気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

『七箇相承』の「書くべし」




いつもみなさん、ありがとうございます。


さて『御本尊七箇相承』には「日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(富士宗学要集1-32)と書かれています。



ところで不思議なことなのですが、大石寺系の本尊に「日蓮在御判」の文字はあっても「嫡嫡代々」と書かれた御本尊を見たことがありません。


『御本尊七箇相承』には明確に「書くべし」と書いてあるのに、大石寺の御本尊にはそう書かれていません。しかも根本の戒壇本尊でさえ『七箇相承』の「書くべし」とした指示と違います。



「又本尊書写の事予が顕はし奉るが如くなるべし、若し日蓮御判と書かずんば天神地神もよも用ひ給はざらん、上行無辺行と持国と浄行・安立行と毘沙門との間には・若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号と之を書く可し」
(同32ページ)


「仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるる儘書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」
(同32ページ)


日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」
(同32ページ)




日目の書写本尊では、正中3年書写本尊(小泉久遠寺蔵)も元弘3年10月13日書写本尊(柳目妙教寺蔵)の両者とも「日蓮御判」が書かれていません。両者ともに「日蓮聖人」と書かれています。

大石寺戒壇本尊には「若悩乱者頭破七分」「有供養者福過十号」の文字が書かれていません。

大石寺戒壇本尊には「仏滅度後二千二百三十余年」とは書かれていません。戒壇本尊では「仏滅後二千二百二十余年之間」と書かれています。



『御本尊七箇相承』において「書くべし」とされているのに、そう書かれていないんですね。
『七箇相承』には「之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」とまで書かれているのにも関わらずです。



こういうところからも、大石寺の教義というもののいい加減さがなんとなくわかる気もします。



参考文献:
柳沢宏道『石山本尊の研究』はちす文庫、増補版、2013年。


海外SGI組織の混乱と内紛。




いつもありがとうございます。


さて創価学会内部からさまざまな情報のリークを頂き、本当に感謝しています。
なかなか全ての情報を詳細にお伝えできないもどかしさもあるのですが、可能な範囲でお伝えします。


まず「創価学会会憲」にも記載のある「SGI規約」なるものは、きちんと存在しています。ところが、このSGI規約は非公開であり、規約にアクセスできるのは、ごく一部の幹部に限定されています。複数のルートを通じて私も現在、規約の入手を考えていますし、その時はきちんと公開したいとも思っています。


どうも規約の文言によりますと、「教師」「準教師」の資格を喪失すると、職員として失職することになるようです。つまりこれは一方的に信濃町の判断で職員を解雇できることを意味しています。



またSGIの各国組織はかなり動揺していまして、だんだん当事国の理事長や幹部では統制が難しくなってきていることがわかります。このことはどうも来日の際に信濃町執行部に意見する人が増えてきていることからも推測できます。


ヨーロッパの、とある「A国」では御本尊下付が停止されるほどの内紛が起こっており、危機的な状況になっています。数年前に起こった別のヨーロッパの某国のSGI組織の崩壊に似たものさえ感じさせます。


またヨーロッパの別の「B国」では首都の「グループ」組織が、そのまま丸ごと組織内組織を結成し、分派独立。全国幹部までも一時的にそちらの派閥に所属する事態に至りました。現在、この国は執行部からの派遣があり、表面上は沈静化していますが、いつ火を噴くとも限らない火種を組織内に抱え込んだままです。


またフランス語圏のとある「C国」等では、ある日本グループと接点のある現地会員が、公明党の政策上の矛盾や執行部幹部の不正を告発することまで行っています。


また別のヨーロッパの「D国」は大石寺組織が支援に入り、遠藤文書や会憲の翻訳版まで出回る始末です。


また大石寺組織が「今ならヨーロッパSGI組織を取り込める」と判断し、創価学会組織の切り崩しにかなり活動しています。そのため外国語ができる要員の確保が急務で、信濃町SGI組織の人材の懐柔にまで金が動いているようです。












空海こそ「民衆仏法」



いつも皆さん、ありがとうございます。


さて私は日蓮が民衆と交流した形跡が遺文中に見られず、日蓮がなんら民衆救済に貢献した史実も存在しないことから、日蓮は民衆仏教ではないと考えています。


日蓮は民衆仏法ではない。」

日蓮は民衆仏法ではない。その2」


ところで、創価学会の方の多くが日蓮を民衆仏法であると考えていまして、その根拠を「一切衆生の成仏を明らかにした」とか「一切衆生の成仏と救済の意志を持っていた」とすることが多いです。


ところで、私の素直な疑問なのですが、そもそも仏教の派祖で「一切衆生の救済」を願わない人物など存在するのでしょうか。
もしも「一切衆生の救済」や「民衆の救済・成仏」を「民衆仏法」の根拠とするなら、それはむしろ空海こそ「民衆仏法」と言えるのではないかと考えています。


