気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

摂受と折伏について。

 

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は某読者からメールにてご教示いただき、今成元昭氏の論文を読んで非常に示唆を受けました。
 
今成元昭「教団における偽書の生成と展開」
 
 
今回はこの今成氏の論文を簡単に要約してみましょう。いかに創価学会大石寺たちの言う「折伏」なる語が後世に作られたものか、推察できると思います。
 
 
日蓮折伏本意の人であったということは、もはや日蓮系教団だけでなく、一般に通俗化されています。
今成氏はこの「折伏本意」説の根拠となる次の2点について検証を試みています。
 
①『開目抄』に「邪智・諸法の者の多き時は折伏を前とす、常不軽品の如し」(御書235ページ)としている。
 
②『如説修行抄』は全編折伏行の書である。
 
 
 
まず①の『開目抄』についてです。
実は『開目抄』は日蓮遺文中「摂受・折伏」の語がみられる2番目の作品であって、日蓮自身が「摂受・折伏」ということを自身との関わりの中で述べているのは遺文中わずか4編の御書に過ぎません(『転重軽受法門』『開目抄』『富木殿御返事』『観心本尊抄』)。
 
 
日蓮は『開目抄』において「摂受・折伏」の意義を説明します。日蓮自身は確かに「摂受」だけを認めるのは偏頗な考えであるとしているのですが、最大の問題は日蓮自身が『涅槃経』の「刀杖を執持し、乃至、首を斬る」を根拠に武力・暴力の行使を容認しているという点です。
 
 
つまり日蓮の認識する「折伏」とは武力・暴力の介在を容認するものであり、それは出家者には許されない行為です。
ですから日蓮の考えに即して説明すれば、出家者の役割はその卓越した人格によって「折伏を間接的に出現させる存在」であり、「折伏を直接に行う存在」は、神仏や為政者のことだということです。ですからこの関係について日蓮は『観心本尊抄』で「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す」(御書254ページ)としているのです。
 
 
折伏を前とす、常不軽品の如し」(御書235ページ)とする『開目抄』の一節は、実は古写本には存在しません。
事実、日興が講義した『開目抄要文』(北山本門寺蔵)には存在しません。
最古の写本である日存本(1416年)にもこの一節は存在しません。
その次の平賀本土寺本(1443年)にも存在しません。しかし平賀本には該当部分の行間にこの一節が添加されています。
巷間に広く読まれている岩波文庫版などの『開目抄』にもこの「常不軽品の如し」の一節は存在していません。これは1604年にまだ身延山に現存していた『開目抄』真蹟から対照し、原本に存在しないとした身延山寂照院日乾の判断に依拠しているんですね。
 
 
加えて次の②の『如説修行抄』についてです。
実は『如説修行抄』は全編が偽書の疑いが強いと考えられています。
 
上に見てきたように、日蓮折伏とは国家による武力・暴力の介入を容認する考え方です。そこから考えても思想・言論戦としての「折伏」を強調するような考え方は、日蓮の考え方と異なると言ってよいでしょう。事実『如説修行抄』では智顗の『法華玄義』中の「法華折伏・破権門理」の言葉が何度も登場しますが、日蓮の他の真蹟遺文には見られません。『注法華経』にさえこの引用は存在していません。
 
 
また「如説修行」という言葉がこの御書では13回も使われていますが、他の日蓮真蹟遺文には1箇所も出てこないものです。その点から考えても不自然です。
 
なぜ「如説修行」という語が日蓮の真蹟遺文には使われないのか、この点についても今成氏は説明しています。
今成氏の論文にもあるように「如説修行」という語は『法華経』薬王品を典拠として女性の極楽往生を保証する言葉として流行していました。以前このブログでも指摘しましたように、法華経にはちゃんと阿弥陀仏が出てくるんです。
 
法華経阿弥陀仏って」
 
したがって「如説修行」という言葉をこの時代に日蓮が用いれば、それは「阿弥陀仏の世界の極楽往生」の意味であって、日蓮が念仏者からの批判に晒されてしまうのは明らかです。ですから日蓮真蹟遺文中には「如説修行」という言葉は全く見られないのです。
 
