気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

二処三会は存在しない。

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いつもみなさん、ありがとうございます。
今回のテーマは法華経の「二処三会」(にしょさんね)についてです。




わからない方のために簡単に説明しますと、法華経では最初の説法が霊鷲山で説かれます(序品第1〜法師品第10)。そしてその後、宝塔が現れて釈迦多宝が衆生を虚空に引き上げて空中で説法がされます(見宝塔品第11〜嘱累品第22)。その後、もう一度霊鷲山に戻ってきて説法が展開される(薬王菩薩本事品第23〜普賢菩薩勧発品第28)というのが鳩摩羅什訳の法華経の構成になります。


ですから二つの場所で三回説法があるので、このことを「二処三会」と言うんですね。
もう一度図示すると以下のようになります。


霊鷲山会:序品第1〜法師品第10
虚空会:見宝塔品第11〜嘱累品第22
霊鷲山会:薬王菩薩本事品第23〜普賢菩薩勧発品第28


ということになります。


この「二処三会」の原理については池田名誉会長は『法華経の智慧』で「前霊鷲山会→虚空会→後霊鷲山会という流れは、いわば『現実→悟りの世界→現実』という流れ」と説明してきました。


創価学会の指導でもよく「祈った後、現実と対決するのが信心なのよ」という指導がありますが、要するに祈りの世界から現実の世界に戻る、その原理が「二処三会」であるということなんですね。
私は宗教者として原理として「二処三会」には確かに一定の有効性はあると思っています。信仰者が悟りの世界に行きっぱなしだったら現実世界と遊離してしまいますものね。



ただ問題点は法華経には本来「二処三会」の原理はなかったということなんです。
どういうことか説明しますと、実はサンスクリット本では嘱累品第22は本来最終章だったんです。


冒頭の画像を見てほしいのですが、サンスクリット本の法華経では本来「委任」の章は最終章の27番目に置かれています(なお法華経が28品ではなく27品になっているのは提婆達多品第12が後世に挿入されたためで、竺法護の『正法華』でも提婆達多の話は見宝塔品の中に吸収されています)。
岩本裕氏はこの嘱累品の配列について、岩波文庫版の注で次のように書いています。



「この章はサンスクリット語原典では最後の第二十七章であるが、『妙法華』嘱累品第二十二に該当するので、〔二七〕の和訳をここに配置した。文献学的に見て、この配置が正しいというのではなく、ただ便宜的に妥協したにすぎない。(中略)なお、本章の末尾はある経典の末尾の一般的形式と同じであり、従って本章が『法華経』の末尾をなしていると考えるのが妥当である。すなわち、サンスクリット語原典ならびに『正法華』の形式が『法華経』として伝統的に正しいものであり、『妙法華』の章の配列には何か作為あるいは過誤が感じられる。」
(『法華経』(下)岩波文庫版404ページ)




ですから「委任」の章(嘱累品第22)が法華経の末尾であるとすると、虚空会の儀式は最後まで続いたということになりますので、「二処三会」の原理は本来法華経には存在しないということになります。



天台智顗の法華経解釈というのは基本的に鳩摩羅什(クマラジーヴァ)訳の法華経を過信して考えられたものです。
教理を説明するのならば、やはりその前提をきちんと見直してみることが大切かと思います。無批判に摂取して教理を語ってもそれが真実でないのならば、説得力を持ち得ないはずですから。