気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

とあるブログの方への回答。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて今回は、とある方のブログの書き込みにお答えする内容でやや私的な内容になってしまいます。すみません。



昨年2017年の収穫を総括される中で、それが私の「気楽非活ブログに出会えたこと」であるとお答え頂いたことに本当に感謝します。確かに正確に申しますと、このブログの開始は一昨年2016年からでした。


「それが静かなスタートだったが、回を重ねる毎に恐ろしく濃いブログになり、毎日、日付が変わると、気楽非活のブログを訪問せずには寝られなくなった」とのこと。
あまり気にせずに寝てくださいませ(笑)。


確かに当初は「気楽に語ろう」と銘打ったこともあり、記事の内容もややお気楽でした(現在もなお私の気楽な"のほほん"とした性格は大して変わってないかもしれませんが・笑)。
私は青年部時代に日蓮の遺文を読むことに明け暮れ、また広宣部・言論企画部で他宗対策に深く携わったこともあり、読むことだけは人一倍好きでした。
ただもちろん、そんなに学問的にきちんとした例証ができないことも多く、自身の力のなさ、歯痒さを感じていたことも事実です。
ですから本当に「気楽に」書ければいいなと考えて、ブログのタイトルにしたのです。



最初の最大の理解者は長井秀和さんでした。
その後、長井秀和さんと個人的に会う機会も頂き、一緒に創価学会について自由に語り合うイベント等もやりました。驚くことに、この集まりでさまざまな問題意識を抱えている人が多くいることに気づき、改めて学ばされることもたくさんあったんですね。


私を「ものすごく専門的な教学の知識と、草創期の活動家の父を持ち」とありました。私はともかくとして、確かに父は教学に関しては本物でした。
父のことをここであまり詳しくは語れないのですが、父と教学の面で話した時に当時20代の私はバッサリコテンパンに言い負かされてしまったものです(笑)。
都内には父に指導を受けて、父を尊敬していた人も多かったようです。東京から離れた後も、わざわざ指導を求めて父を訪ねにやってきた人がいたことを私は子ども心に覚えています。



「広宣部でお寺に潜入とあったが、実際、寺の出入りを撮影されたことがある」とのこと。失礼な行為を代わって謝罪したいと思います。私もそんなことは平気でやっていました。
現在の法華講は出入りのチェックが厳しいそうですが、もしも現在でバリバリの広宣部員が存在するなら偽装工作して平気で退会者を装って勧誡を受け、そしらぬふりで寺に潜入することなど、朝飯前だと思います。それくらいの人たちがたくさんいましたから。


「気楽非活のブログは感情を抑え、事実を並べて、あとは読者に判断を委ねる姿勢がよい」とのことですが、これは私自身が気をつけている点でもあります。
法論まがいのことをすると、経験上互いが「思うこと」のぶつけ合いになります。それでは会話は進展しませんし、こと宗教に関しては不毛な論争になることが多いです。
ですから、書いてあること、史料や確実な史実に基づいて語る、その上で歴史を構成するというのが、正しい歴史学の在り方であり、それを理想とする時に自ずとある程度の一致点を見出せるのではないでしょうか。


「感情を排除して、ブログを書けるようになるまで、気楽非活さんの中に嵐が吹き荒れた時もあったのではないか」とのことですが、確かにその通りです。"そこまで書いていいのか"という煩悶もありましたし、読者からも"そこまで書くことはないのではないか"というご批判を頂いたことも事実です。ただ私の中で最終的な基準になったのは、やはり遺文であり、経典であり、書いてあることです。遺されたものは動かせませんから、動かせない事実から真実を描き出すことでしか私は前に進めないと考えていました。今でもその気持ちに変わりはありません。



「気楽非活さんのお陰で"法華経・御本尊・宗門・日蓮仏法に関する闇雲な畏怖心"から卒業できた」とのことですが、とても嬉しかったです。
仰る通りで、本来宗教は人の心を縛り付けるものではなく、人の心を自由にするものでなければならないでしょう。
教団が自由に思索することを軽視したり、考えることを止めるようなら、それは真実の信仰であるとは言えないと思います。
そのような煩悶を越えて求めた時に初めて、自身の生きるべき羅針盤のようなものを掴めるのではないでしょうか。
どこかの教団の形骸化した教義を信じて、どこかで思索することをやめてしまえば、考えないで空想のドグマに縛り付けられ、借り物の真理で満足するだけの人間に成り下がります。宗教にはそのような醜い側面があるのだということを、私たちは創価学会員として、また法華講員として散々に見てきたはずです。
私はそんなのはもうたくさんです。


凝り固まった教義で他人を罵倒し、親類を傷つけ、悲しい思いをさせるのは私の世代まででもう充分です。
人を罰という言葉で縛り付ける教義などもうたくさんです。



私は父も母も亡くしました。親類もみな亡くなりました。親類同士で骨肉の争をしてきたことを私は幼少時からこの目で見てきました。
両親の心中の痛みを思うと、私は今でも胸が張り裂けそうになります。



私は広宣部・言論企画部に所属して「学ぶ」という悪魔のような武器を手に入れました。
たくさん法華講さんとも顕正会さんとも私は対論をしてきました。
けれど、私は人間の心を失いませんでした。それはきっと母と父の存在が大きかったのだと思います。
私たちの心にはきっと悪魔も住んでいるのでしょう。私は自分のことだからよくわかります。
私は褒められたような人間ではありません。醜い悪魔のようなものです。
しかしそのことを自覚して、真摯に生き直すことは誰にも許されているのではないでしょうか。
人間なのですから間違いがあるのは普通のことです。私はそこから逃げないで生きていきたいです。
誰かを悪者にして、彼らに罪をなすりつけて自分を正当化して生きるのは私の方法ではありません。
彼らも誤ったのかもしれません。しかし私も誤ったのです。



本年もどうぞよろしくお願いします。
返事が遅くなったことをお詫び申し上げます。
何かありましたら、気楽非活のメールでもツイッターでもいつでもご意見を頂ければと思います。
いつも本当にありがとうございます。心から感謝しています。
どこまで書き続けられるのか私にはわかりません。けれど可能な限り思索して書き続けていきたいと願っています。






追記:
たくさんのメール、Twitterでのご意見、DMなどはたくさん頂いており、連絡頂いた方全員に返信ができていないのが申し訳ないのですが、何かありましたらいつでも連絡くださいませ。
いつもありがとうございます。