気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

信じるものを自分で選び取る。

 

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて私は、創価学会も含めて大石寺系教団そのものも批判しますが、それを信じたのも所詮自身の責任であると考えています。
もはや創価学会とか大石寺とかの教団は、社会的使命を終えたのであって、私たちは昭和の歴史の中で、必死に教団のセーフティーネットに助けられながら生きてきただけなのだと私は考えています。
 
 
 
「歴史的役割の終わり」
 
「存在意義の終焉」
 
「上部構造としての創価学会
 
 
 
創価学会大石寺が個々の信仰者の研鑽や努力によって、真に人間的な宗教法人へ変われる可能性もあったのかもしれませんけど、結果として教団は教義の深化を軽視し、自らの教団内部の論理に閉じこもってしまったように感じます(とはいえ以前からすでにそうだったのかもしれないのですけどね・笑)。そして既得権益が教団幹部たちや聖職者側に発生し、その維持に汲々としているのが実態であるとするなら、個々の信仰者が教団に貢献できる部分など、金銭面での奉仕と教勢の拡大くらいしか存在しないわけです。
 
 
私は活動家時代、自分の研鑽が創価学会大石寺信仰の再解釈になり得ると勘違いしてきました。所詮それらは私の安易な思い込みだったのですから、後は私の中で研鑽し、答えを出すことに努力していくだけです。
 
 
その中で自分が信じたいものを自分で選び取ればそれでよいのではないかと考えています。
私は別に教団に奉仕するために信仰をしているわけではありませんし、教団の教勢を拡大するために信仰活動をするわけでもありません。
布教や奉仕は手段になり得るのかもしれませんが、それは目的ではありませんし、だいたい私はそんなことをしたいとは思いません。
 
 
自分が求めるものの中に創価学会大石寺といった教団の存在は、私にとっては不要です。
私は別に功徳がほしいとも思いませんし、罪障消滅のために寺に行こうとも思いません。そもそも私に「謗法罪障」が存在するなどという教義を私は信じませんし、教団幹部や僧侶が私の信仰に必要とも思いません。
 
 
 
創価学会とか大石寺とかいう教団自体が私にとっては不要の存在です。当然ながら池田大作氏も別に私は必要としていませんし、法主板曼荼羅もなくて構いません。そのことを理解されない教団活動家さんには、よく認識して頂きたいものですが、そんな本音を語ると多くの場合、「堕地獄必定」とか「地獄に落ちろ」とか「仏罰を怖れよ」とか、脅迫めいた発言しかできない信徒さんにほとほと飽き飽きしました(笑)。
 
 
教団や寺の語る教義を信仰の本質とは考えていないという私の基本姿勢を、私はこのブログで再三述べているかと思います。けれどもそれを認めることができず、狂信的に寺や教団、またその指導者を否定する人を、罵詈雑言で非難するしかできないのが大石寺系信徒さんの特徴のように思います。