気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

大石寺系信徒の論難。




いつも皆さん、ありがとうございます。
たくさんの激励や応援のメール、本当にうれしいです! 毎日、心から感謝しています!



ところで、Twitterで最近、大石寺の信徒さんから絡まれて議論になることが多いです。
そもそも私の立論は「大石寺が正しい」とか「学会が正しい」とか、そういうことを前提にしていないんですね。教義で歴史的に改竄されている点や文献的に根拠がない教義について創価学会大石寺の当該の箇所を指摘して批判しているだけです。


ですから「大石寺が正しい」とか「創価学会が正しい」とか主張することは、宗教的な信念として理解できても、それはそれを信じる人にしか通用しないのであり、私はそれを信じていないのです。信じていない人に信じている内容を主張しても無意味かと思いますし。


ジョン・ロールズが指摘したように、正義とは公正としての正義を意味し、最大多数の相互の合意によって形成されるべきものです。宗教的正義は信仰者の一人一人が信念として持っていて自然なことですが、それはやはり不断に更新されるべきもので、それが固定化された時からドグマが始まるのではないでしょうか。


Twitterその他で、多くのご意見をいただきましたが、多くはご理解頂ける方ばかりでした。私を非難中傷されるのは、多くが宗教的な信念からかとは推しますが、その全てが大石寺の信徒の方でした。
私の立場をご理解いただけたメール等を一部紹介したいと思います。



「対話の足場が違っていて、実りのない事なのにお疲れさまです。いまの創価学会や宗門の活動家とは、基本的に対話になりません。彼らの論理は後付けですから。何より『信じきる』が前提ですからね。」


「片や教理とドグマから宗教的情熱に基づいて論難している、片や、活動家としての経験を経た上で、文献も広く読んでおられて、古参・中枢の創価幹部からの見聞を踏まえて醒めた眼で見ておられる。嘆息に耐えない。」


「昨日の大石寺の信徒の方との議論を読ませてもらって、『大石寺系諸団体』って、やっぱり非常識なところなんだな、と改めて思いました。亜流である創価学会の非常識の源を見たような……全速力であの場所から走って逃げて、やっぱり正解だったなと」


「端から見ていて思います。冷静に話が出来ない段階で、相手の方とは議論が成立しないな…と。相手を見下し、貶して、本人の中では『やってやったぜ!』と、自己満足したいだけなのかな…と。この議論(対論?)に、何を求めているのやら」


そうですね。大石寺系信徒さんの特徴として他者を論破して言い負かしてやりたいという視点しか私には感じないんですね。
その姿勢そのものが私には信仰者として誠意あるものと思えないですし、もっと言えば釈迦の門流とも思えません。「相手と言い争ってはならない」とした法華経の安楽行品の精神にも違背していると思います。


「安楽行品について」


本来、言い争いをして相手を論難し、言い負かすことで自宗門の宣揚と考える姿勢は、釈迦の教えでもないし、本来の法華経安楽行品の教えとも矛盾すると私は考えます。