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デーヴァダッタ(提婆達多)はブッダの晩年に教団の改革案を掲げて反逆したことからいろんなエピソードが語られるようになりましたが、実はこの改革案(五事の戒律)というのは今日に伝えられる限りにおいては、むしろ教団の人たちの生活を厳格に規制しようとした粛清案であって、デーヴァダッタは教団を本来の姿に立ち還らせようとした人であったと考えられています。
事実、デーヴァダッタ派の教団は後世まできちんと存在していたことが知られていまして、7世紀にインドを訪れた玄奘三蔵の『大唐西域記』によれば、ベンガル地方に特殊な礼拝形式を持ったデーヴァダッタ派教団が存在していたことを伝えています。また法顕三蔵も5世紀にネパール国境近くでデーヴァダッタ派教団を見たとされています。
法華経においてブッダとデーヴァダッタとの関係は他の経典と異なり非常に親密に描かれていますが、このことは『法華経』の成立がデーヴァダッタ教団との親密な間柄、もしくは初期の法華経教団とデーヴァダッタ教団とのなんらかの和解を示唆していまして、その結果として提婆達多品が後世に法華経中に組み入れられたと考えられています。
ですから提婆達多が法華経中で天王如来の記別を受けたことは、悪人成仏の根拠として語られることが多いのですが、むしろ伝統的な大乗教団とデーヴァダッタ派との和解の結果、法華経への提婆達多章の挿入があったのだと考えた方が自然だということです。