「即身成仏」という語を日本で最初に紹介・展開した人物は空海であり、一切衆生に仏性が存在し、即身成仏の理論を展開したのは、日本では空海の『即身成仏義』が最初です。
また天長5年(828年)に、空海綜芸種智院と呼ばれる学校を建設しました。当時の教育機関は貴族や郡司等の役人の子弟にしか教育の機会を与えていませんでしたが、空海綜芸種智院は日本で初めて一般民衆、広く庶民に対して門戸を開いた画期的な学校でした。



その意味で考えれば、日蓮を「一切衆生の成仏を願った」からこそ「民衆仏法」と定義するなら、その先駆としてむしろ弘法大師空海こそ真の「民衆仏法」であると私は思います。


日蓮は民衆仏法ではない。その2




いつもみなさん、ありがとうございます。



ところで、以前、私はこんな記事を書きました。


日蓮は民衆仏法ではない」


創価学会の方の多くが日蓮思想とは民衆仏法であると考えていますが、上記の記事を読んで頂けたらわかるように、日蓮は民衆と交流したと思われる形跡はありません。


例えば極楽寺良観(忍性)と言えば、大石寺系教団の方からすれば「親の敵」みたいな極悪の存在ですけど(笑)、実は忍性は貧しい庶民やハンセン病患者等の社会的な弱者の救済をしたことでよく知られているんですね。嘘だと思ったらグーグルででも検索してくださいませ(笑)。「良寛」じゃなくて「極楽寺良観」ですよ。「忍性」という名で出てくるかと思います。
 


では翻って日蓮はどうか。彼は極楽寺良観のように病人のための治療所を作ってもいませんし、身寄りのないものや老人を受け入れる施設も何も作っていません。



加えて日蓮が民衆たちと交流したとか、日蓮が民衆を教化したとか、民衆の救済に尽力したとか、そんな形跡は遺文のどこを探しても見当たりません。
熱原の農民信徒は、日興ら門下の教化によるものです。
例えば『聖人御難事』には熱原農民信徒への言及がありますが、末尾に「さぶろうざへもん殿のもとに」とあり(学会版御書1191ページ)、四条金吾の元に届けられるよう指示があります。また「熱原の百姓等安堵せしめば」(同1456ページ)について言及された『伯耆殿御返事』は日興にあてられた書状なのであって、日蓮は農民たちに手紙など送っていませんし、まして交流した形跡など遺文には存在しません。



例えば日蓮と言えば「辻説法」と言われますが、日蓮の真蹟遺文中には日蓮自身が民衆相手に辻説法をしたという史料は存在しません。この点については創価学会も概ね認めているかと思いますが、鎌倉にある日蓮辻説法跡という史蹟はそもそも後世になって、国柱会の田中智学氏が作ったものであり、実際の遺文にあたれば日蓮が不特定多数の民衆を相手に辻説法をした形跡など全く見られません。



大石寺創価学会の教えてきた先入観でものを見てしまうと、見えないことがたくさんあります。




大石寺系信徒の論難。




いつも皆さん、ありがとうございます。
たくさんの激励や応援のメール、本当にうれしいです! 毎日、心から感謝しています!



ところで、Twitterで最近、大石寺の信徒さんから絡まれて議論になることが多いです。
そもそも私の立論は「大石寺が正しい」とか「学会が正しい」とか、そういうことを前提にしていないんですね。教義で歴史的に改竄されている点や文献的に根拠がない教義について創価学会大石寺の当該の箇所を指摘して批判しているだけです。


ですから「大石寺が正しい」とか「創価学会が正しい」とか主張することは、宗教的な信念として理解できても、それはそれを信じる人にしか通用しないのであり、私はそれを信じていないのです。信じていない人に信じている内容を主張しても無意味かと思いますし。


ジョン・ロールズが指摘したように、正義とは公正としての正義を意味し、最大多数の相互の合意によって形成されるべきものです。宗教的正義は信仰者の一人一人が信念として持っていて自然なことですが、それはやはり不断に更新されるべきもので、それが固定化された時からドグマが始まるのではないでしょうか。


Twitterその他で、多くのご意見をいただきましたが、多くはご理解頂ける方ばかりでした。私を非難中傷されるのは、多くが宗教的な信念からかとは推しますが、その全てが大石寺の信徒の方でした。
私の立場をご理解いただけたメール等を一部紹介したいと思います。



「対話の足場が違っていて、実りのない事なのにお疲れさまです。いまの創価学会や宗門の活動家とは、基本的に対話になりません。彼らの論理は後付けですから。何より『信じきる』が前提ですからね。」


「片や教理とドグマから宗教的情熱に基づいて論難している、片や、活動家としての経験を経た上で、文献も広く読んでおられて、古参・中枢の創価幹部からの見聞を踏まえて醒めた眼で見ておられる。嘆息に耐えない。」


「昨日の大石寺の信徒の方との議論を読ませてもらって、『大石寺系諸団体』って、やっぱり非常識なところなんだな、と改めて思いました。亜流である創価学会の非常識の源を見たような……全速力であの場所から走って逃げて、やっぱり正解だったなと」


