跡條々事示書』です。これは日主本人の正本が大石寺に現存しています。


「富士四ケ寺之中ニ三ケ寺者遺狀ヲ以テ相承被成候。是ハ惣付嘱分ナリ。大石寺者御本尊ヲ以テ遺狀被成候、是則別付嘱唯授一人ノ意ナリ。大聖ヨリ本門戒壇御本尊、從興師正應御本尊法體御付嘱例者上行薩埵定結要付嘱大導師以意得如此御本尊處肝要ナリ。從久遠今日靈山神力結要上行所傳之御付嘱、末法日蓮・日興・日目血脈付嘱全體不色替其儘ナリ。八通四通は惣付嘱歟、當寺一紙三ケ條之付嘱遺狀者文證壽量品儀ナリ、御本尊者久遠以來所未手懸付嘱也。」
(日主『日興跡條々事示書』日蓮正宗歴代法主全書第1巻、459ページ)

以上が日主の雑録中の『日興跡條々事示書』全文ですが、それまで大石寺の歴史に全く出てこなかった「本門戒壇本尊」の言葉が突然日主から出てきます。


で、これが出てくる背景を見てみると、当時の重須本門寺(北山)は西山との争いで、武田勝頼の軍勢に押入られ、多数の文書を失ったことは史実からもよく知られています。この時、北山側は本門寺本堂に懸けるべきとされていた本尊も失ってしまいます。


つまり本来、日興や日目から日道や日時への相伝の正当性が担保できなかった大石寺方が、この時期に自山の正統を主張するために、戒壇本尊なる考えを持ってきたことは想像に難くないかと思います。


戒壇本尊が後世に創作されたと考えると、その首謀は、大石寺日主、あるいはその周辺なのではないかと推察されることはさほど不自然な推論であるとは私は思いません。





『貞観政要』のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は『貞観政要』(じょうがんせいよう)についてです。




ご存知のない方のために簡単に説明しますと、『貞観政要』とは唐の太宗とそれを補佐した家臣たちとの政治的な問答集です。太宗の死後40〜50年後、呉兢(ごきょう)という名の史家により編纂され、いわゆる支配者のための帝王学として読まれてきました。


日蓮はこの『貞観政要』を常に手元に置き、ここから自身の思想を練り上げていった可能性が高く、日蓮自身が直筆で残した『貞観政要』の写本が北山本門寺に現存しています。



Twitterでも書いたように、日蓮の思想には『貞観政要』の影響が強いです。


例えば富木常忍の忘れ物のことを記した『忘持経事』(真蹟中山)には「桀紂の君は乃ち其の身を忘れたり」(創価学会版御書全集976ページ)とありますが、これはまさに『貞観政要』中の「丘見桀紂之君。乃忘其身』(ちくま学芸文庫版、105ページ)のことを述べているのでしょう。


他にも『貞観政要』の影響は日蓮遺文の各所に多く散見されます。



例えば『富木殿御書』(真蹟中山)には次のような一節があります。


「夫れ賢人は安きに居て危きを歎き佞人は危きに居て安きを歎く」
(前掲書969ページ)


全く同様の一節が『貞観政要』にもきちんと見られます。


「聖人の安きに居りて危うきを思う所以は、正にこれがためなり。安くして而もよく懼る。あに難しとなさざらんや」
(前掲書44ページ)


簡単に『貞観政要』の訳を書きますと

「昔から聖人は『安きに居りて危うきを思う』のは、これがためではあります。国が安泰なときにこそ心を引き締めて政治にあたらなければなりません。それで、私は困難であると申し上げたのです。」
(同43ページ)



繰り替えしになりますが、『貞観政要』は帝王学の書物です。つまり支配者層、そしてその家臣が読むべき本です。
日蓮の思想はこの『貞観政要』を基にし、国が安泰であるために、自身が真の家臣として国家を救済すべきだという視点に主眼が置かれています。
つまり『立正安国論』の思想、それを鎌倉幕府に提出する発想は、この『貞観政要』由来のものだと言えるかと思います。


意外なことですが、この『貞観政要』をきちんと読むことで、日蓮遺文の随所の意味がよく理解できるようになるかと思います。





参考文献:
呉兢『貞観政要』守谷洋訳、ちくま学芸文庫、2015年(初出1975年)




追伸:
ところで、真蹟不存ながら『佐渡御書』の末尾、追伸の部分にこの『貞観政要』の名前が出てくるのは興味深いです。
引用してみましょう。


外典書の貞観政要すべて外典の物語八宗の相伝等此等がなくしては消息もかかれ候はぬにかまへてかまへて給候べし」
(『佐渡御書』前掲書961ページ)


簡単に通解しますと、


外典等の『貞観政要』をはじめとする外典の物語や八宗の相伝書等を送ってくださいませ。これらがなければ手紙も書けないので、ぜひとも送って頂けるよう重ねて申し上げます。」