 
詳細については、今成氏の論文を仔細に読んで頂き、ご判断については賢明な読者様にお任せしますが、少なくとも私は「折伏」という語を「思想的な言論戦」とか「信徒を増やすこと」とか「御本尊を送ること」とかそういう意味で使うのは、検討・再考を要することかと思います。
 
 

広宣流布は鳩摩羅什の造語。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて大石寺にせよ創価学会にせよ、日蓮系教団なら誰もが自明のこととして疑わない「広宣流布」なる言葉ですが、これはサンスクリット本には存在しない造語です。


日蓮自身はといえば「後の五百歳に当たって広宣流布の時である」ことを諸抄で語っていますけど、そもそも「広宣流布」という語が出てくるのは法華経では薬王菩薩本事品第23においてです。そしてサンスクリット原典では「後の五十年が経過している間に、このジャンブ=ドゥヴィーパ(閻浮提)に行われて消滅しないように」と書かれています(岩本裕訳、岩波文庫版、下209ページ)。サンスクリット原典にはどこにも「広宣流布」に当たる語は存在しません。


日蓮自身は上行菩薩の再誕であるという自覚を持って「広宣流布」をやるべきだとしていますし、創価学会大石寺信徒さんもそのように考えているみたいですけど、そもそも薬王品で説かれる「広宣流布」は上行菩薩に託されていません。


薬王品において「広宣流布」が託されたのは上行菩薩ではなく、宿王華菩薩です。
以前、このことについては、このブログでも触れました。

法華経阿弥陀仏って」


要するにこの点について、日蓮自身は法華経を原典通り読んでいるのではなく、やや自身に都合の良いように拡大解釈しているわけで、この点について、きちんと説明をしないと教義と法華経との整合性が大石寺創価学会も取れなくなると思いますね。


最初の話に戻りますが「広宣流布」はサンスクリット原典に該当する語が存在しません。つまり鳩摩羅什の造語です。そして広宣流布そのものは上行菩薩に託されてはいません。そのことを語らず、ごまかすことは、信仰者として誠意ある態度とは私は言えないと思います。




生命論からの脱却。




いつもありがとうございます。



さてネットを見ていると、創価学会大石寺の教義の欺瞞性に気づき、独自に思索をされる方が増えているようで、私としてはとても心強いです。
思想の相違はあってよいと思いますし、いろんな考え方を持つ人がたくさん出てきて構わないのだと思います。その中で普遍性がより高い考え方がきっと評価されるはずです。
私のブログがそんなことを思索する一つのきっかけになれているのならば、とても嬉しいです。ありがとうございます。



さて創価学会大石寺の信仰を否定して考える時に、なぜかなかなか脱却できない思考の枠組みがあります。それが生命論です。


「仏教は生命論ではない」


信仰の確信を戸田会長の獄中の悟脱に求め、題目をあげることが大宇宙に遍満する絶対の法と覚知して合一することだと考えているのなら、申し訳ないんですけど、それって仏教じゃありません(笑)。ただのウパニシャッド哲学です。


仏教の究極が生命論に過ぎないのだとすれば、その考え方は真言密教、そしてウパニシャッド思想となんら変わりはないわけで、五重の相対から考えれば内外相対の外道の教えです。


仏教というものは人の生きる道を説くものであって、別に神秘的なものでもありません。
神秘的なものを求めてしまうというのは功徳や罰を信じる信仰者の純粋さなのかもしれませんが、そこから脱却しない限り、いつまで経っても仏教には辿り着かないと思います。


本来の法華経の構成。




いつもみなさん、ありがとうございます。
アクセス数も増え、本当にたくさんの方が見ているのを日々感じています。メールやツイッター等での激励やご意見も本当にありがとうございます。全て確認して見るようにしています。


さて今回は法華経の構成を考えてみたいと思います。


創価学会員さんや大石寺法華講さんが使われる法華経鳩摩羅什(クマラジーヴァ)訳のいわゆる『妙法蓮華経』です。
鳩摩羅什訳は全28品あります。
並べると以下のようになります。


1、序品
2、方便品
3、譬喩品
4、信解品
5、薬草喩品
6、授記品
7、化城喩品
8、五百弟子授記品
9、授学無学人記品
10、法師品
11、見宝塔品
12、提婆達多
13、勧持品
14、安楽行品
15、従地湧出品
16、如来寿量品
17、分別功徳品
18、随喜功徳品
19、法師功徳品
20、常不軽菩薩品
21、如来神力品
22、嘱累品
23、薬王菩薩本事品
24、妙音菩薩品
25、観世音菩薩普門品
26、陀羅尼品
27、妙荘厳王本事品
28、普賢菩薩勧発品



