気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

生活革新同盟倶楽部と創価光学レンズ製作所。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今回は高橋篤史氏の『創価学会秘史』(講談社、2018年)の内容から、牧口常三郎初代会長の頃の創価教育学会を資金面で支えていた「生活革新同盟倶楽部」と戸田城聖の事業、そして「創価光学レンズ製作所」のことを簡単に紹介して書いてみようと思います。



1940年、創価教育学会の戸田城聖は、日本小学館に続いて大道書房という新たな出版社を立ち上げます。
この頃から戸田城聖は新規事業へ力を注いでいくようになります。
1940年7月、戸田は稲葉伊之助とともに代表取締役となって「日本商手」という金融会社を設立します。稲葉伊之助氏は初期の頃から創価教育学会の賛助会員でして、前年の1939年7月に稲葉伊之助の二女・貞子は、牧口常三郎の三男・洋三と結婚しています。
また日本商手の取締役には戸田城聖の公認の愛人である森重紀美子も携わっていました。戦後の大蔵商事のような金融業にすでに当時から戸田城聖は関わっていたことになります。



「大蔵商事のこと」



またこの年の10月には日本商手に続く金融会社として「双葉産業」を設立します。この会社の経営を仕切っていたのは実業家で創価教育学会の会員だった岩崎洋三(本名・武)でした。
岩崎洋三は当時の創価教育学会の実業家グループの一人で、「愛国紙紐」という紙紐製造の合資会社も持っていました。この「愛国紙紐」と「双葉産業」が本社を構えていた、東京西神田に当時は創価教育学会の本部があったのです。創価学会本部が信濃町に移転するのは戦後のことです。



「日本商手」は神田区錦町に社屋がありまして、1940年8月、ここの2階を会場にして戸田城聖を筆頭に30人余りの実業家が集まるようになります。これが「生活革新同盟倶楽部」という集まりです。



牧口常三郎創価教育学会の活動の目標に「大善生活法」という現世利益主義を挙げましたが、これを最も体現していたのが「生活革新同盟倶楽部」という実業家グループでした。
この頃、会員の間では実業に対する熱がかなり上がっていたようで、例えば創価教育学会の理事で教師の寺坂陽三(旧姓・有村)は、同郷の木下鹿次と共同で、京橋区入船町で「創価精機工業所」の経営に乗り出し、また三井生命保険日産火災保険の代理店も兼業していました。


ところで、創価教育学会員の藤森富作が経営する「創価光学レンズ製作所」という会社が存在していたのですが、戸田城聖はここに目をつけるようになります。
当時は日本軍が南方に進出し、日本小学館の事業が右肩上がりを続けていました。この頃の日本小学館の『小国民日本』の記事は以前に書いたところです。



戸田城聖氏の帝国海軍への賛辞」



この頃の史料を見ると、戸田城聖氏に戦争反対や絶対平和主義的な考え方は見られません。実は戸田城聖はこの時、軍需産業に参入することさえ考えていました。
1942年7月、戸田城聖は藤森富作の経営する「創価光学レンズ製作所」の経営権を譲り受け、資本金6万円をもって有限会社とし、自身が社長に就任します。有限会社化したのは資金集めが目的で、戸田は出資証券を投資家に売るようになります。



ところで、高橋篤史氏の著作によれば、この時の横浜市内の資産家に宛てられた趣意書が神奈川県立公文書館に保存されていることがわかっています。この中には次のように書かれています。



「然シテ我ガレンズ業ノ将来ハ光学兵器ノ発達ト各種ノ産業工鉱業ノ進歩ニ伴ヒ其ノ重要性ヲ有スルモノニシテ殊ニ大東亜共栄圏ノ確立ニ依ル南洋方面ノ需要ニ応スルノ義務ヲ遂行スル時ハ現在我ガ国生産額ヲ数倍増加スルモ到底充分ナル供給ヲナシ得ザル事疑ナシ」



この戸田城聖による「趣意書」には「大東亜共栄圏」という言葉も見えます。ここには戦争反対する姿など微塵も見られません。
レンズは眼鏡だけでなく、照準器や測距儀などにも使われます。戸田城聖はそこに目をつけて軍需産業への参入も考えていたということになります。




参考文献
高橋篤史『創価学会秘史』講談社、2018年