気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

安楽行品について。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今日の記事は、法華経安楽行品第14(サンスクリット本・第13章「安楽な生活」)から少し引用したいと思います。



「…………このように、求法者の乗物に乗った誰かの心を混乱させるようなことを語らない。そして、彼は教えに関する争いを好まず、また教えに関して争いをせず、しかもすべての人々に対する慈しみの力を捨てることはない。彼はすべての如来を自分の父と思い、すべての求法者を自身の教師と思うのである。そして、この世の十方に求法者がいれば、彼は絶えずかれらに懇願し、かれらを崇め尊んで礼拝する。しかも、彼は教えを説くにあたって過不足なく、教えのいずれの部分にも平等に愛情を注ぐ。まして、この経説を宣揚するにあたっては、教えに対する愛情とはいえ、誰かを特に依怙贔屓することはない。
マンジュ=シュリーよ、この第三の特性をそなえた求法者は、如来が入滅したあとの正しい教えが滅ぶ最後の時世にいるにもかかわらず、この経典を宣揚するが、楽しく交際して暮らし、他を害なうことなく、この経説を宣揚するのである。そして、かれらは彼がこの経説を説くのを聴き、その言葉を信じ、その言葉を頼りとし、それを心にとどめ、理解するとともに、この経説を書き写し、また書き写させ、また一巻の書物として、崇め尊び、敬慕し、供養するであろう。」
(『法華経』(中)岩本裕訳、263〜265ページ)



法華経安楽行品から私が見出すのは本来「教えに関する争いを好まない」信仰者の姿です。
「教えに関する争いをする」のは法華経安楽行品の精神とは違うものだと私は思います。
ましてお互いを口汚く罵りあう大石寺信徒や創価学会信徒が法華経安楽行品の精神に則っているとは到底言えないと私は思います。