ところで、サンスクリット原典の順番は以下のようになっています。



1、「いわれ」(序品1)
2、「巧妙な手段」(方便品2)
3、「たとえ」(譬喩品3)
4、「意向」(信解品4)
5、「薬草」(薬草喩品5)
6、「予言」(授記品6)
7、「前世の因縁」(化城喩品7)
8、「五百人の僧に対する予言」(五百弟子授記品8)
9、「アーナンダとラーフラの二人および二千人の僧に対する予言」(授学無学人記品9)
10、「教えを説く者」(法師品10)
11、「塔の出現」(見宝塔品11および提婆達多品12)
12、「絶えざる努力」(勧持品13)
13、「安楽な生活」(安楽行品14)
14、「求法者たちが大地の割れ目から出現した」(従地湧出品15)
15、「如来の寿命の長さ」(如来寿量品16)
16、「福徳の区分」(分別功徳品17)
17、「心から帰依することの福徳についての解説」(随喜功徳品18)
18、「教えを説く者の受ける恩恵」(法師功徳品19)
19、「常に軽蔑された男」(常不軽菩薩品20)
20、「如来の神通力の発揮」(如来神力品21)
21、「呪文」(陀羅尼品26)
22、「バイシャジャ=ラージャの前世の因縁」(薬王菩薩本事品23)
23、「ガドガダ=スヴァラ」(妙音菩薩品24)
24、「あらゆる方角に顔を向けたほとけ」(観世音菩薩普門品25)
25、「シュバ=ヴューハ王の前世の因縁」(妙荘厳王本事品27)
26、「サマンタ=バドラの鼓舞」(普賢菩薩勧発品第28)
27、「委任」(嘱累品22)




配列がさまざま異なっていることがわかるかと思います。ここから本来の法華経はどのような構成であったのか、いろんな考え方があります。


提婆達多品は後世の挿入。
これについて以前、ブログにも書きました。サンスクリット原典では「塔の出現」に含められています。
提婆達多について」

嘱累品の配置
以前にも書きましたが、嘱累品第22は本来経典の末尾に置かれていた章節です。岩本裕氏は鳩摩羅什のこの配置について「作為あるいは過誤」を感じるとしています。
「二処三会は存在しない」

③薬王品から妙荘厳王本事品について。
薬王菩薩本事品〜妙荘厳王本事品については、内容がそれまでの法華経と異なることから、後世に添加された章節と考える説もあるようです。ですから鳩摩羅什による「委任」の章の配置は、いっぺんそこで法華経全体を終わらせ、付録として薬王品以下を置いたのではないかという推測も可能です。


法華経の思想といっても、そもそも鳩摩羅什法華経はかなりの意訳・拡大解釈が多く、例えば十如是など本来5種類しか書かれていません。本来の法華経の思想を求めるのであれば、真摯に法華経の実像を求めることが必要なことかと思います。




自身の加担した過去の反省。






いつもみなさん、ありがとうございます。





さて創価学会を批判するブログを見て回ると、一つの傾向が感じられます。
それは

「私は創価学会の被害者であり犠牲者だ」
創価学会は加害者だ」
「だから創価学会は非難されて然るべきだ」

という論調です。


どんなことを論じても自由ですけど、私自身はもともと創価学会のバリバリの活動家でした。
ですから私はかつて加害者だったのです。そして私自身は創価学会の組織に則って散々に他宗を非難して口汚く罵ってきました。
私自身が創価学会の偽善を見抜くことができず、大石寺教学の欺瞞にも気づくことができませんでした。
私のブログの記事は、自身がそれらに加担してしまった、創価学会大石寺のような欺瞞の多い教義に加担してしまった、その反省の上から総括の意味で書かれています。



自分が絶対的に正しくて、悪いのは全て他者であるという考え方は、子どもの議論とさして変わらないと私は思います。
私はそのような一部の創価学会大石寺信徒の持つ、一種稚拙な精神構造に与したくないのです。
かつて自身がそうであったことを私は否定しません。だからこそそういった精神構造であったことを痛烈に反省し、自身を総括していきたいのです。


