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さて今回は御本尊の讃文と呼ばれる「仏滅度後二千二百三十余年」の部分を、大石寺55世下山日布が違う表記で書いていた事実についてです。
以前にも記事で書いたところなのですが、これは『御本尊七箇相承』でも言及され「仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」(『富士宗学要集』1-32ページ)とされます。大石寺の相伝書によるなら「讃文」を略して書くことは「大僻見」「不相伝の至極」になってしまうのですが、それにも関わらず、これと異なる書き方が大石寺法主には頻出します。そもそも戒壇本尊自体が「仏滅後二千二百二十余年」と書かれており、相伝と相違してしまいます。
「『仏滅後正像未弘之大本尊』とは」
以下に大正3年3月大安日、日布書写本尊の画像を挙げます。
この本尊には明確に「仏滅後正像未弘之大漫荼羅」と書かれています。
ちなみに「仏滅後正像未弘之大本尊」や「仏滅後正像未弘之大漫荼羅」と書かれた本尊の例は、日蓮や日興書写本尊中には全く存在しません。しかも『御本尊七箇相承』とも相違する「大僻見」「不相伝の至極」の本尊となってしまいます。