気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

牛乳瓶の蓋の数珠。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は戸田城聖が獄中で使っていたとする、牛乳瓶の蓋で作られた数珠の話です。
私はこの数珠について、信用性がとても低い話だと考えています。その理由を以下に述べてみます。

 
まず戸田城聖が獄中で牛乳瓶の蓋を使って数珠を作った話の初出は何か。
それは戸田城聖著の小説『人間革命』でしょう(精文館書店、昭和32年)。この中で「牛乳瓶の蓋になつている日附入りの丸いボール紙を糸でつないで数珠の代りを拵えた」(同443ページ)と書かれています。

 
問題はこの時期なのですが、この前後のページを見ると「昭和十八年が暮れて行く十日ばかり前に」(同442ページ)や「明日は大晦日」(同444ページ)と書いてあるので、戸田城聖が牛乳瓶の蓋で数珠を作ったのは昭和18年12月のことであることが推察できます。

ここでの一つの疑問は、数珠の画像から見るに、牛乳瓶の蓋は恐らく30枚程度は使われていることになります。とすると1日に1本の牛乳を飲むと仮定して11月下旬、遅くても12月初頭から牛乳を毎日飲み始めないと、数珠が作れないことになるでしょう。
ところが、戦時中は酪農業が日本国内で崩壊しており、乳幼児や一部の病人にしか牛乳は配給されていませんでした。戸田城聖の獄中書簡を読んでも牛乳を飲むために医師の診断書を請求したような話は一つも出てきません。この点がまず疑念の一つの理由です。
 
戸田城聖の小説『人間革命』を引き続き読むと、昭和19年1月1日から戸田城聖は「牛乳瓶の蓋の数珠」を使って「1日に1万遍の題目を唱える」ことと、「法華経の白文を読む」ということが始まったことがわかります(同446ページ)。

そして無量義経の三十四の「非」を読んで「仏とは生命である」と戸田城聖が「覚知した」とするのが昭和19年3月の初旬です(同447〜449ページ)。

さてそうなると、さらに一つの矛盾が生じます。
昭和18年12月に戸田城聖は牛乳瓶の蓋の数珠を作り、それを使って翌年昭和19年元旦から唱題を始めた。そして同19年3月初旬に「仏とは生命である」という覚知を得たと言うのが創価学会の公式な見解です。
 
ところが、戸田城聖は獄中から夫人に宛てた書簡で、昭和19年2月23日に「数珠の差し入れ」を頼んでいるのです。さらに言えば数珠とともに法華経の講義書の借り入れも頼んでいます(戸田城聖『若き日の手記・獄中記』128〜129ページ、青娥書房、昭和45年)。

これはどういうことでしょうか?
昭和19年元旦に「牛乳瓶の蓋の数珠」で題目を唱え始めた筈の戸田城聖が、なぜ2月23日以降、夫人に「数珠の差し入れ」をお願いしなければならないのでしょうか。
ということは「3月初旬」にあったとされる「仏とは生命であるという覚知」は、牛乳瓶の蓋の数珠ではなく、夫人から差し入れられた数珠を使って題目を唱えた結果、得られたものなのでしょうか?
この年の11月に戸田城聖氏は「牛乳瓶の蓋の数珠」を使って題目を唱え、「地涌の菩薩の本眷属であることを悟った」としますが、その時に使っていた数珠は「牛乳瓶の蓋の数珠」なのか「夫人に差し入れをお願いした数珠」なのか、どちらなのでしょうか?
そんなわけで、私は戸田城聖の「牛乳瓶の蓋の数珠」の逸話は小説上の創作、フィクションに過ぎないと考えています。
 
 
 
追記
実はこの「牛乳瓶の蓋の数珠」を、私は活動家時代に見たことがあります。当時、八王子の東京牧口記念会館内の「牧口顕彰室」にガラスケース入りで展示されていまして、私は牧口常三郎の本尊に唱題した後、同室内でその数珠を見ました。当時は活動家でしたから、それらの逸話を信じていましたが、それでも当時の私の目から見ても「紐が意外に丈夫そう」で「さほど古そうに見えない」印象を受けました。