このブログをお読みの方の一人でも多くの方が、誰かを悪者にして自分が犠牲者であると主張する、そういう姿勢から脱却されることを強く願っています。
創価学会大石寺を悪者にして単に非難するだけなら、精神構造的には他宗を悪者扱いする創価学会大石寺の独善的な姿勢となんら変わるところはないと思います。



日蓮本仏説は後世の創作に過ぎない。






いつもみなさん、ありがとうございます。




釈迦を本仏としていたのは五老僧ではなくて、日蓮本人です。


釈尊を本仏とする文証」


また日興自身、釈迦を本仏と立てていたと私は考えています。


「日興『三時弘教次第』を読む」


大石寺4世の日道もまた釈迦本仏説であったと私は思います。


「日道『三師御伝土代』を読む」



日蓮遺文を虚心坦懐に読めば、日蓮本仏説などというものが出てくるはずがありません。
日蓮本仏説は、保田妙本寺が先行して持ち出してきた教義でして、それが大石寺流入して成立したものに過ぎません。


日蓮本仏説の萌芽」


そもそも釈迦を迹仏として、天台を本仏とする説は、天台恵心流の中古天台口伝法門にある考え方です。その天台の教えを剽窃して、日蓮を釈迦より上位の仏にする教義など、日蓮の実像を歪めるものです。


ところが、大石寺教学に強く染まってしまっている人はそれを疑うことができないんですね。
日蓮の思想でも何でもないものをありがたがって、日蓮の思想と信じる姿勢こそ私たちが否定するべきものかと思います。
大切なことは実像が何かを常に求め続けること、そしてより普遍性の高いものに対しては自身の思想的基盤を更新することも辞さない誠実さかと思います。




活動を悩んでいる方へ。




いつもみなさん、ありがとうございます。
活動を悩んでいる方へ。


会合なんて出なくていいです。
新聞啓蒙なんてしなくていいです。
地区協議会なんて出なくていいです。
本幹も別に出なくていいです。
幹部に指導受けなくてもいいです。
聖教新聞なんて読まなくていいです。
題目あげなくても別にいいです。
信濃町なんて行かなくていいです。
大誓堂なんて行かなくていいです。
脱会してもいいです。
お寺なんて行かなくていいです。
大石寺なんて行かなくていいです。
登山なんてしなくていいです。
御開扉なんて受けなくていいです。
僧侶なんて要りません。
法主なんてもっと要りません。
幹部なんてもっと要りません。
池田先生なんてもっと要りません。
罰とか言う人のこと信用しなくていいです。
悪口しか言えない人は信用しなくていいです。
考えることができない創価学会員なんて信用しなくていいです。
考えることができない妙観講なんて信用しなくていいです。
よくわかんない本尊を拝みたい人は自由に拝んでいればいいんです。
そういう幸せもありますから。
信仰は自由ですから。
結集目標なんて達成しなくていいです。
魔なんてありません。
罰なんてありません。
仏教知らないのに仏教を騙っている人は信用しなくていいです。
10時間唱題会なんて時間の無駄です。
財務なんてしなくていいです。
日蓮を信じたくなかったら信じなくてもいいです。
別の教えに行ってもいいです。
他宗にも立派な方はいますから。
生きることを求めればいいです。
本質を求めればいいです。
学ぶことをやめなければいいです。
自分の力で考えましょう。
うまくいかなくてもいいです。
他人に考えてもらうことはやめましょう。
思考を停止することもやめましょう。
楽しいことをやりましょう。
好きなことをやりましょう。
嫌いなことはやらなくていいです。
苦行なんてしなくていいです。
苦行したかったら六師の説を信じてやってみればそれでいいです。
法主の開眼なんて要りません。
寺の御授戒なんて要りません。
お講なんて行かなくていいです。
供養なんて出さなくていいです。
我慢なんてしなくていいです。
耐えなくていいです。
自分がそれを好きならやればいいです。
私は好きなことを書いているだけです。
批判するのも構いません。
誰かの悪口だけは言わない方がいいです。
民音のコンサートなんて行かなくていいです。
名誉会長の写真展なんて行かなくていいです。
結集なんてしなくていいです。
選挙の支援なんかしなくていいです。