いつもみなさん、ありがとうございます。
「歴史的役割の終わり」
「存在意義の終焉」
「上部構造としての創価学会」
創価学会や大石寺が個々の信仰者の研鑽や努力によって、 真に人間的な宗教法人へ変われる可能性もあったのかもしれません けど、結果として教団は教義の深化を軽視し、 自らの教団内部の論理に閉じこもってしまったように感じます(とはいえ以前からすでにそうだったのかもしれないのですけどね・笑)。 そして既得権益が教団幹部たちや聖職者側に発生し、 その維持に汲々としているのが実態であるとするなら、個々の信仰者が教団に貢献できる部分など、金銭面での奉仕と教勢の拡大くらいしか存在しないわけです。
その中で自分が信じたいものを自分で選び取ればそれでよいのでは ないかと考えています。
私は別に教団に奉仕するために信仰をしているわけではありませんし、教団の教勢を拡大するために信仰活動をするわけでもありません。
布教や奉仕は手段になり得るのかもしれませんが、それは目的ではありませんし、だいたい私はそんなことをしたいとは思いません。
私は別に功徳がほしいとも思いませんし、罪障消滅のために寺に行こうとも思いません。そもそも私に「謗法罪障」が存在するなどという教義を私は信じませんし、教団幹部や僧侶が私の信仰に必要とも思いません。
創価学会とか大石寺とかいう教団自体が私にとっては不要の存在です。当然ながら池田大作氏も別に私は必要としていませんし、法主も板曼荼羅もなくて構いません。そのことを理解されない教団活動家さんには、よく認識して頂きたいものですが、そんな本音を語ると多くの場合、「堕地獄必定」とか「地獄に落ちろ」とか「仏罰を怖れよ」とか、脅迫めいた発言しかできない信徒さんにほとほと飽き飽きしました(笑)。
教団や寺の語る教義を信仰の本質とは考えていないという私の基本姿勢を、私はこのブログで再三述べているかと思います。けれどもそれを認めることができず、狂信的に寺や教団、またその指導者を否定する人を、罵詈雑言で非難するしかできないのが大石寺系信徒さんの特徴のように思います。