「端から見ていて思います。冷静に話が出来ない段階で、相手の方とは議論が成立しないな…と。相手を見下し、貶して、本人の中では『やってやったぜ!』と、自己満足したいだけなのかな…と。この議論(対論?)に、何を求めているのやら」


そうですね。大石寺系信徒さんの特徴として他者を論破して言い負かしてやりたいという視点しか私には感じないんですね。
その姿勢そのものが私には信仰者として誠意あるものと思えないですし、もっと言えば釈迦の門流とも思えません。「相手と言い争ってはならない」とした法華経の安楽行品の精神にも違背していると思います。


「安楽行品について」


本来、言い争いをして相手を論難し、言い負かすことで自宗門の宣揚と考える姿勢は、釈迦の教えでもないし、本来の法華経安楽行品の教えとも矛盾すると私は考えます。




日蓮世界宗の立ち上げを断念。




いつもみなさん、ありがとうございます。


すでに複数のネット掲示板SNSでも明らかになっていますが、信濃町創価学会本部、執行部は、今回の本部幹部会(2017年11月11日〜)において、「日蓮世界宗」の旗揚げを予定していました。


ところが、遅くとも11月9日までには、これらの計画は全て中止。事実上「日蓮世界宗」の立ち上げは頓挫し、先送りとなりました。



すでにネットで多くの情報が流れているように、この原因についてはいくつかの理由があるようです。私のところに寄せられている複数の情報を総合して以下のような推論を私は立てています。もちろん推論ですから確証があるわけではありませんが、少なくとも信濃町日蓮世界宗の表明を企図していてそれが事実上不可能になったことは間違いないかと考えています。



①反対派の台頭
これは以前からあったことですが、副会長クラスで原田会長ら執行部の方針に反対を表明する、あるいは内心で反対を感じている人たちが増えてきていることです。実際今回の衆院選でも神奈川6区を落とし、原田会長の責任を問う声もあがっていたほどです。


②各国SGI組織、また理事長陣の反発
選挙前に伝聞情報ながら、各国のSGI理事長が本部幹部会の日程のない召集がかけられたようです。このこともあって、「日蓮世界宗」の立ち上げにはまだ十分な理解を得られていないようです。信濃町としてはそのための地ならしとしての「会憲」の制定だったのですが、なんらかの反対の声があがったことが考えられます。


③海外の諸法令との整合性
各国SGI組織と信濃町の関係について、法律的な整合性を取ることが国によっては難しく、この関係から表明を断念したとも言えそうです。



信濃町組織に反対する勢力の台頭が目立ってきました。方面幹部の中央批判はまだまださほどさほど見られませんが、信濃町が無視できないほど表面化してくれば、大きなことになるかもしれませんね。




元職員3名の裁判敗北・アカウント削除。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて元職員3名が創価学会員さんから活動費としてすでに3000万円を超える借金をしていることは、彼らのブログでもすでに語られています。


「元本部職員3名の精神性」
「元職員三人の今後の資金繰り」



ところが、彼らの再就職の目標としていた2017年8月を過ぎても、これらについては何も語られていません。彼らのブログでも語られているように「同志の皆さんが身を切って捻出してくださるお金も限界に近づき、今年8月までしか見通しがつかない状況」だったはずです。



それについて、Twitterで質問をしても全く回答はない。またそれに相応するようなブログ記事の投稿もない。誠意ある対応とは私には思えません。
少なくとも同志からお金を借りて、借金で生活をしている以上、責任があるわけですし、それについて何らかの言及がされて然るべきです。


にもかかわらず、Twitterアカウントは「諸般の事情により」削除。さらには


「詳細は省きますが、解雇裁判は負けてしまいました。しかし、学会本部執行部の不当性を証明するために、現在、解雇に至る前段階で下されていた『配置転換』と『譴責処分』に対する、損害賠償請求の裁判を学会本部に対して起こし、係争中です。」


とのことです。
裁判に負け、費用が嵩み、さらにまだ裁判を続けるというわけですが、結局まだ支援者の方の善意で借金をし続けているということなのでしょうか。
私はそれについて、きちんと言及されるべきだと思います。学会本部の特徴として私は何度となくこのブログで「都合の悪いことは言わなくなる」と指摘していますが、本部職員のみならず、この3名の方々も「都合の悪いこと」にはやはり沈黙しているという印象を私個人は受けます。



裁判費用も更に増えることでしょう。
自身の生活費もかかることでしょう。
とすれば、解雇裁判で負けたことについても「詳細を省く」のではなく、きちんと総括し、また資金繰りについても、今後どうしていくのか、なし崩し的に借金を続けて同志を苦しめ、負債を膨らませるのが正しいのか、きちんとご自身で総括をすべきだと私は考えます。
そうでなければ、何の目的もなく、財務と称して金を集め、会員から収奪する本部職員となんら変わらないのではないでしょうか。